第三章 初期仏教伝来の諸相とその特徴2 〜伝来初期の訳経僧    

 この時代、中国東部・江北江南の狭間で仏教が楚王英や乍融という存在を借りて歴史に名前を登場させていたのと同時代的に、洛陽には支婁迦讖、安世高、江南・建業や会稽には支謙や康僧会といった西方・南方からの仏教世界からの訪問者が具体的な名称を示しながら中国に到来していた。

 洛陽を中心として、中国に於いてのおそらく最初の訳経事業を始めたのが、後漢・桓帝代に相次いで洛陽を訪問した「安世高」と「支婁迦讖」であろう。
 安世高は安息国(パルティア=ペルシア東部)の出身。建和二年(一四八)頃洛陽入りしたといわれる。生没年は不明。おそらく西方からの商人などの流入の経路をたどるようにして、それら奉仏の徒とともに洛陽入りしたのだろう。桓帝に浮図信仰の素養があったことは既に述べたが、時代が重なるという理由だけで安世高の仏典によって彼が仏教を掲げていたかは短絡的に判断つけられない。ただ、そのような人物が皇帝の膝元である都市において弾圧等受けずに活動できたこと、それらの教え、漢訳仏典が需要がある程度に漢語を使う人々、つまりネイティヴな中国人、及び漢語を使って生活するほどに(もしくは仏典を読む際に漢語で書かれたものを選択する程度に)中国に帰化し得ていた人々に求められていたということは注意すべき背景だろう。桓帝の仏教信奉の可能性を示唆するものとして襄楷の上訴文について挙げた(第一章)が、そのなかで襄楷は老子の思想が西方に渡って仏教を生んだということについても言っている。もちろんそれが妄言であることは仏教の存在を既に世界史的に知っている我々には明白ではあるが、彼が上奏した一六七年という時代に於いては仏教の教えというのはその程度に混同されていたものでもあったということだ。その時代にあって安世高は三十五部とも言われる経典を訳出せしめたのだ。
 彼についての記述(訳した経典など)は『高僧伝』『出三蔵記集』に詳しいが、そこには歴史的事実としては容易に信用しがたい部分も多い。彼の晩年は洛陽周辺は戦争の混乱にあり、先の書物の説話に拠れば会稽に到った安世高は市中の喧嘩に巻き込まれて死んだのだという。
 支婁迦讖は安世高に遅れること約二十年ほどで洛陽入りした。彼は月支国の生まれで、安世高が小乗系の仏典を多く訳したのに対し、支婁迦讖は大乗系の仏典の翻訳に力を尽くした。安世高同様に生没年は不明で、彼もまた戦争の混乱に巻き込まれ洛陽におけるその事業の断絶をせまられたのであろう。支婁迦讖の訳経事業が本義に於いて安世高と異種的な部分をもちえながらも、中国人にとって安世高のそれと同義の存在のように受容されたその思想的背景はおそらく同様のものだろうと思う。また、月支国はこの時代カニシカ王治世のもと、仏教保護政策に力が入れられていたが、その地域によるそのようないわばポンプのような役目もあって急激な仏教徒のシルクロード周辺への伝播が進められていたのだろう。  

 時代がさらに五十年ほど下って、三国時代・呉国建業にあって訳経に取り組んでいたのは支謙である。支謙は支婁迦讖の弟子である支亮に師事し、仏教の教養を受け、それら支婁迦讖、支亮らと共に「三支」と称され、当代指折りの仏教賢者と認識されていた。父の代に国人(名前の示すとおり月支の人である)数百人とともに帰化し−−これなどもまた当時の中国の西方からの人の流入の端的な事例と言えるだろう−−た彼だが、董卓の乱で洛陽を追われ、争乱をさけて江南に逃れて呉に到った。そこで孫権に才能を高く評価された彼は博士に任ぜられ呉国庇護のもと訳経事業に取り組んだのである(『出三蔵記集』「支謙伝」)。
 康僧会はほぼ同時代、呉国に入った。中国統治下最南部の貿易都市として、また武帝以来南海経由の物資と情報の中継基地となっていた交趾郡で康僧会はインド商人の子として生まれた。もとは一族は元々は康居(現在の新彊ウイグル自治区近辺)というが、のちに天竺(インド)に移り住み、康僧会の父の代には交趾に移ってきていた。

  
康僧会、其先康居人、世居天竺、其父因商買、移于交趾

(『高僧伝』「康僧会伝」)

 交趾という地には、後漢期には実際に中原の知識人も移住を図っていたともいうが、康僧会の時代、積極的に交渉を持とうとしていたのはやはり広州・交州統治に力を注いでいた呉であろう。康僧会はこの地にあって仏教に接し、出家僧となった。しかし、彼がまだ全てを学び得ないうちに彼の仏法の師は亡くなり、父母も失っていた彼は身寄りのないままにそれを契機としてか仏教の布教を志して建業に向かった(呉・赤烏十年・二四七年)。『高僧伝』に「有識量、篤志好学、明解三蔵、博覧六経…」とあるように、既に高度な学識を有していたことが判る。自ら沙門と称して建業(昔の丹陽)において仏教の伝播を始めた彼であるが、その姿が奇異に見えたか、「容服非恒、事応検察…」とあるように孫権は彼を召還して詰問した。

  
建曰「昔漢明帝夢神、号称為仏、彼之所  事、豈非其遺風耶」…

(同上)

 それは、このようにあり、康僧会の教えが漢明帝の感夢求法説の逸話と同じものかを尋ねるのである。この後康僧会は、奇蹟を以て五色に輝く仏舎利を出現させたなどと途端に信憑性が無くなる事例ではあるが、そのようなことを為して孫権を感服させ、あらたに建業に寺を構えることを承認され、建業で初めての寺となったことからそれは「建初寺」と呼ばれることになった。
 実際のところ、特に後半部に於いては彼という人物をはかりかねる描写が多い。しかし、彼がどういう来歴で建業にいたり、どのような格好・習俗をしていたか。また、伝中に「営立茅茨、設像行道、時呉国以初見沙門…」というように、彼が貧しいながらも庵を結んで仏像を設置して道を行う…修行と布教を進めていたことが記述され、それが沙門を初めて見ると描写される辺りは、やはり南方経由の天竺と直結した仏教の姿がいかにこれまでにないものであったかを示すものであろう。この地がかつて“楚王英”を経験し、また、支謙などが既に入っていて訳経事業に取りかかっているにもかかわらず、だ。
 また、右記孫権の質問も意味深い。この記述がフィクションとしての要素を全く廃しているとは言い難い部分が(殊に仏教側からの視点から書かれている書物故に)あるが、これがある程度事実だと許容するなら、孫権のもとには明帝の夢に見た神が既に仏と断ずるだけの研究(と言うよりは講話か?)が進められ、知られていたことにもなる。    
 本来ならばこれら一人一人の為し得た仕事…訳した経典の内容その他の検証、そしてそれが与えた影響まで論に組み込みたいところだが、ここで取り上げておきたいのは、彼らがどのような時代に、どのような経路で、なぜこの地に到ったかということだ。    

 安世高の会稽入りは多分に説話的で必ずしも信用がおけないものではあるが、そのような西域仏法僧系においてそのような人の流れがあったことを示すものであるだろうし、支謙についても同様であろう。この時期に平行して中国は戦争の混乱期に突入し、董卓の乱においては洛陽は半壊の憂き目にすらあった。このことで洛陽に多く集まっていた西域僧は関中から放出されねばならなくなり、その中で幾人かの著名な僧が東へ東へと信仰を求めるその需要に従って下っていったのではなかろうか。本来ならむしろ洛陽の多くの民が疎開しただろう(その地に最も近しく西域寄りの)大都市長安などに移住していく方が物理的には理に適っているようにも思われ、あくまで想像の域を出ないが、そういった事実は彭城方面にそのような仏僧の受け皿があったかもしれないことを推測させ、そのことはそう極端な飛躍ではないように思う。
 中原周辺の戦争の混乱にあって、当然「絹の道」はその騒動によって断絶させられ、それまでコンスタントに流入していた西域人・西域僧は長安ないし、中国の手前の段階で堰き止められたという部分はあるだろう。同様にその時期南方系の仏教が北上し得なかったという部分も、例えば康僧会の存在などからは感じられ、丹陽(建業)を核とした江南地方、そして彭城周辺の仏教相に殊更特異な味付けを施したと思われるのだが、それについては次章に於いて触れることとする。




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