長田多喜子 1921(大正10)年 9月27日
長田多喜子
母の恋文(谷川俊太郎編)
1921(大正10)年 9月27日
最近文庫版として出版された「母の恋文 谷川徹三・多喜子の手紙 大正十年八月〜大正十二年七月」(1)は、詩人谷川俊太郎(1931-)の父、谷川徹三(1895-1989)そして母、長田(旧姓)多喜子(1897-1984)の手紙のやりとりを谷川俊太郎氏が整理して刊行したものです。
537通もの手紙のなかからその約四分の一がを整理してまとめた本です。
最近読んだものの中ではとても印象的な一冊でした。
谷川徹三氏、多喜子さんの時代は、ちょうど宮沢賢治がまだいろいろと活動していた時代とも重なり、賢治の年譜と重ね合わせてみるだけでも興味深い思いです。
さて、そんな手紙の中にも星の風景がありました。
数多くありますので、ゆっくりと紹介しましょう。
1921(大正10)年の「九月二十八日」に書かれた手紙です。
谷川徹三氏は京都市上長者町、長田多喜子さんは京都市外淀町に住んでいました。
『母の恋文』(大正十年八月〜十二月)より抜粋
九月二十八日
二十七日よる
やっと、水の心配がなくなりました。
中略
私はあなたを知りましてから日も随分浅いですがあなたと御一緒の時の風景を思ひ出して居りました。
いつか西の空も暗くなり大きい星が一つ出てゐました。
「谷川徹三・長田多喜子の手紙 (大正十年八月〜十二月)」より(P27)
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さっそく星の記録があります。
手紙を書いた日付は9月29日ですが、日記風に9月27日のことを回想して書いています。
西の空が暗くなるころの大きい星ですから、予想としては金星、または木星などの惑星が候補にあがります。
そんな期待をしつつ、さっそくまだ薄明の残る京都の宵の空をシミュレートしてみました。
ところが、これといって目立つ惑星はありませんでした。
よく見ると薄明中のこの日の一番星は、うしかい座のアルクトゥルス(アークトゥルス)です。
北斗七星からたどる「春の大曲線」の最初の1等星です。
明るい恒星(0.0等)で、意味は「熊の番人」です。
日本では「麦星」として親しまれてきた星です。
ほかに目立つ星もないので、この星が「大きな星」でしょう。
この日の薄明終了のころの時間を計算すると、
日の入 17時58分
薄明終了 19時21分
となります。
多喜子さんが星を見つけたのは19時頃でしょうか。
さて、「大きな星」という言葉、宮沢賢治の作品にも似たような表現で取り入れているものがあります。
詩集「春と修羅」の「風景とオルゴール」という作品です。
薄明の空のなか「そこから見当のつかない大きな青い星がうかぶ」と明るい星を見つけたことが記されています。
- 参考文献 -
(1)「母の恋文 谷川徹三・多喜子の手紙 大正十年八月〜大正十二年七月」谷川俊太郎編 新潮文庫(1997)
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