歌稿〔B〕 大正5年3月より 259 1916(大正5)年3月24日
歌稿〔B〕 大正5年3月より 259
1916(大正5)年3月24日
1916年3月19日〜31まで、賢治は盛岡高等農林学校農学科第2学年の修学旅行として、関西方面に出ています。
当時の日程が、校友会の会報をもとにし堀尾青史著「宮澤賢治年譜」にまとめられています。
以下「宮澤賢治年譜」より抜粋。
- 3月19日(日)晴、農学科第二学年修学旅行の一員として午後一時五分盛岡駅発。
(以下旅行の詳細は「校友会々報」三一号による)。
- 3月20日(月)晴。午前五時四〇分上野着。西ヶ原農事試験場、高等蚕糸学校見学。そのあと関東酸曹株式会社へ行ったが縦覧謝絶。
- 3月21日(火)晴。農事試験場渋谷分場、駒場農化大学を見学。あと随意海事博覧会見物。
- 3月22日(水)小雨。午前八時四〇分東京駅発、午後二時四〇分興津着、園芸試験場見学。午後五時すぎ興津発、京都へ向かう。
- 3月23日(木)曇。午前四時九分京都駅着。東西本願寺を訪れ、桂橋際の万甚楼に六時到着。九時府立農林学校、農事試験場を見学。ついで竹林を筍栽培を見、のち嵐山、金閣寺を見物。帰途衣笠村役場に寄り村長より農業状態をきき、北野神社に詣り、三条の西富家に宿泊。
- 3月24日(金)晴。九時出発、京都御所、二条離宮拝観。ついで桃山御陵を参拝し、府立農事試験場桃山分場を見学。午後三時一三分桃山駅発、奈良へ向かう。着後県立農事試験場を見学し、午後六時すぎ宿舎対山館につく。奈良の歌(歌稿B258)一首を録す。
たそがれの奈良の宿屋ののきちかくせまりきたれる銀鼠ぞら
- 3月25日(土)晴のち雨。午前一〇時まで自由行動。鋳物の梵鐘のみやげを買い、一個を高橋秀松に与える。大阪に向かう途中、奈良県立試験場畿内支場を参観。大阪天王寺駅着府立農学校へ赴いたが休校中で近所の孵卵所を見学。雨となって走って桃谷駅へ出、京都へ帰る。
- 3月26日(日)晴。八時出発、大津へ行き、三井寺参詣。汽船にて石山町へ渡り石山寺参詣。その後滋賀県立農事試験場見学。帰途は二途に別れ、一方は大津美保ヶ崎より京都三条蹴上に至るインクラインを通り、他は汽車。夜は茶話会。
- 3月27日(月)午前九時宿を出、三十三間堂から清水寺へ、ついで南禅寺附近の蔬菜促成栽培を見にいく。ここで解散したが、大部分は岡崎の動物園で楽しみ、夕刻には皆旅館に帰る。修学旅行はこれを以て終り、あと有志一二名は伊勢参宮をして帰ることにし、賢治はその一員となる。
- 3月28日(火)修学旅行隊と別れた同士一二名中に交って午前九時京都発、伊勢へ向かい午後一時山田市到着。参宮後、二見ヶ浦見物、二見館に宿泊。
- 3月29日(水)日の出を拝み、鳥羽より四百噸の汽船にのり蒲郡へ渡る。それより汽車で三島に到り、箱根八里を踏破する。同行、農1大谷良文によれば、
「旧街道を行こうということになつて、丸い玉石を敷きつめた石畳の旧街道を馬鹿話をしたり、カチューシャを歌つたり弥次喜多気分で登つて行つた。関所跡も近づいて土地も広く開け畑地が右側に見える場所にさしかかつた。「関所跡までどれ位ありますか」と農夫に聞いたところ「そうじゃのー、あと二里あるで」と返答があった。所が大きな声で「馬鹿野郎 嘘をつくなツ」と宮沢君が叫んだ。私は農夫が怒つて追いかけて来はしないかと恐ろしかつたが、彼は平気な顔をしておる。あの温厚な悪い言葉一つ言つたことのない彼が、あんなに叫んだのは彼のあの鋭い感覚で農夫が大嘘をついてので見破り、純情の彼としては我慢できなかったからであろう。」(「賢治君を思う」川原編『周辺』一二六頁)
ということである。
なお大谷の記述によれば、いざ山へ登るというとき、一杯のみ屋のなわのれんをくぐり、サッサとモッキリ酒を注文したのが賢治であった、という。
- 3月30日(木)東京の京橋木挽町(古宇田病院へ瀬川コトを見舞ったと推察)、浅草へいく。
- 3月31日(金)帰花。
このときの修学旅行報告、賢治の分担は二八日(火)で、七月十五日発行「校友会々報」三一号(校本全集一二巻(下)一七頁)に出た。
また修学旅行中の短歌(歌稿AB256〜275)は二〇首。
シミュレーションした画面は、1916年3月24日21時の西の空です。
沈みかかった金星が奈良の西空にかかり、ふたご座には土星が見えています。
冬の星座がにぎやかに夜空を飾っていました。
賢治は修学旅行の途中、奈良の宿から星空を眺めていたのでしょうか。
上記引用の作品とは別ですが、その旅の途中と思われる作品として、歌稿〔B〕大正5年3月より、の中に月の描写の出てくる作品があります。
(上記引用の「たそがれの」はこちらからどうぞ)
にげ帰る鹿のまなこの燐光となかばは黒き五日の月と。
という歌です。
鹿は、奈良公園の鹿を指すものと想像されます。
鹿の眼の光を、五日の月と対比しています。
五日の月ですから、半月にはあと2日たりない形です。
また、なかばは黒きということから、地球照も見えるようです。
さて、この表現は、実際に見えた月との対比でしょうか、それとも賢治のなかにイメージされた月でしょうか?
実際に月齢を調べてみましょう。
5日の月の形
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この日の宵(19時)の月齢を調べると、20.3です。
これは賢治のお気に入りの「二十日の月」ですが、月の出時刻も23時23分と真夜中となりますので、明らかにイメージされた月ということが判明します。
5日の月の姿を上に示しておきました。
この姿と鹿の眼の共通点をどこに見出したのでしょうか・・・
kakurai@bekkoame.ne.jp