「原体剣舞連」の創作 1922(大正11)年8月31日
   

「原体剣舞連」の創作
1922(大正11)年8月31日




『春と修羅』に「原体剣舞連(はらたいけんばひれん)」という詩が収められています。 この詩は、賢治が1922年8月30日から31日にかけ種山が原方面に地質調査に出かけ、下山途中で見た田原村原体(現江刺市)での民俗芸能、剣舞を見たことがもとになっています。
剣舞は地区により鬼の面をつける「鬼剣舞」や少女の踊る「雛子(ひなこ)剣舞」、また鎧をつける「鎧(よろい)剣舞」などさまざまな種類があります。(新宮澤賢治語彙事典)


鬼剣舞(おにけんばい)
椚の目鬼剣舞保存会
1996年9月21日賢治祭(花巻:賢治詩碑前)にて

詩「原体剣舞連」(mental sketch modified)
   dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こんや異装のげん月のした         
鶏の黒尾を頭巾にかざり          
片刃の太刀をひらめかす          
原体村の舞手たちよ            
鴇いろのはるの樹液を           
アルペン農の辛酸に投げ          
生しののめの草いろの火を         
高原の風とひかりにさゝげ         
菩提樹皮と縄とをまとふ          

中略

まるめろの匂のそらに           
あたらしい星雲を燃せ           
   dah-dah-sko-dah-dah       
肌膚を腐植と土にけづらせ         
筋骨はつめたい炭酸に粗び         
月月に日光と風とを焦慮し         
敬虔に年を累ねた師父たちよ        
こんや銀河と森とのまつり         
准平原の天末線に             
さらにも強く鼓を鳴らし          
うす月の雲をどよませ           

中略

アンドロメダもかゞりにゆすれ       
     青い仮面このこけおどし     
     太刀を浴びてはいつぷかぷ    
     夜風の底の蜘蛛をどり      
     胃袋はいてぎつたぎた      
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
さらにただしく刃を合はせ         
霹靂の青火をくだし            
四方の夜の鬼神をまねき          
樹液もふるふこの夜さひとよ        
赤ひたたれを地にひるがへし        
雹雲と風とをまつれ            
  dah-dah-dah-dah          
夜風とどろきひのきはみだれ        
月は射そそぐ銀の矢並           
打つも果てるも火花のいのち        
太刀の軋りの消えぬひま          
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻萱穂のさやぎ          
獅子の星座に散る火の雨の         
消えてあとない天のがはら         
打つも果てるもひとつのいのち       
  dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

この詩の冒頭に「こんや異装のげん月のした」と、月のある晩であることが描かれています。 地質調査を終えた賢治が下山途中にちょうど通りかかった光景でしょうか。 この日の宵の時間の天文暦を調べると、

日の入  18時11分    
月南中  19時03分    
薄明終了 19時45分    

となります。 シミュレートした画像は、薄明終了後の時間、19時45分のものです。 この時間、月齢8.6の月が出ています。 新校本宮澤賢治全集の校異編によると「こんや」を「こよい」と手入れをした経緯がありますから、まだ薄明の残る時間であったかも知れません。 月はほぼ半月ですので、「げん月」と表現するのも賢治の観察と一致するといえます。 月の右下にある明るい赤い星は火星(-0.8等)です。
「げん月(弦月:げんげつ)」とは、別名「弓張月(ゆみはりづき)」ともいい、弓のような形をした月のことをいいます。 沈む時に弦が上向きになるか、下向きになるかで「上弦」「下弦」と区別されます。


上弦の月
没する時に弦の側(満ち欠けで動く側)が上になる
By StellaNavigator
地平座標系 1922年8月31日の月没直前

「あたらしい星雲を燃せ」という部分は、何かの比喩でしょうか? 直接天体を表現するものではないようです。
賢治童話の愛好者の方なら「こんや銀河と森とのまつり」という言葉に、すぐ「銀河鉄道の夜」に出てくる「星祭り」を連想することでしょう。 こういったモチーフがやがて童話へと進化していった例として、詩「薤露青」が「銀河鉄道の夜」へと発展していったものなどはその代表的なものでしょう。(「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて展)
「うす月」とは、「薄月」と書き、うす雲を通してみた月をさす言葉です。 佐藤泰平氏「『春と修羅』(第一集・第二集・第三集)の〈気象スケッチ〉と気象記録」によると、1922年8月31日の午後に激しい電雷があったという記録とともに、その日の雲量の推移が数時間毎に示されています。 観測地は賢治のいた場所にほど近い水沢です。その記録によると、14時の雲量は10、18時の雲量は7、22時の雲量は5と、雲がしだいに減少していることがわかります。 また22時における雲の種類はC(巻雲)、S(層雲)、SK(積雲)です。 うす雲ということですから、層雲などはまさにぴったりといえます。
「アンドロメダもかゞりにゆすれ」とは、アンドロメダ座を指すのでしょうか? 薄明終了時間で、すでにアンドロメダ座はもう地平線上(東北東)に出ています。この詩の詩集印刷用原稿では、「アンドロメダ」の部分に「カシオピーア」という言葉もありましたから、星座名を意識したものでしょう。
「月は射そそぐ銀の矢並」は、月の光があたりに降りそそぐ様子を「銀の矢なみ」に例えたものでしょうか。
星とのかかわりで一番注目すべき点は「獅子の星座に散る火の雨の」、という部分です。 これまでの賢治と星にかかわる研究書で、必ずといってよいほど解説されてきた部分です。 「獅子の星座」とは明かに「しし座」、そして「散る火の雨の」とは、印刷用原稿のなかで「星むらの」と修正された経緯にあるとおり、「散る星の群れ」、つまり有名な「しし座流星群」に関連した記述であることがうかがえます。 しし座流星群は、母天体となる彗星の回帰に連動し、33年周期で大出現することが知られ、賢治の時代でも1799年、1833年のものが大出現(流星雨)であったことがよく知られていました。 その後、1901年、1965年に大出現(HR=100)、1966年に流星雨(HR=>10000)が観測されています。 賢治は科学啓蒙書、天文書などで、しし座流星群のことを知っていたに違いありません。


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