田部重治 1931(昭和6)年 4月19日
   

田部重治
わが山旅五十年
1931(昭和6)年 4月19日




登山家、そして文人としても著名な田部重治(1884-1972)の見た夜空です。 最近、再刊行された「わが山旅五十年」(1)は、生い立ちから、山に親しみ、そして各地の山々を次々と登ってゆく様子が時代別に記録集的に整理され、それでいて文章としても楽しく読むことができる構成になっています。 田部重治の山とのかかわりを知るには、好適な一冊と言えるのではないでしょうか。 もちろんその代表作、「山と渓谷」などもおすすめでしょう。
さて、「わが山旅五十年」にも星空を見上げた描写がわずかながら出てきます。 ちょっとした好奇心で、そんな星空を見てみましょう。 第三十七篇には、丹沢山脈を縦走するために入山し、初日、上野田の宿に泊まるところが描かれています。 1931年4月、まだ新緑も美しい山あいの宿、春の風景です。

『わが山旅五十年』第三十七篇より抜粋
 私達は道志川のほとりの上野田につき、それから上青根をへて神山尾根に登り、八丁坂にとりつき、姫岳に至り、蛭ガ岳に登る予定だった。 ところが、上野田へ行くには上野原からの方が順路で三里あり、与世からだと四里ある。 それを知らない私達は、与瀬を二時半に下車して歩いた。 幸いその頃の与瀬からの道はいやではなかった。 というのは、山里は桜や李(すもも)の花盛りで、どこを見ても春ならざるはなく、谷間にせせらぐ流れも、新緑に蔽われて、その間から鶯のさえずる声が聞えた。 時たまに山間にゆとりがあると、麦が青く菜の花が黄色く、時には高原的情調も感ぜられた。 斯うしたいい気持ちで道志川を渡り、堤灯を手頼りに道志川のほとりの上野田の常盤屋についたのが八時頃だった。 ここは美しい町がかった山村、宿は一寸山の中では見られぬ小綺麗な感じがした。 床につく頃、雨の音がして心配したが夜中に晴れ上った。
 翌十九日四時すぎ、案内者と共に出発した。 星は輝いている。 私達の最初の予定ではここから上青根をへて神山尾根を登り、八丁坂に取りつく積りだったが、神山尾根の道は大正十二年の丹沢大地震でなくなり、今はもっと東の横山沢に沿って登るときいた。

「第三十七篇」より(P340)

雨も降った夜でしたが、重治たちが出発した翌日(4月19日)の朝はすっかり晴れ渡ったようです。 「星は輝いている」のひとことが、好天を物語っています。 この文章には、月や星座の描写や惑星の輝きなど、まったくふれられてはいませんが、かえってその星空に興味がわいてしまいます。 この日の夜明けどき、重治たちの出発時間、午前4時の様子をシミュレートしてみました。 もう東の空は白み始まっています。 薄明終了から日の出の時間などを計算すると、

薄明開始  3時37分     
金星出   3時39分     
日の出   5時06分     

となります。 午前3時半すぎにはゆっくりと薄明も開始しますから、4時といえば空もやや青味を帯びて美しい色になっていると思われます。 この時間の月齢は0.8です。 まだ新月を過ぎて間もない頃、月は宵の空にまわっています。 さて、夜明けの星空ですが、夏の星座が中空にかかり、二つの惑星が見えることがわかります。 土星と金星です。 金星の太陽高度はまだ低く、見ることができなかったかも知れません。 土星は高度28度、明るさは0.3等級、いて座を逆行中でした。
余談ですが、この時代の天文の話題として忘れてはならないのは、この前年(1930)の冥王星の発見でしょうか。 アメリカにあるローウェル天文台のトンボーにより発見されました。 身近な話題としては、東京上野にある国立科学博物館に、20cm屈折望遠鏡が設置され、毎週の観測会が始まった頃でした。 さらにもう一つ余談を、重治たちがこの登山を始めた日(4月18日)は、兵庫県明石で、早稲田大学の直良信夫教授が「明石原人」の化石を発見した日でもあります。


- 参考文献 -

(1)平凡社ライブラリー「わが山旅五十年」田部重治著 平凡社(1996再刊)
(2)草下英明著「星日記」草思社(1984)
(3)日本アマチュア天文史編纂会「続 日本アマチュア天文史」厚生社厚生閣(1994)


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