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JR線 小岩井駅【1】 |
賢治の徒歩スケッチのスタート地点、小岩井駅です。
研究によれば、詩「小岩井農場」で訪れた賢治の訪問は、10時54分着の列車が駅に着いたところから始まっていました。
僕が乗った列車は、盛岡駅発10時37分、小岩井駅着10時52分の雫石行きのものでした。
(賢治の乗った列車と到着時刻が2分違いでちょっと残念)
構内を秋田新幹線が通り過ぎることとなったにもかかわらず、この駅だけは昔ながらのちいさな建物がそっと残されていました。
「つめたくあかるい待合室から」(パート1)とあった駅を出ると前日まで降っていた雪があちこちに残されていました。
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小岩井駅前【2】 |
小岩井駅前の様子です。
賢治が5月に降り立った日には、農学校同僚の並川さんに似た農学士風の人がいたり、駅前には馬車が止まっていたりしました。
「馬車がいちだいたつている/黒塗りのすてきな馬車だ/光沢消しだ/馭者がひとことなにかいふ/馬も上等のハツクニー」(パート1)と詳しく観察しています。
また、賢治は「くらかけ山の下あたりで/ゆつくり時間もほしいのだ/あすこなら空気もひどく明瞭で/樹でも艸でもみんな幻燈だ」(パート1)などと楽しいこと考えながらも馬車に気を引かれています。
駅前を歩きだすと、停車場や当時あった新開地風の建物をうしろに田園風景へと変わってゆきます。
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遠く岩手山方面を望む【3】
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しんかい地の風の家並をすぎ、視点は鳥たち動物、あるいは植物へも移動してゆきます。
「黒馬が二ひき汗でぬれ」「嫩葉がさまざまにひるがへる」「鶯もごろごろ啼いてゐる」(パート1)といった具合です。
5月に歩きながら、1月に来た時のことを回想している場面もあります。
「冬にきたときとはまるでべつだ/みんなすっかり変わつてゐる/変わつたとはいへそれは雪が往き/雲が展けてつちが呼吸し/幹や芽のなかに燐光や樹液がながれ/あをじろい春になつただけだ」(パート1)や「ほんとうにこのみちをこの前行くときは/空気がひどく稠密で/つめたくそしてあかる過ぎた」(パート1)の部分です。
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まがり目【4】 |
駅から約500mほど歩くと、旧網張街道と呼ばれる、小岩井農場への一本道にさしかかります。
この直前で詩はパート2へと移ってゆきます。
たむぼりん(タンバリン)の音を聞いたり、遠くの馬車に関心を寄せてみたあと、「あすこはちやうどまがり目で/すがれの草穂もゆれてゐる」(パート2)と、小岩井農場方面に左折する場所をまがり目としてよんでいました。
左の写真はちょうどその場所です。
手前からカーブミラーの横を左側へと曲がるのが賢治が歩いたと思われるコースです。
角にある小さな小屋は、ごみ収集用の小屋のようです。
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旧網張街道【5】 |
旧網張街道に入ると、あとは眺めのよい道をまっすぐ北西に歩けば農場への入り口(旧)となります。
賢治はこの道を歩きながら、空高く舞うひばりを細かく描写したりします。
「ひばり ひばり/銀の微塵のちらばるそらへ」(パート2)で始まり、「黒くて素早く金色」とか「空でやるブラウン運動」など、賢治流の観察が続きます。
僕の歩いた日には、並木に積もった雪が、煙のようにぱらぱらと舞い、とても心地良く感じられました。
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網張街道からの七つ森【6】 |
続いて、「うしろから五月のいまごろ/黒いながいオーヴアを着た/医者らしいものがやつてくるたびたびこつちをみてゐるやうだ/それは一本みちを行くときに/ごくありふれたことなのだ」(パート2)と、人物を登場させています。
この道の見通しの良さは、ぜひ実際に歩いて確かめて見て下さい。
写真は、網張街道から左手に見える七つ森の様子です。
ちょっと戻りますが、パート1の最後にも七つ森は、「今日は七つ森はいちめんの枯草/松木がをかしな緑褐に/丘のうしろとふもとに生えて/大へん陰鬱にふるびて見える」(パート1)と描かれています。
できれば僕の歩いた1月の風景にも「くろいイムバネス(=外套)」が通りかかって、言葉を交してみたいような気持ちになりました。
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旧農場入り口付近【7】 |
左の写真の場所が、小岩井農場の旧入り口でした。
ここからが、パート3となります。
冒頭の部分で、「もう入口だ〔小岩井農場〕/(いつものとほりだ)/混んだ野ばらやあけびのやぶ/〔もの売りきのことりお断り申し候〕/(いつものとほりだ ぢき医院もある)/〔禁猟区〕ふん いつものとほりだ」(パート3)としています。
しかし、実際に訪れてみると、当時あったとされる入り口の看板や、医院もありません。
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巡り沢【8】 |
旧農場入り口付近の描写が続きます。
「小さな沢と青い木だち/沢では水が暗くそして鈍つてゐる」(パート3)とあるのは、巡り沢と呼ばれる小さな沢があります。
この小川は小岩井農場を北〜南に流れる川で、雫石川へと続いています。
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旧育馬部付近【9】 |
沢を過ぎると、樹木が生い茂る道です。
白樺の木を発見して、「向ふの畑には白樺もある/白樺は好摩からむかふですと/いつかおれは羽田県属に言つてゐた/ここはよつぽど高いから/柳沢つづきの一帯だ/やつぱり好摩にあたるのだ」(パート3)と、植生の分布についても言及しています。
この辺りの標高は230mほどです。
また、ここで出てくる羽田県属(はだけんぞく)とは、調べてみると、岩手県稗貫群担当の視学で羽田正氏をさすようです。
人名だったんですね。
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旧育馬部付近【10】 |
農場の入り口から3〜400mもゆくと、右手に旧育馬部であった場所への分岐付近を通過します。
この辺りだったのでしょうか、賢治は鳥の声に「どうしたのだこの鳥の声は/なんといふたくさんの鳥だ/鳥の小学校にきたやうだ/雨のやうだし湧いてるやうだ/居る居る鳥がいつぱいにゐる/なんといふ数だ 鳴く鳴く鳴く/Rondo Capriccioso/ぎゆつくぎゆつくぎゆつくぎゆつく」
(パート3)と、驚きを綴っています。
宮澤賢治語彙辞典によれば、Rondo Capricciosoは、メンデルスゾーンのピアノ曲か、サンサーンスのヴァイオリン協奏曲のようです。
そういえば、この作品のパート*という表現も、ベートーヴェンの田園交響曲の影響を受けたとか...
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旧本部付近【11】 |
育馬部がそこにあったことを物語るように「この荷馬車にはひとがついてゐない/馬は払ひ下げの立派なハツクニー/脚のゆれるのは年老つたため」(パート3)あるいは、「いま向ふの並樹をくらつと青く走つて行つたのは/(騎手はわらひ)赤銅の人馬の徽章だ」(パート3)という描写があります。
現在の管理部付近に来ると、写真のような車庫や、大型の木造の建物が並んでいて時代を感じます。
写真の分岐は、右へ行くと種鶏部(旧育馬部)、左に行くと管理部(旧本部)、そして正面の道(トラックの左側の道)が、桜並木跡です。
かつては馬車鉄道が耕耘部まで続いていました。
今は倒木が道をふさぎ、薮になって通ることはできません。
仕方なく、管理部(旧本部)前を通過して県道網張線に出ることにしました。
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