「日本百名山」といえば、山岳の名著としてあまりにも有名です。
登山愛好家であれば、百名山制覇を目標として登山を続けている方も大勢いるほどです。
著者の深田久弥(1903-1971)は、編集者、ヒマラヤ登山家などとしても知られ、多数の文人とも交流がありました。
1965(昭和40)年、「日本百名山」が読売文学賞を受賞したとき、推薦者であった小林秀雄は、山岳の批評文学と位置付け、受賞を喜んだといいます。
今回の星の風景を調べる「五色から沼尻まで」は、1940(昭和15)年12月、青木書店より刊行された「山の幸」に収められた作品です。
奥羽本線の板谷駅の南側に位置する五色温泉から、東吾妻をスキーで南へと縦走し、安達太良山の西側に位置する沼尻へとぬけるコースの旅の記録となっています。
深田氏による吾妻山の登山は、横山厚夫著「山麓亭百話(上)」(1)の「アンソロジィ・吾妻の山と小舎」を読み、深田氏の「五色から沼尻まで」という文章から引用されていることを知りましたが、最近刊行された「深田久弥 一日二日の百名山」(2)で、その全文を読むことができました。
本文によれば、1939(昭和14)年1月、深田氏らは、五色を出て青木小屋を経て吾妻山荘、さらに家形小屋を通過して五色沼へと出ます。
五色沼の北側では強風に悩まされながら進み、一切経山の肩をぬけ、硫黄精錬所跡までたどり着きます。
やがて日も暮れ、すっかり暗くなった頃、宿泊を予定していた吾妻小舎(あづまごや)を探しますがなかなか見つけることができません。
やっとのことで、木立の中に屋根を見つけ、小屋に飛び込みます。
その部分を引用してみましょう。
階段を上って、大きなストーブが真ん中にある部屋に入ると、もうランプが点いていた。
泊まり客は、僕等以外に誰も居なかった。
仙台鉄道局お自慢のこの小舎は、スキー小舎としては全く贅沢なもので、下手な田舎の宿屋などよりずっとましだ。
部屋の片側は寝る場所になっていて、我々庶民階級の間では使いそうもない重厚な藁ブトンが敷き並べられている。 一月六日のことで、ちょうど満月の晩だった。 風は強かったが空はすっかり晴れて、青い月の光が二重ガラスを透して室内まで流れこんだ。 玄関まで出てみると、直ぐ前に吾妻小富士がくっきりと月光の中にそびえている。 このままにしておくのが惜しいような美しい晩だった。 ストーヴにうんと薪を放りこんで、おそくまで話をして倦きなかった。 |
この晩の惑星の位置も確認しておきましょう。
明るいものとしては、くじら座に0.5等の土星が出ています。
望遠鏡で見ると、1937年に地球から見た環の傾きが、ちょうど真横の位置から見た形になっていて、それからおよそ1年半あまり、まだ細い環が見えていたはずです。
これから、もし深田氏の見た月夜を体験したい場合、いつ頃吾妻小舎を訪問すればいいのでしょうか?
ちょっと関心があって調べてみました。
同時期の1月であれば、2015年の1月6日の晩がほぼ同様のものとなります。
1月はスキー登山でなければ山小屋まで入山できないので、それ以外の季節であれば、2000年10月14日、2000年11月13日頃でしょうか。
(1)横山厚夫著「山麓亭百話(上)」白山書房
(2)深田久弥著「深田久弥 一日ニ日の百名山」河出書房新社
(3)「吾妻小舎史(大正12年〜平成8年)」吾妻小舎創立60周年記念式典パンフレット
(4)「日本百名山の深田久弥と山の文学展」世田谷文学館
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