永井荷風(1879-1959)による「断腸亭日乗」、この膨大な42年間にも及ぶ日記の中に、天文に関連した部分見つけることができます。
文庫として磯田光一氏により摘録としてまとめられた、「摘録 断腸亭日乗(上)」(1)、をあたってみました。
1917年12月28日に、皆既月食の記述を見つけることができました。
十ニ月廿八日。 米刀堂主人『文明』寄稿家を深川八幡前の鰻屋宮川に招飲す。
余も招がれしかど病に托して辞したり。
雑誌『文明』はもともと営利のために発行するものにあらず。
文士は文学以外の気焔を吐き、版元は商売気なき洒落を言はむがため発行せしものなりしを、米刃堂追々この主意を閑却し売行の如何を顧慮するの傾きあり。
予甚快しとなさ、今秋より筆を同誌上に断ちたり。
薄暮月蝕す。 |
宵の現象であること、また食の全経過を見ても夜半前に終了するので、一般に見やすい月食だったといえます。
月の辺りには、明るい木星と土星、そして冬の星座としておなじみの1等星の数々、皆既中は星空を楽しむにも絶好の条件だったようです。
賢治はちょうどこの頃、盛岡高等農林学校に籍を置き、親友保阪嘉内らと文芸活動にも傾倒していました。
地質調査や登山をしたりと、充実した学生生活を送っていた時期です。
また、翌年3月に卒業を控え、その進路をめぐり、父親との対立も出始める頃でしょうか。
この月食を賢治も眺めていたかも知れません。
(1)「摘録 断腸亭日乗(上)」岩波文庫
(2)松本哉著「永井荷風の東京空間」河出書房新社
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