関 徳彌 1929(昭和4)年11月3日
   

関 徳彌
寒峡
1929(昭和4)年11月3日




関 徳弥の歌集「寒峡」に収められた作品より、「昭和四年 晩秋の旅」(十三首)に描かれた星空をシミュレートしてみました。

歌集『寒峡』より

見放(みさ)くればはや明星(ゆふづつ)は淡々と光そめたり山の上の空に


歌人関徳弥(本名:岩田徳弥、1899〜1957)は、宮沢賢治と親戚関係にあります。 賢治との深い交流関係も知られており、賢治没後には、筆名関登久也として「賢治随聞」や「宮沢賢治素描」などの著書で生前の賢治を紹介しています。 この歌集が発行されたのは、賢治が亡くなるひと月ほど前、1933(昭和8)年8月20日のことです。 賢治もこの歌集を贈られ、「『寒峡』巻初の数首について」という文章を寄せています。 (その発表は、賢治没後の岩手日報宮沢賢治追悼号となりました。)


関徳彌著 歌集「寒峡」

作品の星空を探ってみましょう。 この作品には短いコメントが付されています。 「十一月三日横黒線川尻驛に下車。湯本といふところへ志す。」というものですが、この文章により日付とおおよその場所を特定することができます。 日付は1929(昭和4)年11月3日。 横黒線とは現在のJR北上線ですが、1924年11月全線開業当時は横黒(おうこく)線と呼ばれていました。 秋田県の横手駅と東北線の黒沢尻駅を結ぶところからそれぞれの頭文字を取って路線名としたためです。 川尻駅(陸中川尻駅)も旧名称です。 1991年に「ほっと湯田駅」という名称に改称されています。 湯本とは岩手湯本温泉の中心地で、駅からやや北の山間部を入った場所になります。
その晩の星空から考察してみましょう。 明星に「ゆふづつ」とルビがあることから、宵の西空を狙ってみました。 宵の明星、すなわち金星が輝く風景をイメージしたわけです。 ところが、宵空に金星を見つけることができません。 惑星の出没時刻を確認しておきましょう。

金星入  15時43分     
日の入  16時37分     
薄明終了 18時05分     
土星入  19時23分     

時刻からも明らかなように、金星は日の入前に一足お先に・・・と沈んでしまっています。 (つまりこの時期の金星は太陽の西側(=明けの明星)となります。)

では、徳弥が夕方の空に見つけた星はなんだったのでしょうか。 上図のシミュレーションからもわかるとおり、宵の一番星として見えている土星が正体のようです。 土星はいて座を順行中で、ちょうど天の川を横切り、いて座(三裂星雲:M20)に向かい進んでいました。

もしちょうど1年前、1928年11月3日であれば、金星(-4.0等)が力強い輝きで見えていました。 徳弥は薄明光の中で、惑星を誤認していたようです。 そういえば、1931年11月3日は「雨ニモマケズ」の日付ですね。
話を元に戻して・・・。 この晩の薄明終了時の月齢は1.9。 まだ太陽に近い位置で、17時28分に沈んでいます。 徳弥の見た空は、月の明かりに邪魔されない晩でしたから、山奥の温泉地であれば、天の川の横たわる美しい星空を満喫できたことと思います。(2005/2/20)


- 参考文献 -

(1)関 徳彌著 歌集「寒峡」白帝書房
(2)【新】校本宮澤賢治全集 筑摩書房


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