「函館港春夜光景」の創作 1924(大正13)年5月19日
   

「函館港春夜光景」の創作
1924(大正13)年5月19日




『春と修羅』の中に「函館港春夜光景」と題された詩があります。 この詩は賢治が花巻農学校の生徒達と北海道に修学旅行に行った時に詠まれた歌です。

『春と修羅』第二集 一一八 『函館港春夜光景』より前半を抜粋
地球照のある七日の月が、           
海峡の西にかかって、             
岬の黒い山々が                
雲をかぶってたゝずめば、           
そのうら寒い螺鈿の雲も            
またおぞましく呼吸する            
そこに喜歌劇オルフィウス風の、        
赤い酒精を照明し、              
妖蠱奇怪な虹の汁をそゝいで、         
春と夏とを交雑し               
水と陸との市場をつくる            
  ……………………きたわいな        
  つじうらはっけがきたわいな        
  オダルハコダテガスタルダイト、      
  マオカヨコハマ船燈みどり、        
  フナカハロモエ汽笛は八時         
  うんとそんきのはやわかり、        
  かいりくいっしょにわかります       
海ぞこのマイクロフィスティス群にもまがふ、  
巨桜の花の梢には、              
いちいちに氷質の電燈を盛り、         
朱と蒼白のうっこんかうに、          
海百合の椀ゐ示せば              
〔釧〕路地引の親方連は、           
まなじり遠く酒を汲み、            
魚の歯したワッサーマンは、          
狂ほしく灯影を過ぎる             

この時の賢治たちの旅のスケジュールは次のとおりでした。 この詩「函館港春夜光景」の日付は1924年5月19日となっています。また他の記録からも確かにこの日 函館にいたことがわかります。この日の函館の夕刻の空をシミュレートしてみました。 すると月齢15(満月)の月が東の空に昇り始めていることが判明しました。しかし、詩の先頭部分では「地球照のある七日の月が、」で始まっています。 つまりこの詩はいつもの賢治らしい「写実的風景」ではなく、「賢治の創り出した風景」が描かれていることがわかります。
「宮澤賢治研究業書2賢治地理」の中で小沢俊郎氏は詩の日付について「当日制作の場合」「あとで追体験して 作った場合」「当日のメモをあとから推敲した場合」などの状況についてかなり幅を持って考えなくてはならないのが原則、と指摘しています。 また、「国文学6年4月号」では天沢退二郎氏が『春と修羅』第一集から第二集へ-日付と作品番号をめぐって-というタイトルで興味深い研究が 報告されています。
「証言宮澤賢治先生」佐藤成著に、青森から花巻へと向かう列車の中で、窓ぎわに座っていた賢治が、大切に持ち 歩いていた手帳を何かのはずみに窓から落としてしまい、「宮沢先生はずいぶんとくやしがっておられた。」という生徒の回想が寄せられていました。 もしかするとその手帳に修学旅行中の作品があり、後日記憶を頼りにまとめた結果が「賢治の創り出した風景」となったような気がします。 (少し脱線気味の推理お許し下さい。)
詩の中で「喜歌劇オルフィウス風の、赤い酒精を照明し」という部分があとに続きますが、この晩の月の北側 にはこと座(オルフィウスあるいはオルフェウスのたて琴)の1等星ベガが輝いていましたので、「オルフィウス」という言葉の発想のヒント になったのかも知れません。但し、賢治が想い描いたのはギリシャ神話の方ではなく、オッフェンバックのオペレッタの主人公に由来 しているようです。それから月が地平線からすうっと昇り出した様子が大気による減光のため赤銅色に染まり「赤い酒精を照明し」という 表現に結びついたとも想像できます。
詩の最後に「ワッサーマン」つまり星座の「みすがめ座」をさす言葉(主に英国などで使われる)が登場しています。 しかし「宮沢賢治と星」で草下先生が述べているとおり、単に「水夫」を指していると考えた方が自然のようです。


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