「風の偏倚」の創作 1923(大正12)年9月16日
   

「風の偏倚」の創作
1923(大正12)年9月16日




『春と修羅』の中に「風の偏倚」と題された詩があります。 この詩は、9月16日に花巻の西方、花巻電気軌道沿いの松倉山方面へ出かけた時に創作された4編のうちの一つです。 作品番号順に「宗教風の恋」「風景とオルゴール」、この「風の偏倚」 そして「昴」があります。

詩『風の偏倚』
風が偏倚して過ぎたあとでは           
クレオソートを塗つたばかりの電柱や       
逞しくも起伏〔す〕る暗黒山陵や         
  (虚空は古めかしい月汞にみち)       
とぎ澄まされた天河石天盤の半月         
すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が     
すきとほつて巨大な過去になる          
五日の月はさらに小さく副生し          
意識のやうに移つて行くちぎれた蛋白彩の雲    
月の突端をかすめて過ぎれば           
そのまん中の厚いところは黒いのです       
(風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある)  
きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ断雲と    
星雲のやうにうごかない天盤附属の氷片の雲    
  (それはつめたい虹をあげ)         
いま硅酸の雲の大部が行き過ぎようとするために  
みちはなんべんもくらくなり           
   (月あかりがこんなに道にふると      
    まへにはよく硫黄のにほひがのぼつたのだが
    いまはその小さな硫黄の粒も       
    風や酸素に溶かされてしまつた)     
じつは空は底のしれない洗ひがけの虚空で     
月は水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできてゐる
   (山もはやしもけふはひじやうに峻儼だ)  
どんどん雲は月のおもてを研いて飛んでゆく    
ひるまのはげしくすさまじい雨が         
微塵からなにからすつかりとつてしまつたのだ   
月の彎曲の内側から               
白いあやしい気体が噴かれ            
そのために却つて一きれの雲がとかされて     
  (杉の列はみんな黒真珠の保護色)      
そらそら B氏のやつたあの虹の交錯や顫ひと   
苹果の未熟なハロウとが             
あやしく天を覆ひだす              
杉の列には山烏がいつぱいに潜み         
〔ペ〕ガススあたりに立っていた         
いま雲は一せいに散兵をしき           
極めて堅実にすすんでゆく            
おゝ私のうしろの松倉山には           
用意された一万の硅化酸流紋凝灰岩の弾塊があり  
川尻断層のときから息を殺してまつてゐて     
私が腕時計を光らし過ぎれば落ちてくる      
空気の透明度は水よりも強く           
松倉山から生えた木は              
敬虔に天に祈つている              
辛うじて赤いすすきの穂がゆらぎ         
  (どうしてどうして松倉山の木は       
   ひどくひどく風にあらびてゐるのだ     
   〔〕あのごとごといふのがみんなそれだ)  
呼吸のやうに月光がまた明るくなり        
雲の遷色とダムを超える水の音          
わたしの帽子の静寂と風の塊           
いまくらくなり電車の単線ばかりまつすぐにのび  
 レールとみちの粘土の可能性          
月はこの変厄のあひだ不思議な黄いろになつてゐる 

この日賢治は、五間森(ごけんもり)に木を切りに行き、豊沢川沿いの道を花巻電気軌道の 松原駅まで歩きそこから電車で帰花しています。(栗原敦著「宮沢賢治透明な軌道の上から」による) そのうち「風の偏倚」は、松倉山付近を過ぎ、道が南に大きくカーブし、志戸平温泉付近を通過するころの様子が描かれて います。
この日の花巻での日没の時間などを計算してみると、

日の入  17時46分    
薄明終了 19時16分    
月の入  21時36分    

となっています。前作の「風景とオルゴール」に引き続きの時間帯です。 日没後から薄明終了の頃までが、この詩の詠まれた時間帯となるでしょう。
シミュレーションした画面は19時の南西の空のものです。これは、ぼぼ賢治の進行方向に 対して正面にあたる方角です。「とぎ澄まされた天河石天盤の半月」「五日の月はさらに小さく副生し」と、月相について 述べています。この時間の月齢は5.5ですが、前作「風景とオルゴール」で、「紫磨 銀彩に尖つて光る六日の月」とあるように「六日」としていたのに対し、なぜかこの詩では「五日」となっています。 いずれも眼視による目測の許容内ですが、このことから次のことが推測できます。まず、同日付けの作品に対して二通り の月齢を与えてしまうわけですから、「詩のなかでは感性(あるいは言葉の持つ響きなど)を重視した表現をとっていること」、 そして「事前に天体暦を調べてそれを詩の中で反映させるようなことはしていないこと」がわかります。 (但し、後者については、「満月」など特異な場合には例外もあるでしょう)
また、伊藤雅子氏の「修羅の悟り『春と修羅』の主題」においては、五日の月は六日の 月の副生であるという点に着目し、幻月(月暈の一種)の現象によるものとして説明がなされています。
「月の突端をかすめて過ぎれば/そのまん中の厚いところは黒いのです」 「どんどん雲は月のおもてを研いて飛んでゆく」など、月と雲にかかわる細かい描写が続きます。そんな中には 「月は水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできてゐる」と月のクレーターに関する描写も含まれています。もちろん 眼視でクレーターを見ることはできませんから、賢治の知識によるものでしょう。この「噴火口」に対応して、 「月の彎曲の内側から/白いあやしい気体が噴かれ」と、通りかかった雲を月の噴火口からの噴出物とみなした表現もあり ます。
「杉の列には山烏がいつぱいに潜み/ペガススあたりに立っていた」の部分は、山烏の潜む 杉の林の場所を「ペガスス」のあたりとしています。ペガススとは「ペガスス座」を指すのでしょう。ペガスス座は秋の代表的な 星座で、4つの二等星がつくる「秋の四辺形」が中心となっています。ペガスス座のあたりをシミュレートしたのが下の図 です。ちょうど真東から昇ったばかりで、賢治の進行方向に対して左手に位置しています。


ペガスス座
By StellaNavigator
地平座標系 1923年9月16日の19時

「呼吸のやうに月光がまた明るくなり」とは、行き来する雲のためさえぎられた月の光 の明滅を呼吸にたとえたものでしょう。


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