「晴天恣意」の創作 1924(大正13)年3月25日
   

「晴天恣意」の創作
1924(大正13)年3月25日




『春と修羅』第二集の中に「晴天恣意」と題された詩があります。 賢治は3月23日に農学校の卒業生を送りだしたあと、翌24日より鱒沢、五輪峠、人首、水沢と歩き、人首では 林業指導を、また水沢では緯度観測所に立ち寄っています。
下書き稿(一)には「(水沢臨時緯度観測所にて)」、下書稿(二)には「(水沢緯度 観測所にて)」と傍題がつけられていた経緯があるとおり、当時賢治の最も身近にあった天体観測所として水沢 緯度観測所が登場しています。

『春と修羅』第二集 十九 『晴天恣意』
つめたくうららかな青穹のはて           
五輪峠の上のあたりに               
白く巨きな仏頂体が立ちますと           
数字につかれたわたくしの眼は           
ひとたびそれを異の空間の             
高貴な塔とも愕ろきますが             
畢竟あれば水と空気の散乱糸            
冬には稀な高くまばゆい積雲です          
とは云へそれは再考すれば             
やはり同じい大塔婆                
いたゞき八千尺にも充ちる             
光厳浄の構成です                 
あの天末の青らむま下               
きらゝに氷と雪とを鎧い              
樹や石塚の数を持ち                
石灰、粘板、砂岩の層と、             
花崗斑糲、蛇紋〔〕の諸岩、            
堅く結んだ準平原は、               
まこと地輪の外ならず、              
水風輪は云はずもあれ、              
白くまばゆい光と熱、               
電、磁、その他の勢力は              
アレニウスをば俟たずして             
たれか火輪をうたがはん              
もし空輪を云ふべくは               
これら総じて真空の                
その顕現を超えませぬ               
斯くてひとたびこの構成は             
五輪の塔と称すべく                
秘奥は更に二義あって               
いまはその名もはゞかるべ〔き〕          
高貴の塔でありますので、             
もしも誰かゞその樹を伐り             
あるひは塚をはたけにひらき            
乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと
かういう青く無風の日なか             
見掛けはしづかに盛りあげられた          
あの玉髄の八雲のなかに              
夢幻に人は連れ行かれ               
見えない数個の手によって             
かゞやくそらにまっさかさまにつるされて      
槍でづぶづぶ刺されたり              
頭や胸を圧し潰されて               
〔醒〕めてはげしい病気になると          
さうひとびとはいまも信じて恐れます        
さてそのことはとにかくに             
雲量計の横線を                  
ひるの十四の星も截り               
アンドロメダの連星も               
しづかに過ぎるとおもはれる            
碧瑠璃の天でありますので             
いまやわたくしのまなこも冴え           
ふたゝび陰気な扉を排して             
あのくしゃくしゃな数字の前に           
かゞみ込まうとしますのです            

童話「銀河鉄道の夜」を読んだあとに、この詩のほぼ最初の部分を読むと、何か 気にかかる部分があるはずです。「銀河鉄道の夜」に登場する『天気輪の柱』との共通性です。このことは 従来から研究者により指摘されていた部分ですが、「五輪」と「天気輪」、また「白く巨きな仏頂体が立ちますと」 と、柱が立ちががるような記述、そして「ひとたびそれを異の空間の 高貴な塔とも愕ろきますが」と別な世界への 入り口とも思える表現....、賢治はこの時『天気輪の柱』のイメージをすでに思い描いていたかのようです。
「雲量計の横線を ひるの十四の星も截り」と書かれていますが、下書稿(一)では 「天頂儀の蜘蛛線を」と書かれていました。これは、水沢緯度観測所に立ち寄った際に、天頂儀を見学し、その 時の印象を詠んだ部分です。文章の流れから星を測定するのであれば、雲量計ではなく、下書稿(一)に書かれている とおり、「天頂儀」が正しいことになります。天頂儀とは、子午儀、子午環などと共に星の正確な位置を測定するこ とを目的とした、主に天頂付近の恒星の位置を測定する望遠鏡です。
では、「雲量計」とは何か....? 草下英明著「宮澤賢治と星」の中で「『晴天恣意』 への疑問」補註として、須川力(前緯度観測所長)著「星の世界 宮沢賢治とともに」を引用し、解説されています。 それによると、緯度観測所構内に「櫛形測雲計」という設備があり、実際には雲量を眼視する際の範囲や方向の目安にする 器具で、雲量計ではないが、それを「雲量計」として速断したらしいとの説明があります。
「星の世界 宮沢賢治とともに」の中では、次の「ひるの十四の星も截り」について、当時の 観測所で一晩に観察する恒星の数は原則として24星であり、それを賢治が誤って14と思い込んでいたのではないか、 と説明しています。 天頂儀による実際の観測方法は、望遠鏡の視野にある十字線(十字線は賢治が書いたとおり蜘蛛の糸でできている) を、星が横切る時間を正確に測定するという簡単なものです。 従って「アンドロメダの連星も しづかに過ぎるとおもはれる」というのは、望遠鏡の視野の十字線の上を「アン ドロメダの連星も静かに通りすぎていると思われる」という賢治の推測によるものと考えられます。 (但し、ただ単に星が通過するという立場からすると、別に天頂儀である必要性はなく、賢治のいう「雲量計」であっても なんら問題はないと須川氏も述べています。)
下の写真は、賢治が観測所を訪問した当時の天頂儀です。1899年に眼視天頂儀室に おさめられたものです。


眼視天頂儀
ドイツ・ワンシャフ社製 口径108mm 焦点距離1289mm
(写真:緯度観測所75周年誌)

「アンドロメダの連星」とは、アンドロメダ座の有名な二重星の「アルマク」(ア ンドロメダ座γ星)のことでしょう。この星は吉田源治郎著「肉眼に見える星の研究」にも「アルマクは、距離十秒 を隔てた三等星の黄星と、五等星の青星から成る、周期五十年の美しい連星であります。」と紹介されています。また、 下書稿(一)では、この星を「わたくしの夏の恋人、あの連星も」と書いているのも興味深いです。賢治はこの星をどこ かできっと覗かせてもらっていたことでしょう。
「ふたゝび陰気な扉を排して あのくしゃくしゃな数字の前に かゞみ込まうとしますのです」、これも一見意味 不明と思われるしぐさですが、「星の世界 宮沢賢治とともに」のなかの考証によると、

ふたゝび陰気な扉を排して」眼視天頂儀室に入り込み、        
あのくしゃくしゃな数字」の書かれた観測帳の置いてある、回転椅子に 
かゞみ込まうとしますのです」                   

と説明がつくといいます。これは驚きですね。
さて、シミュレーション画面ですが、水沢緯度観測所の位置でのアルマクの子午線通過 時間を測定してみました。画面は昼間の大気光を消して星が見えるように表示設定されています。大きな曲線が子午線、 太陽や水星、金星などが見えています。1924年3月25日のアルマクは、13時25分に子午線通過することがわかります。 但し、ここで実証できたわけですが、賢治が星座早見盤などを利用し、そこまで考えて創作したのか?というと、むしろ 「アンドロメダの連星」に寄せる想いが先にあり、「しづかに過ぎるとおもはれる」と単に推察していたと考える方が自然 ではないか....、と思います。
この詩の前半で語られる、仏教の五輪の思想に由来する賢治の説明がありますが、その 中で、スウェーデンの天文学者アレニウスの名が出てきます。宮沢賢治語彙辞典によれば、地球外からの生命がやってき たこと、太陽系の成因を衝突説で説明するなど、さまざまな研究を行い、賢治の愛読した片山正夫著「化学本論」にもた びたび登場したと記されています。
なお、この水沢緯度観測所は、賢治の童話「風野又三郎」「土神と狐」などにも登場して います。中でも初代所長は「Z項」を発見し、日本の天文学を世界に示した木村栄理学博士で、「風野又三郎」にも実名で 登場しています。余談ですが、1925年1月15日より花巻農学校にて「岩手国民高等学校」が開設され、課外講演として 木村博士が「緯度観測」を、また賢治は「農民芸術」の講師として講義を11回行っています。


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