谷川徹三 1921(大正10)年11月15日
   

谷川徹三
母の恋文(谷川俊太郎編)
1921(大正10)年11月15日




最近文庫版として出版された「母の恋文 谷川徹三・多喜子の手紙 大正十年八月〜大正十二年七月」(1)は、詩人谷川俊太郎(1931-)の父、谷川徹三(1895-1989)そして母、長田(旧姓)多喜子(1897-1984)の手紙のやりとりを谷川俊太郎氏が整理して刊行したものです。 537通もの手紙のなかからその約四分の一がを整理してまとめた本です。 最近読んだものの中ではとても印象的な一冊でした。 谷川徹三氏、多喜子さんの時代は、ちょうど宮沢賢治がまだいろいろと活動していた時代とも重なり、賢治の年譜と重ね合わせてみるだけでも興味深い思いです。 さて、そんな手紙の中にも星の風景がありました。 数多くありますので、ゆっくりと紹介しましょう。
これは1921(大正10)年の「十一月十六日」消印の手紙です。 谷川徹三氏は京都市上長者町、長田多喜子さんは京都市外淀町に住んでいました。

『母の恋文』(大正十年八月〜十二月)より抜粋
 十一月十六日

 十一月十五日
 今朝お手紙拝見いたしまました。 そしてあなたの私に対する好意ある見方について有難くおもひます。

中略

 いま十時すぎです。 久保氏と林君がいままでゐました。 私は相良への葉書を出しにポスト迄行きましたが、ほんたうにいゝです。 ―私は今日図書館からのかへりに、東山からこの月の出るのを見てゐたのですが、いまはまったく中央にかゝってゐます。 あなたも未だ今夜は起きていらっしゃいますね、まだ十一時になってゐませんから。

「谷川徹三・長田多喜子の手紙 (大正十年八月〜十二月)」より(P58)

谷川徹三氏の文章です。 今回は月の様子が書かれています。 手紙の消印の日付は11月16日ですが、日記風に11月15日のことを書いています。 まず図書館の帰りに月の出を見たことが書かれています。 この日の月の出のころの時間を計算すると、

月の出  16時50分     
日の入  16時53分     
薄明終了 18時19分     
月南中  23時47分     

となります。 夕方17時少し前頃に、東山から昇る月を眺めたようです。ちょうど日の入の時間とも一致する頃です。 シミュレーションした画面は、京都における19時の東空です。 この晩の月齢は15.4(17時)で、満月の夜だったわけです。
また、「22時に久保・林の両氏が帰った」あと、そして『まだ十一時になってゐませんから』という間の月の位置を「いまはまったく中央にかゝってゐます」と言っています。 まったくの中央=月の南中をさしますが、この晩の南中の時間は、23時47分ですから、およそ1時間ほど早めに見積もったことになるのでしょうか。 この晩の月の南中高度は、70.3度です。 ほぼ天頂にあるかのように感じられる高度です。 きっと月明りが京都の街を明るく照らしていたことでしょう。


- 参考文献 -

(1)「母の恋文 谷川徹三・多喜子の手紙 大正十年八月〜大正十二年七月」谷川俊太郎編 新潮文庫(1997)


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