永井荷風 1917(大正6)年12月28日
   

永井荷風
断腸亭日乗
1917(大正6)年12月28日




永井荷風(1879-1959)による「断腸亭日乗」、この膨大な42年間にも及ぶ日記の中に、天文に関連した部分見つけることができます。
文庫として磯田光一氏により摘録としてまとめられた、「摘録 断腸亭日乗(上)」(1)、をあたってみました。 1917年12月28日に、皆既月食の記述を見つけることができました。

『大正六(一九一七)年』より抜粋
十ニ月廿八日。 米刀堂主人『文明』寄稿家を深川八幡前の鰻屋宮川に招飲す。 余も招がれしかど病に托して辞したり。 雑誌『文明』はもともと営利のために発行するものにあらず。 文士は文学以外の気焔を吐き、版元は商売気なき洒落を言はむがため発行せしものなりしを、米刃堂追々この主意を閑却し売行の如何を顧慮するの傾きあり。 予甚快しとなさ、今秋より筆を同誌上に断ちたり。 薄暮月蝕す。

12月28日の最後の部分に、「薄暮月蝕す。」と、夕暮れ時に月食があったことが記されています。 この時期、荷風は、「断腸亭」と命名した現在の新宿区余丁町に住んでいました。 画面のシミュレーションは、この晩の19時における東の空の様子です。 見てわかるとおり、皆既月食です。
この日の夕刻の日没などの時間を計算すると、

月の出      16時27分
日の入      16時37分
本影食開始    17時05分
薄明終了     18時07分
皆既開始     18時27分
食最大      18時50分
皆既終了     19時14分
本影食終了    20時36分
月南中      23時53分

となります。
夕方16時27分に月が昇り、その10分後に日没。 そして17時すぎ、まだ十分に明るい「薄暮」どきに欠け始まります。 半影食はすでに進行しつつありました。 本影食開始約1時間後に、薄明終了となり、すっかり暗くなります。 皆既はその20分後に始まり、19時14分まで続きます。

次の図は、1時間おきの月の様子です。空は17時の背景をシミュレートしています。

宵の現象であること、また食の全経過を見ても夜半前に終了するので、一般に見やすい月食だったといえます。 月の辺りには、明るい木星と土星、そして冬の星座としておなじみの1等星の数々、皆既中は星空を楽しむにも絶好の条件だったようです。
賢治はちょうどこの頃、盛岡高等農林学校に籍を置き、親友保阪嘉内らと文芸活動にも傾倒していました。 地質調査や登山をしたりと、充実した学生生活を送っていた時期です。 また、翌年3月に卒業を控え、その進路をめぐり、父親との対立も出始める頃でしょうか。 この月食を賢治も眺めていたかも知れません。


- 参考文献 -

(1)「摘録 断腸亭日乗(上)」岩波文庫
(2)松本哉著「永井荷風の東京空間」河出書房新社


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