■現在の小岩井駅前
1999年11月14日午前8時45分撮影  SONY Digital Handycam PC3  900×135


■賢治の歩いた当時の駅前は?
1922年5月21日午前10時54分、宮沢賢治はこの駅前に降り立ち、小岩井農場へと向かいます。 上の写真内の書き込みは、岡澤敏男氏の研究(註)を参考に、現在の町並みに当時の建物の配置を示したものです。 写真の一番右側にある橋場線(現在の田沢湖線)小岩井駅に降り立った賢治は、駅の待合室で恩師の盛岡高農教授の古川さん(並川と誤記)に似た人を見つけます。 小岩井駅の待合室を出ると、そこには当時、小岩井農場−小岩井駅間を運行していた馬車がお客を待っていました。 賢治は今日の予定を考え、途中の農場本部まで馬車を利用して、くらかけ山のふもとあたりでゆっくり過ごすことなどを考えますが、結局馬車に追い越され先に行かれてしまいます。 そして賢治は駅前の様子を描きながら、網張街道へと歩いて行きます。 ここに出てくる「つつましく肩をすぼめた停車場」とはもちろん小岩井駅、 そして「新開地風の飲食店」とは、当時菓子・そば屋を営業していた工藤政治氏の飲食店(現在の自転車屋パールドライ)、 「わらじやsun-maidのから凾や/夏みかんのあかるいにほひ」と描写されているのは、食品・雑貨を販売していた田沼春松氏のお店(現在のスーパー「キャメルマート」)の描写をしているようです。


■雰囲気を思い浮かべつつ作品を読んでみましょう。 以下詩「小岩井農場」よりパート一の抜粋です。


小岩井農場(パート一)

  わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた
  そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ
  けれどももつとはやいひとはある
  化学の並川さんによく肖たひとだ
  あのオリーブのせびろなどは
  そつくりをとなしい農学士だ
  さつき盛岡のていしやばでも
  たしかにわたくしはさうおもつてゐた
  このひとが砂糖水のなかの
  つめたくあかるい待合室から
  ひとあしでるとき……わたくしもでる
  馬車がいちだいたつてゐる
  馭者がひとことなにかいふ
  黒塗りのすてきな馬車だ
  光沢消しだ
  馬も上等のハツクニー
  このひとはかすかにうなづき
  それからじぶんといふ小さな荷物を
  載つけるといふ気軽なふうで
  馬車にのぼつてこしかける
    (わづかの光の交錯だ)
  その陽のあたつたせなかが
  すこし屈んでしんとしてゐる
  わたくしはあるいて馬と並ぶ
  これはあるひは客馬車だ
  どうも農場のらしくない
  わたくしにも乗れといへばいい
  馭者がよこから呼べばいい
  乗らなくたつていゝのだが
  これから五里もあるくのだし
  くらかけ山の下あたりで
  ゆつくり時間もほしいのだ
  あすこなら空気もひどく明瞭で
  樹でも艸でもみんな幻燈だ
  もちろんおきなぐさも咲いてゐるし
  野はらは黒ぶだう酒のコツプもならべて
  わたくしを款待するだらう
  そこでゆつくりとどまるために
  本部まででも乗つた方がいい
  今日ならわたくしだつて
  馬車に乗れないわけではない
   (あいまいな思惟の蛍光
    きつといつでもかうなのだ)
  もう馬車がうごいてゐる
   (これがじつにいゝことだ
    どうしやうか考へてゐるひまに
    それが過ぎて滅くなるといふこと)
  ひらつとわたくしを通り越す
  みちはまつ黒の腐植土で
  雨あがりだし弾力もある
  馬はピンと耳を立て
  その端は向ふの青い光に尖り
  いかにもきさくに馳けて行く
  うしろからはもうたれも来ないのか
  つつましく肩をすぼめた停車場と  
→小岩井駅
  新開地風の飲食店  →菓子・そば屋
  ガラス障子はありふれてでこぼこ
  わらじやsun-maidのから凾や
  夏みかんのあかるいにほひ  →食品・雑貨
  汽車からおりたひとたちは
  さつきたくさんあつたのだが
  みんな丘かげの茶褐部落や
  繋あたりへ往くらしい
  西にまがつて見えなくなつた
  いまわたくしは歩測のときのやう
  しんかい地ふうのたてものは
  みんなうしろに片附けた



)長編詩「小岩井農場」の原風景を歩く(1)…農場現場からの解読 (ワルトラワラ第4号)