島崎藤村 1901(明治34)年 3月12日
   

島崎藤村
千曲川のスケッチ
1901(明治34)年 3月12日




長編作品『破戒』などで知られる島崎藤村(1872-1943)にも星の風景があります。 「千曲川のスケッチ」(1)と呼ばれる散文集の中に収められています。 この作品は1899(明治32)年4月〜1905(明治38)年5月までの間、塾教師として小諸で過ごした単身生活の様子を、千曲川流域の自然や人々の生活なども交え、4月に始まり4月に終わるという1年間の読み物として後年書きまとめられたものです。 発表は『中学世界』(1911年6月〜9月連載)が最初で、翌1912年12月に一本化されました。

『千曲川のスケッチ』より「星」
 月の上るのは十二時頃であろうという暮れ方青い光を帯びた星の姿を南の方の空に望んだ。 東の空には赤い光の星が一つ掛かった。 天にはこの二つの星があるのみだった。 山の上の星は君に見せたいと思うものの一つだ。

「星」(P147)

さて、この「千曲川のスケッチ」の星については、草下英明先生の考証(3)があります。 「青い星」と「赤い星」の特定を以下の手順で推測しています。
まず季節(時期)の特定をしています。 「千曲川のスケッチ」が、季節順に書かれているという点に着目して、この「星」という文章の前後の文から判断し、「3月の中旬」という時期を特定しています。
続いて、その時期の恒星や惑星の配置から推測します。 3月中旬の「暮れ方」ということから、南の空にはオリオン座などの冬の星座、東の空にはしし座、おとめ座などの春の星座が位置していることを説明しています。 南の空の「青い星」は、全天で一番明るい恒星となるシリウスとしました。
問題は東の空の「赤い星」です。 一度うしかい座のアルクトゥルスを候補にあげますが、明るさや色の点から惑星として検証を続けます。 赤い惑星とすれば、「火星」です。 では、島崎藤村が小諸に在住した時期で3月の夕方火星が東の空に見えていたのでしょうか? 天文暦からみると、1900(明治33年)にしし座、1901(明治34)年にはおとめ座に位置していたことがわかることから、1901年3月であろうとし、二つの星の正体を「シリウス」と「火星」と特定されています。
ここでは、コンピュータの力を借りてさらに一歩進めて、日時まで特定してみました。 手がかりは、「月の上るのは十二時頃」という部分です。 1901年3月の中旬頃の小諸における月の出の時刻を計算してみると、

3月11日(月):23時19分
3月12日(火): 月の出なし
3月13日(水): 0時12分

となります。 このことから、藤村が月の出の時間をどこまで厳密に「十二時頃」としたかはわかりませんが、3月13日の月の出が0時12分であることから、3月12日の宵が一番適していることになります。 時間も推測してみましょう。 この日の宵の日没などの時間を計算すると、

日の入  17時51分
薄明終了 19時16分

となります。 「天にはこの二つの星があるのみだった」という記述に留意すれば、シリウスが-1.5等、火星が-0.9等ですから、日没後30分(18時21分)から40分(18時31分)頃でしょうか。 19時を過ぎる頃には、星座の形もはっきりするほどになります。 最後に藤村は「山の上の星は君に見せたいと思うものの一つだ」と述べていますが、山で見る星の美しさは今も昔も変わらないようです。


- 参考文献 -

(1)「千曲川のスケッチ」島崎藤村 新潮文庫(1955)
(2)「小諸時代の藤村」並木張著 千曲川文庫(1992)
(3)「本の本 1976年1月号」ボナンザ


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