書簡22 大正5(1916)年9月5日『保阪嘉内あて』の葉書 1916(大正5)年9月2日
書簡22 大正5(1916)年9月5日『保阪嘉内あて』の葉書
1916(大正5)年9月2日
この時期賢治は、秩父方面に 土性・地質調査見学に出かけています。
その日程を堀尾青史著「年譜宮澤賢治伝」や原子朗編著「宮澤賢治語彙辞典」、また詳細に調査された文献として「宮澤賢治『修羅』への旅」萩原昌好著により調べると次のとおりでした。
- 9月1日盛岡発(午後7時)の列車にて出発。
- 9月2日午後12時53分上野着。賢治は午前中帝室博物館。
関教授指導の秩父、長瀞、三峰地方土性地質調査一行(農学二部、林科生)と上野駅で合流。
午後1時20分の列車で上野発。
熊谷へは午後3時20分に到着。
「蓮生坊」の歌を詠む。
熊谷に一泊したと推定。
(その後、熊谷、寄居、小鹿野、三峰山に行く)
- 9月3日熊谷より寄居、寄居から末野を経て国神まで。
立が瀬、象ケ鼻、荒川河岸の観察、親鼻橋近くの紅簾片岩(こうれんへんがん)等を調査。
梅乃屋に一泊したと推定。
- 9月4日国神より馬車で小鹿野まで。
途中、随時調査を重ねて「ようばけ」調査。
その夜は寿旅館に一泊と推定。
- 9月5日小鹿野より三峯山まで。
林学科との合同調査を重ね、三峯神社宿坊で一泊。
- 9月6日三峯山より秩父大宮まで。
三峯山を降り、影森の石灰洞を見学して、角屋で一泊と推定。
- 9月7日秩父大宮より本野上を経て、盛岡へ帰郷。
列車は午後11時と推定。
そんな旅先から親友の保阪嘉内へ便りを届けていますが、9月5日の消印の葉書に
武蔵の国熊谷宿に蠍座の淡々ひかりぬ九月二日。
という短歌があります。
短歌のなかに地名(熊谷)と日付(9月2日)がありますから、その情報からこの時の星空を再現させてみましょう。
まず、この日の熊谷における日没などの時間を計算すると、
日の入 18時11分
薄明終了 19時39分
となります。
夕闇に包まれ、おもてが暗くなる時間、そして南中高度の低い「蠍座(さそり座)」が西に没してしまう前の時間となるとかなり限定されてきます。
夕食後にでも外出して、宿の前から、あるは部屋の窓からでも星を見て、せいぜい19時30分頃から20時30分前後にでも詠んだものでしょうか。
シミュレーションした画面は、薄明終了の19時40分の南の空のものです。
さそり座が南中をすぎ、西に向かっています。
賢治が見たのもこんな情景だったのでしょうか。
また、「淡々ひかりぬ」という言葉から、もやがかかった様子、あるいは薄明中の時間であった可能性などを想像することができます。
また、この時間の月は月齢4.7(19時40分JST)で、さそり座のすぐそばに見えていました。
19時ごろには、地平線のそばに火星とともにあったはずです。
しかしながら、どちらの天体も高度が5度未満と、この時間まで見ることは困難でしょう。
なお、この旅行について天体の位置から考証されいる文献を見つけましたので紹介しておきます。
「宮澤賢治『修羅』への旅」萩原昌好著で、この秩父旅行に関し、熊谷プラネタリウムの協力で当時の星空を再現して考証されております。
但し月齢が5.3とありますが、9月3日の午前8時〜10時頃の値になっています。
kakurai@bekkoame.or.jp