自分学

阪神淡路大震災 体験記


    当時の状況をイラストで再現しました(画像24K+24K)
     
     

●プロローグ

 前日まで、平成不況が続く中ではありましたがが、いつもと変わらぬ平和な日々が続いていたのです。前日の日曜日、南港のATCへ行って、ゲームセンターで遊んだりショッピングしたりして楽しんだ後、阪神高速道路の湾岸線を走って帰ってきました。子供達と早めにお風呂に入ってゆっくりとした日曜日を過ごしました。夜は、私が最近こりにこっているMacのパソコン通信で遅くまでピコピコやって12時頃、やっと眠りについたのでした。                        
 1995年1月17日、午前5時46分。いつもならお父さんが起きてトイレで新聞を読んでいる時間ですが、昨日の疲れが残っていたのでしょうか、この日は、まだ寝床の中でした。ゴトゴト!ガッタン・ガッタン!グワーン・グワーン!ドッカーン・ドカーン!

 思い起せば身震いするようなすごい体験でした。この体験をできるだけ皆様にお伝えし今後の非常時になにかのお役にたつのではと思いペンを取りました。

●ハルマゲドンがやってきた!

 地球壊滅の日がとうとう来たと思った。これで地球が消滅し、みんな死んで宇宙の塵となってしまうんだと思った。初めの一瞬は地震だ!と思ったが、次の瞬間はもう地震だとは思えなかった。地震で揺れるというよりもカクテルをシェーカーでシェイクする時のように部屋全体が気が狂った様になった。              

 最初、地鳴りや地響きと共に上下にドンドンドンと突き上げられては、落とされ、落とされては、突き上げられたりした。体が跳ねた。家具が飛び上がる。どうなったのだ。ここは、マンションの10階、地上から約35mはあるところなのだ。考えられない。声もでない。必死で隣に寝ている6才の長男の上に覆いかぶさった「じっとしてろ!」と長男に言うのがやっとだった。恐怖で声も出ない。こんな巨大なマンションが突き上げられているとは・・・。次にきたのが、南北方向の揺さぶり、振幅1mは、完全に動いているのがわかる。ガッシャーン!バッシャーン!ドッサーン!家具が次々に倒れる。転ぶ。踊る。寝ている部屋の足元に置いてある本がぎっしり入った大きな本箱が私たちの背中に倒れてきた。幸い布団の上からだったのでショックは、ずいぶんと和らげられたが、背中にはドサッという鈍い重みを感じた。本箱のガラス窓も割れて飛び散っているようだ。まだこれでもかというぐらいに揺さぶられる。まるでキングコングがまさにマンションをへし折ろうとしているのではなかろうかといった感じだ。これでは確実にマンションが折れる。折れて10階の私たちの家が1階に落下していくありさまを頭に描いた。これで終わりだ。

●もうあかん、あきらめよう・・・

 みんな死ぬんだ!頭の中は、そのことでいっぱいになった。恐怖を通り越して、冷静になり自分で自分に人生をあきらめさせる努力をした。しかたがない・・・と。そして、せめてマンションが折れて落下した時に少しでもショックを和らげてやろうと長男をしっかり抱いてやった。
                                  

●全員無事だ!

 幸いにも揺れが止まった。悪夢の世界から急に現実に戻ったような感じがした。でも体が動かない。本箱が、私と長男と妻の上に載っている。妻が、「重い!本箱起して!」と言った。私は、「よっしゃ!ちょっと待っとけよ」と震える体を感じながら、火事場のバカ力を発揮して起し上げた。次男が泣き出した。「いたいよ〜」3枚とびらの押入の中身は、すべて部屋側に落ちている。押入の中段にあったプラスチックの整理ボックスが次男を埋めている。妻が、次男の名を呼び泣き叫ぶ。次男を保護していなかったらしい。「大丈夫か!」と私。次男は、泣いているものの無事なようだ。

 あとで聞いた話しでは長男と次男の間に寝ていた妻は、一瞬どちらをかばえばいいのか迷ったらしい。とにかく長男の上には、本箱が倒れるとあの重さでは絶対に死んでしまうと思ったが左には次男もいるし身動きがとれなかったようだ。子供を保護する余地がなかったほどすごい揺れだったのだ。

●脱出準備!

 家族の無事を確認した私は避難することをとっさに考えた。こんなに揺れたんだから火を使ってた家もあるだろう。電気がショートして発火した家もあるだろう。これは火事になる。きっと火事になる。高層のマンションの火災は怖い。一度下から燃え上がってしまうと降りるに降りれなくなる。脱出だ!マンション全体が火に包まれないうちに逃げよう!

 まだ、外は真っ暗だ。もちろん停電で灯りがつかない。まだ外は寒いから暗闇の中、子供のはんてんを探す。車のキーを昨日コートのポケットに入れてあったのを思いだすが、家具が倒れてたり移動してたりして暗くて何が何だかさっぱりわからない。コートはどこだ!ダイニングテーブルの椅子の背に掛けてあったはずだ。妻が、貴重品の入ったポーチを探す。

 とりあえず揃った。闇の中だが、ずいぶん目が慣れてきたようだ。足は、地震の恐怖でガクガク震えが止まらない。リビングを通って玄関に向かうが、家具が散乱していて思うように進めない。妻が「お父さんのマッキントッシュが落ちている」昨夜まで楽しく戯れていたマッキントッシュのパソコンだが無残にも机から飛び落ちて床にたたきつけられている。私は「そんなもんいらん!はよ出よ!」命が助かったと思うのは、うまく脱出できてからだ。まだどうなるかわからない命だ。

●脱出成功!助かった!

 玄関横の下駄箱の観音開きの扉が開いて、たくさんの靴で玄関が埋ってる。でも玄関の扉は外に開くはずだ。地震や火災で扉がゆがんで開けられなくなるケースが多いことを思い出した私は一瞬不安になった。ガチャッ!幸いにも開いた。これで外に出られる。外はまだ薄暗い。まだ夜といってもいいほどだ。

 赤色の非常ランプだけがついている。異様な静けさがあった。外は、コンクリートがぶつかりあったのであろうか、すごく埃っぽく、きなくさい。暗くて靴がわからない。裸足で降りよう!火災になる前に。そしてまた大きな地震が来る前に。妻は、玄関の鍵を締めようとしている。靴が散乱していてうまく締められない。「もういいやんか、早くしろ!」と私。「そんなこと言うたって」と妻。なんとか鍵が締まった。みんな裸足だ。私が当時6才の長男を妻が4才の次男を抱き、エレベータは、勿論停電で無理なので、階段を掛け降りる。途中、やっと非常ベルがけたたましく鳴り始めた。階段は、コンクリートのガレキだらけだ。足を何度か踏み外しよろけた。「お母さん!大丈夫か?」と後ろを振り向き振り向き声を掛け合いながら一気に掛け降りた。下に降りてエントランスホールを通って外に出るのは近いが、上からの落下物や倒壊があるかもしれないと、ここは安全を第一に考え、外回りでマンションの門に向かった。

 マンションの門を出た所では、すでに30人くらいの入居者が寝巻姿で避難していた。みんな不安そうにマンションを見上げている。寒い!子供達と妻を門の所で待たせ、昨年8月からマンションの前に借りている駐車場へと裸足で走る。車にみんなを乗せた。この瞬間、助かったと思った。妻が「これからどうしたらいいの?」って言う。「命が助かっただけでもいいじゃあないか・・・ありがたいと思わないかん」と私。

 車の中で室内灯をつけて、ふと見ると私の左手の薬指の第二関節からすごく血が出ている。その血が着いたのであろうか抱いていた長男のパジャマは血だらけだ。マンションの8階の一室が火事だ!消防車が来た!中の人は、大丈夫なんだろうか。

●実家へ避難!

 時は、すでに6時半。まだあたりは薄暗い。とりあえず武庫之荘の実家へ避難しようと車を走らせた。アクセルを踏む足の震えがまだ止まらない。電柱が倒れかかっている。車のラジオのアンテナが電線にひっかかりバァーンという音がした。あわてて災害発生を流し始めているラジオを消しアンテナをひっこめた。みんな外に出て近隣の人と話している。屋根の瓦などが道に散乱している。

●あっ!新幹線のまくら木が空中に!

 国道171号線に出た。大きな交差点だが停電で信号機が消えている。ゆっくりと安全を確認しながら交差点を右折した。わき道に入っていつも通る新幹線の橋げたをくぐろうとすると、「あっ!」新幹線の橋げたが中段までワンスパン落ちている。空には、まくら木がついたレールだけが浮かんでいる。これは、えらいことになった。地震の大きさがわかった。この下をくぐるのは危ないので回り道をして実家へと急いだ。

 実家でも停電になっており、母は、懐中電灯片手に地震で倒れた物の後片付けをしている。父は、車の中でラジオを聞いている。なにより無事でよかった。2階のタンス部屋は、むちゃくちゃに倒れており、手のつけようがない。サッシ窓がきしんで開かない。雨戸もおかしい。ここもかなりの揺れを受けたのだ。

●会社はどうなった!

 子供達を母に預かってもらって、気になる会社へ妻と急いだ。案の定、無残にもブロック塀は、道路側にべろんと倒され、隣のマンションの住人の路上駐車している車に被いかぶさっている。工場の中は、もう足の踏み場が無いほど機械が倒され、材料棚も倒され、材料が散乱し鉄の山になっている。もし仕事中だったらと思うと身の毛がよだつ。

 そうするうちに何人か出社してきたので復旧作業に取りかかった。服は、まだパジャマの上にナイロンのジャンパーを着たままだ。靴は、実家で父のジョギングシューズを借りて履いている。ラジオを聞きながら復旧作業を進めるうちに、だんだんと大規模災害になっいる報道が、なされてきた。神戸の妹夫婦は、大丈夫だろうか。

●妻はマンションへ向かった

 妻は、私が会社の復旧作業にかかりっきりになったので、一人マンションへ地下の駐車場に置いてある車を取りに歩いて向かった。途中、池尻小学校の向かえの家の一階部分が、つぶれ二階が一階になっている。皆、大丈夫だったのだろうかと頭の中が混乱している割には徐々に冷静さを取り戻していった。地下ガレージのシャッターが開かない。管理人さんと住人が何とかこじ開けようとしているが全然びくともしない。マンションの玄関前では、布団や毛布をかぶった子供達やパジャマ姿の人々でいっぱいで皆、不安そうにマンションを見上げていた。地震で物が頭に落ちてきたのであろうか、頭から血を流して歩いている人もいた。

 昼ごろになって、貴重品など、一時部屋に取りに帰ってもいいということになったので、同じ10階の隣人と恐る恐る階段で上がって行った。途中、朝の暗闇では目にすることができなかったマンションの損壊状態が次々と目に写り、がく然とした。175世帯が住む巨大なマンションも一瞬にしてこのような状態になるのか・・・。

●声もでないありさま

 鍵をあけて部屋の中へ一歩入ったとたん、声も出なかった。もうグシャグシャである。朝は、暗くて良くわからなかったけれど、どうしたら、こんなにひっくりかえるのか。泥棒が入ったってこんなにはならない。やっぱりキングコングがマンションを揺さぶった感じだ。家具をかきわけかきわけ中に入って寝ていた和室を見たときは、よく大ケガもせずに出られたなぁと思った。枕元には、大小のガラスの破片が、飛び散っており、ゾッとした。キッチンも食器棚が倒れており、床から1mぐらいは、食器やなべや調味料等の山で、奥へは一歩も立ち入ることができない状態だ。手前から片付けていくしかない。もう30分遅くて妻が幼稚園のお弁当でも作っていたら・・と思うとゾッとする。これでは、出るに出られない状態になっていただろう。それに火をつかってたら・・・。                          
 子供部屋も本箱が倒れ、おもちゃ箱がひっくり返り、買ったばかりの子供の机や椅子が、キズだらけ・・・。どこから手をつけていいのかわからない。気が狂いそうだ。そして余震が続く中、いつ揺れるかわからない恐怖心。10階だけに落ち着かない。とりあえず、貴重品だけ集めて、武庫之荘の実家へ帰った。

           

●ジャンパーを着てこたつで雑魚寝の日々

 マンションには、立ち入れない状態なのでしばらく武庫之荘の実家でお世話になることになった。神戸の妹一家も避難してきている。               

 地震当日から、10日間程は、余震が絶え間なくやってくる。地響きと共にだ。北の方から地響きが走りよって来る。怖い。2階が落ちてこないだろうか。もし、大きな地震がきて家がつぶれたら、勝手口から脱出しようと打ち合わせをした。みんな懐中電灯を持ってジャンバーを着て眠る日々が一週間続いた。TVは、地震情報を見るために音を消して夜中もつけっぱなしだ。電気は、すぐに復旧したが、水道が出ない。ガスがこない。町中が、ガスくさい。地中に埋設されたガス管がはずれたのであろう。風呂へ入れない。店が開かない。

 店がぽつりぽつり開きだしたのは、3日後ぐらいだ。水道やガスが復旧されたのは、1週間ぐらい後だ。それまで、豊中の実家へ行ってもらい水したり、吹田に住む義理の兄さんのところでお風呂に入れてもらったりと・・・すっかり皆様にお世話にならせてもらった。いろんな方から生活物資を送っていただいたりで感謝感謝の毎日だった。そんな生活が一週間続いた。

 みんな心身の疲れがたまってきたのか、居直ったのか、パジャマに着替えて眠るようになった。 しかし、枕元には、貴重品とジャンバーと懐中電灯を置いて眠った。夜中の余震は、怖い。あの1月17日の出来事がよみがえる。地震がこんなに怖いものだと生まれて初めて経験させていただいた。自然の力をなめてはいけないのだと思う。人は、自分一人では、とうてい生きて行けるものではない。いろんな人とかかわりあって生きているのだ。だからこそ、みんなで協力しあって生きていかねばならないということを切実に感じることができた。

                         

●またマンションに住めるのか?

 地震後3日は、手つかずだったマンションもとりあえず住むにしても住まないにしてもきれいにしないといけないので、毎日、必要な衣類を実家に運んだり、下から水をポリタンクへ入れて階段で持ち上がり何十袋の室内のガレキのごみ袋を下まで運び、余震の恐怖におののきながら室内の清掃をし続けた。地震後20日目に、やっとマンションのライフラインである電気・ガス・水が戻ってきたので、またマンションへ私たち家族は帰ってきた。

 しかし、まだエレベーターが復旧していないので階段を使って10階まで上り降りしなくてはならなかった。ので、子供達のおしりを追い追い、5階で一度休憩しながら10階へ上り降りする日々が約1週間続いた。私たちが戻ってきた時は、なんとマンションの全体の1/3ぐらいしか入居者がいなくて、ついには、空き巣による盗難などがあり、火事場泥棒なる者には本当に憤慨させられた。

    

●地震後4ヵ月がたちました

 うちのマンションの175世帯のうちの15世帯の方は、まだ一部倒壊の危険があるため、住むことができませんが、その他の方々は、ほとんど全員戻ってきております。マンション復旧の管理組合の集まりも地 震後、毎週日曜日に開催され、全世帯の4/5の議決をもって約6億1471万円かけてマンションの復旧工事をすることになりました。

 地震後、約4ヵ月が過ぎようとしている現在、足場を組み上げ、クラック箇所のはつり作業や、破損箇所の修復作業が急ピッチで行われておりますが工事現場の中での生活は色々と危険を伴い今だ安心して生活は出来ません。費用は、マンションの入居者で全額負担致します。各戸の負担金額は、各戸の専有面積の割合で決まります。ちなみに、私たちが住むお家は、約370万円の負担なのです。でもまだ、ローンがたくさん残っている中、大きな出費となりますが、とても気にいっているマンションなので、一刻も早く、元通りのマンションに戻ってくれたらいいのになと思っております。

 私たちの住む日本列島は、地震の活動期に入ったと言われております。皆様も非常時の際、適確な判断で非難できますように非常時の備えを怠りなくされますようお願い致します。

 地震の復旧であわただしい中、当家の長男は、伊丹市立の小学校の1年生に、次男は、伊丹市立の幼稚園の年中組に入学入園し、毎日元気によろこんで通学通園しております。子供達が大きくなった頃、この阪神淡路大震災で得た多くの教訓を忘れることなく将来の危機管理に役立ててくれることと思っております。この阪神淡路大震災で多くの方々からご心配をしていただきありがとうございました。ここに皆様へ厚く感謝致しますとともに、皆様の今後のご健勝とご多幸を祈って御礼とさせていただきます。

                           
平成7年5月吉日  

  

    1995年1月17日午前5時46分 私たちは、一生忘れることはないだろう
     
    多くの震災犠牲者の方々に追悼の意を表します
     


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