北原白秋 1933(昭和8)年12月20日
北原白秋
白南風(しらはえ)
1933(昭和8)年12月20日
北原白秋の歌集「白南風(しらはえ)」には、金星と土星の連続掩蔽の様子が描かれています。
この文献については、草下英明先生の「星日記」(1)や、「本の本 1976年1月号」(2)の記事「星と文学」の記事に詳しく説明されています。
ここではそれをもとに白秋の見たこの現象をシミュレーションを用いさらに深くさぐってみましょう。
歌集『白南風(しらはえ)』 月と星
昭和八年十二月廿日夜、上弦の月を中心に金星と土星と潜入す。数万年に一度の歓会なりといふ。
金星潜入、タッチ午後四時三分四十八秒、完全潜入四時四分八秒、出現雲のために不明。
土星潜入、タッチ午後六時三分十六秒、完全潜入六時三分三十六秒、同出現七時一分、完全出現七時一分廿秒。
現しくもいたもかなしきこの幾夜
月にふたつの星潜り入る
金星は下潜り入り月の上に
土星は明しいよよ懸れり
月面をえぐりてくらき色見れば
裏ゆく星のありと思へなくに
母と子ら佇ちてながむる西の方
月も二つの星を抱きぬ
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シミュレーションした画像は、17時40分の東京における西の空の様子です。
月齢3.2(17時)の月が西の空にかかっています。
この画面からだと気付きませんが、拡大して見ると下の図のように見えます。
(もちろん肉眼でも月と二つの惑星は分離して見えます)
時間的には「金星食」が終了し「土星食」が起ころうとしている時です。
みかけ上、月が下から上に動くような形で現象が起こります。
月と金星(-4.6等),土星(0.8等)
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地平座標系 1933年12月20日の17時40分
当時の日本での観測状況はどうだったのでしょうか。
「日本アマチュア天文史」(3)の森久保茂氏の「掩蔽(星食)」の記事のなかに次のような解説があります。
1933年12月20日の夕刻16時頃、金星が、続いて18時頃土星が月齢3日の月に掩蔽された。
筆者もこれを見た一人であるが、当日は晴れて澄んだ師走の西空の夕映えの残るあたり相模大山のシルエットの上に三日月をはさんで、土星と金星のならんだ景色は実に美しい眺めであった。
この掩蔽は全国各地にて専門家及びアマチュアにより観測された。
石井重雄氏が「天文月報」Vol.27(1934)No.3に要約して報告している。
冒頭に石井はその美しい光景を「天の海に雲の波立ち月の船、星の林にこぎかくる見ゆ」なる万葉集の古歌をひき賞でている。
このとき観測をよせたアマチュアの名をあげると
射場保昭(神戸)、水野一彦(名古屋)、宮島善一郎(上田)、川崎林蔵(川越)、小森幸正(東京)、河合章二郎(東京)、石原康正(東京)などである。
また写真の撮影に成功したのは
東京市立第一中学校(現九段高校、吉持俊太郎)、武蔵高等学校、射場保昭、清水真一(静岡)、
などであった。
なお特異観測として、東京天文台の窪川一雄と上田市の宮島善一郎が金星の「接触時刻18秒前に或る接触」を観測している。
これは金星の大気による現象であろうと推論している。
また土星の潜入後10分ほどでB.D.-18°5862星(7.4等)が月に掩蔽され、9名からの報告があった。
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草下先生が「白秋の観察は大変細かく、星食の時間などもちゃんと秒単位まで計測していたのだから感服してしまう。」と指摘されているように、
近代文学まれにみる星食観測記録ではないでしょうか。
さて、白秋の観測記録ですが、整理すると次の表のとおりとなります。(注:上段は白秋の文章から、下段の記録は三鷹の天文台のもの。( )は土星の本体部分の時間を示す)
現 象 |
金 星 |
土 星 |
潜入開始/第一接触 |
16時03分48秒 16時03分00秒 |
18時03分16秒 16時02分45秒(03分13秒)頃 |
潜入完了/第二接触 |
16時04分08秒 16時03分33秒 |
18時03分36秒 16時03分33秒(03分30秒)頃 |
出現開始/第三接触 |
出現雲のために不明 雲のために観測不能 |
19時01分 19時00分00秒(00分57秒)頃 |
出現完了/第四接触 |
(観測記載なし) 雲のために観測不能 |
19時01分20秒 19時01分50秒(01分25秒)頃 |
表を見てわかるとおり、潜入(月のうしろに隠れる)、出現(月のうしろから出る)現象それぞれについて、「開始」「終了」があることがわかります。
これは、惑星が面積を持った天体だからです。
たとえば金星の端が月に隠れ始めて、すぐに見えなくなってしまうわけではなく、完全に隠れるまで時間がかかります。
この隠れ始めが「第一接触(first contact)」そして完全に隠れた瞬間が「第二接触」となるわけです。
出現の瞬間も同様に、最初に見え始める時間「第三接触」と完全にうしろから出た時間の「第四接触」があります。
白秋の観測をみると、単なる肉眼による観測ではなく、望遠鏡(あるいは双眼鏡)による本格的な計時観測が行われたとも推測できます。
白秋のまわりに望遠鏡などを所持している者がいたのでしょうか?
そしてもう一つおもしろいことがわかります。
この時期の白秋は、東京の砧村(現世田谷区砧)にいたことが、年譜などにより判明しています。
特に旅先などで見ていなければ東京三鷹の天文台の記録ともかなり近いはずですが、かなりばらつきがあります。
原因としては、観測に使用した機器の問題、観測の習熟度、使用した時計の精度、金星の暗縁側の測定方法、土星の縁を本体としたかあるいは環の部分を使用したか、などの点があげられます。
もっとも、草下先生がふれられているように、どこかの予報時刻を写して作品に取り入れたという可能性もあります。
この日の天体暦も示しておきましょう。
日の入 16時32分
薄明終了 18時02分
月の入 20時06分
この時間から察しても夕焼けの美しい空での現象だったことがわかります。
また、白秋は、歌のなかの「えぐりてくらき色」という言葉からもわかるように、「地球照」の存在にも気付いていたようです。
「地球照」は宮沢賢治の詩「東岩手火山」(解説「詩『東岩手火山』をめぐる話題(2)」参照)の中で「月の半分は赤銅 地球照」と出てくる言葉でもあります。
「星日記」(1)のなかで、草下先生は「私と同年輩の天文ファンにきくと、ほとんどの方がこの天文現象がきっかけで天文への道にはいったという。
村山定男(国立科学博物館)、原恵(青学大教授)、金子功(愛知県、御薗天文科学センター)、など、この想い出を持っておられるのを知った。」
と、この現象がいかに素晴しいものであったか述べられています。
ごく最近では、1989年12月2日の夕刻にあった金星食も見事な美しさでした。
このページをご覧になった方でも記憶にある方もいらっしゃるかも知れません。
あわせてシミュレーション画面も見てみましょう。
月と金星(-4.6等)
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地平座標系 1989年12月2日の17時00分
- 参考文献 -
(1)草下英明著「星日記」草思社
(2)「本の本 1976年1月号」ボナンザ
(3)日本アマチュア天文史編纂会「改訂版 日本アマチュア天文史」厚生社厚生閣
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