■「七つ森」を見る。
2001年11月11日  Nikon COOLPIX880 複数コマの画像を合成処理


■「七つ森」の名前
 セミナー当日配布された資料「文学散歩Aコース〜小岩井・盛岡を訪ねて〜/文学散歩Bコース〜小岩井・滝沢を訪ねて〜」を元に山の名前を記入してみました。 黒文字がその名前です。(赤文字は「2万5千分の1地形図」で記入されている山名です) 当日も、地元の方から、写真の「見立森が三角森ではないか」と指摘もあり、その名称には揺らぎがあるようです。 参考に、関係する文献の『七つ森』の説明文を引用しておきましょう。


新宮澤賢治語彙事典・原子朗著(1999年7月)
七つ森 ななつもり【地】  盛岡市の西方、雫石町との境付近にある。 国土地理院「小岩井農場」(2万5千図)によれば、生森山(いきもりやま)、鉢森山、小鉢森山、三手(みて)ノ森山、松森山、塩ヶ森、とその周辺の丘、以上の総称であるが、歴史的な山名その他に異説もある。 いわゆる秋田街道沿いにあり、小岩井駅の南西約1q程度に位置し、高さは三〇〇m前後(最高の生森山が三四八m)である。 賢治が特に好んで作品に取り上げた総称としての山であるが、ダム建設や砕石(安山岩)等のために景観はかわりつつある。 歌[三八七・四八三・五三六・五四二・五五三・六二二・七四二・七四三]等([五三六]では「豆いろの坊主となりて七つ森」とある)、まず短歌に多い。 詩でも比較的初期のものに多く詩[屈折率]の「七つ森のこつちのひとつが/水の中よりもつと明るく/そしてたいへん巨きいのに…」は、『春と修羅』第一集冒頭の作品として重要な意味をもっている。 詩[第四梯形]では七つの森を順に第一梯形、第二提携…と呼び(梯形(ていけい)とは山の両側の輪郭が平行してはしご(梯)の形になっていること。 台形とも)、それぞれの樹木の具合いや色合いの違いをダイナミックなイメージにしている。 同詩のリフレーン「三角山(さんかくやま)はひかりにかすれ」の三角山は、乳頭山(にゅうつむりやま)の南東にそびえる三角山(標高一四一八m)のことで、七つ森の位置からは南東にあたる。 ほかに詩[小岩井農場]、文語詩[〔鶯宿(おうじゅく)はこの月の夜を雪ふるらし〕]等にも登場。 また、童話[おきなぐさ]の舞台は「小岩井農場の南、あのゆるやかな七つ森のいちばん西のはづれの西がは」である。 童[紫紺染について]の山男も七つ森を通る。 短[秋田街道]には「みんなは七つ森の機嫌の悪い暁の脚まで来た。 道が俄かに青々と曲る」とある。


文学散歩Aコース〜小岩井・盛岡を訪ねて〜/文学散歩Bコース〜小岩井・滝沢を訪ねて〜・2001牧場の風と光と星のまつり実行委員会編(2001年11月)
 秋田街道(国道46号線)沿い、幾つかの丘の連なる一画を称してこう呼びます。 藩政時代は雫石村の入会地でした。  どの森を取って「七つ」とするかは諸説ありますが、一般的に向かって右側の森から、(1)見立森(みたてもり)、(2)三角森(みかどもり)、(3)勘十郎森(かんじゅうろうもり)、(4)稗糠森(ひえぬかもり)、(5)鉢森(はちもり)、(6)石倉森(いしくらもり)、(7)大森(おおもり)です。  賢治はここを好んで作品の舞台としました。


宮沢賢治の山旅・奥田博著(1996年7月)
七ツ森  現在の国土地理院の二万五千地形図「小岩井農場」では七ツ森として生森山、鉢森山、小鉢森山、三手ノ森山、松森山、塩ヶ森と周辺の丘を総称して七ツ森としている。 北側には、七ツ森という地名もある。 しかし『宮澤賢治語彙事典』では、大森、石倉森、鉢森、稗糠森、勘十郎森、貝立森、三角森の七森で、いわゆる「秋田街道」に沿ってあると記述してある。 しかし、残念ながら二万五千図で、それらの名前を見付けることはできない。 二万五千図の七ツ森を尾入野あたりから眺めると、いくつかの峰を並べてい小さな丘が連なり、七ツ森の名を納得させるものである。 賢治は、その形を坊主頭に見立てた。(以下略)


■「七つ森」の出てくる作品を読んでみましょう。 以下詩「屈折率」より


屈折率

  七つ森のこつちのひとつが
  水の中よりもつと明るく
  そしてたいへん巨きいのに
  わたくしはでこぼこの凍つたみちをふみ
  このでこぼこの雪をふみ
  向ふの縮れた亜鉛の雲へ
  陰気な郵便脚夫のやうに
    (またアラツディン、洋燈とり)
  急がなければならないのか


引用)【新】校本宮澤賢治全集第二巻詩[I]本文篇