第二章 初期仏教伝来の諸相とその特徴1 〜楚王英、乍融を中心として

 第一章で中国に仏教が伝来する姿を、あまりにも簡単ではあるが史書を引くかたちで幾つか列挙した。細部を穿つようにすればもっと他にも事例は引き出せるのであろうが、実際にそれが信用に足るものであるか、それが仏教と表裏のものであるかということを客観的に見た場合、この論のたどり着きたい場所から逆算した場合、必ずしも要求されているとは思われないので、主として象徴的する要素が大きいだろう事例について挙げた。
 この章ではその中から特に「楚王英」と「乍融」というふたりの人物について取り上げる。
 両者は既に書いたように、中国の仏教伝来を史上で顕著に体現する存在として極めて重要であろうと思われる。正史上、前者はおそらく最初に登場する具体的で明確な仏教信者であり、後者は経典に依り信徒を募るべく一個の教団的な仕事をした最初の人物であろうからだ。前記の様々の事例の中でも殊更に特徴的な活躍をした両者について、章を立てて、当時の仏教相を浮かび上がらせるために、前章よりさらに彼らの実像を掘り下げ、彼らの関係性といったようなところへ論を向かわせてみたい。

 楚王英は既に引用したように、またその名が示すとおり、任地は楚国である。中国東部、長江下流域近辺を占めるこの国であるが、当時貧しく小さかったこの国に、母の許氏が皇帝の寵愛を得られなかったと理由で半ば流されるようにして赴任させられた。
 楚王英は彭城(現在の徐州市の辺り)にあって国を治めていたのであろうが、

  
英少時好遊侠、交通賓客    

(『後漢書』巻四十二「楚王英伝(光武十王列伝内)」)

に書かれるように、ある意味積極的な性格のようで自分から人と交わるを好んで、多くのことを学ぼうという気概のあった人のようだ。このあと、

  
晩節更喜黄老、学為浮屠斎戒祭祀。

(同上)

と、『後漢書』は続け、彭城赴任後も彼のもとを訪れたであろう様々な賓客の中から黄老や浮図の教えを得て、その信仰へと傾倒していったと思われることが読みとれる。
 永平八年(六十五)に彼が絹を送って自らの治国の至らなかった罪を贖い、それに際して明帝が彼の黄老・仏教信仰への敬虔さを理由にそれを何の問題もなく容れたというのは前章で触れたが、両者が仏教について造詣があり、また明帝が彭城に住まう人々にその絹を還元するようにとそれを全て返還したという記述などからすると、彭城周辺にその絹を消費するだけの仏教信徒が存在した可能性まで推察できる。
 この後永平十三年(七十)に楚王英は方士や賓客と交わるその態度や、図書(地図)や図讖(一種の予言書のようなもの=こういったものを編むことは造反に都合の良い世論を生み出させるものとして禁じられていた)を作ったりしていること、自分の地位や官職を欲しいままにしていることなどを指摘され、「逆謀有り」と判断されて「大逆不道、これを誅するを請う」と弾劾を受ける。明帝は楚王英と親愛の情で結ばれていたから、それを容れるをよしとせず、英を楚王から廃して丹陽に流すにとどめた。これには罪に対する罰、というニュアンスはなく、表向きは罰であってもかつて英に使えいていた側用人なども一緒に従えていくことが許されていたし、湯沐邑(皇后や公主が皇帝から授かる領地)五百戸を賜ったり、楚太后に至っては璽を献上することもなく、楚の宮殿に留まることを許されてもいた。これはおそらくさほど明帝がこの罪科をさほど重大視しておらず、場合によっては時間をかけずにまた彭城に戻ってこられるだろうことを暗に示唆するものだろう。英もまた、車に乗り道中狩りなど気ままに楽しみながら新しい任地に向かった。
    
  
十三年、男子燕廣告英与漁陽王平、顔忠等造作図書、有逆謀、事下案験。
  有司奏英招娶姦猾、造作図讖、…(略)…大逆不道、請誅之。帝以親親不忍乃廃英、
  徒丹陽□(ケイ)県、賜湯沐邑五百戸。遣大鴻臚持節護送、使伎人奴婢鼓吹悉従、得乗輜□、
  持兵弩、行道射猟、極意自娯。男女為侯主者、食邑如故。楚太后勿上璽綬、留住楚宮。

(同上)

 しかし、明年永平十四年(七一)状況は一変する。
 理由は定かではないが、任地丹陽で英は自害して果てるのである。これについて、彼の死後、許太后が「此天命也」などと口にしながら悲しみに暮れる描写や、彭城を明帝自ら訪れ(永平十五年)許太后や英の家族と見え周囲を感涙させるほど悲しみに暮れたこと、この家族に様々な施しや彭城における生活のフォローをしたことは記載されているが、なぜ彼が自害しなければいけなかったかは判らない…。
 注目すべきは楚王英自身の信仰の姿と、彼の信仰が彭城という場所で為されたこと、彭城を中心としてある種の仏教信仰圏というべき存在が(勿論この場所以外にも在った可能性は否定できない)確認できるということ。そして、彼が楚王から廃され丹陽へ流されるに際して家臣や多くの側付きの人々をを伴っていったことにより長江以南に仏教が伝播していっただろうということである。
 英が丹陽に到ったというのはある意味福音的で、このことは乍融という人間の精神風土の確立に大きな役割を果たしていたのではないかと考える。

 乍融という人物は生年は不明も、後漢末、丹陽に生まれたことが『三国志』にも『後漢書』にも記載されている。同じ丹陽の出身で当時徐州の牧となっていた陶謙を頼って、数百人の郎党を率いて彼のもとへ赴いた。陶謙は乍融を登用して広陵、彭城、下 (ヒ)三郡の食糧輸送の担当官となった。
 乍融はその地位を利用し、というべきか、その地位にあって同地方に仏事の建立、銅で仏像とおぼしきものを造り、そこで浴仏会などを開いて仏教の教えを広めるような活動をしたというのは前(第一章)に書いたとおりである。
 この後初平四年(一九三)に曹操の徐州侵攻戦があり陶謙は滅ぼされるのだが、乍融は

  
融将男女万口、馬三千匹、走広陵

(『三国志』「呉書」巻四劉□(ヨウ)伝)

にあるように、多くの人民と馬を伴って徐州・彭城から東南へと逃走した。乍融は逃亡先広陵で頼っていったはずのその地の太守趙□(イク)を酒の席で殺し略奪をはたらく。そのまま南方へと逃亡し江を渡って予章に入り、そこでも郡守朱皓を殺害してその城を乗っ取ったりした。後に楊州刺史劉□(ヨウ)に破れ山中に逃げ込んだ所を何者かに殺されるという、晩節はおよそ仏教徒らしからぬ行為に終始し、事実後世に編まれた仏教関連書の中で彼を仏教徒とは認めずその行為を弾劾するようなものもあるようだ。
 実際のところ、彼が仏教(そのものの本質)についてどのくらい造詣があったかは判らない。ただ当時の世相として、黄巾による戦乱の嵐が吹き荒れていたというのがあるが、乍融にせよそれに習うようなかたちで、黄巾一党が黄老思想・太平道に依ってそのシンパを獲得したように、彼もまた仏教というよりどころを以て何らかの組織的反乱を計画していたのではあるまいか。陶謙のもとに頼っていった際に共に連れていった同士数百人、陶謙が滅ぼされる段になってそれを助けるでなく間違いなく戦力として巨大なものだろう馬三千匹、万単位の人を連れて逃亡するというものは、例え圧倒的な曹操の軍事力の前で敵うべく無いものだとの判断によるものであるにしても、その後の彼の行動で補足するわけではないが、野心的なものを感じないではないがどうだろうか。それともこれらはやはり仏教の教えに従った必然的な脱出(殺害などは忌むべきところのもの故)なのだったのだろうか…。  この論の主題として注目したいのは、そのような行為の源泉となったはずの思想背景、つまり彼がなぜ「仏教」を持ち出してきたか、持ち出しえたのか、ということである。
 鍵となるのはやはり「丹陽」と「彭城」というふたつの地名であろう。
 徐州という土地が彭城を中心として乍融の仏教伝播の根拠地となったように、また、楚王英の赴任地として彼の信奉する黄老と浮図の教えに対応するように、この土地には仏教の影が色濃くちらつく。
 「丹陽」という都市。現在の安徽省のあたり。繰り返しになるが、前述の通りここは楚王英が明帝にその不忠を“処罰”された折りに流された土地であり、彼が自害という形で生涯を終えた土地である。同時に、この都市は乍融の出身地であり、後に彼が頼りにする徐州刺使陶謙の出身地でもある。乍融が陶謙を頼りにして、同郷のコネをもって官職を得ようとしたこと自体はさほど特殊な事例だとは思わない。しかしながら、乍融が−−ある意味何の脈絡もなく−−仏教に傾倒し、三千人からの信徒を集め、また史料に依れば万単位の人間を率いて他国に亡命するだけの求心力を発揮するに至るその信仰への没入は、この時代の民間宗教の中では異例の事態のように思う。確かに、同時代的に河北の地で張角を首領とした太平道がめざましい発達を遂げ、漢王朝を妥当せしめるほどの大きなベクトルになっていたという事例はある。当時の仏教が必ずしも黄老思想とは分化して考えられるものではないため、関係性を見いだせる部分もあるかも知れない(殊に、太平道が黄老思想を背景とした原始道教的な立場をとっていたという意味では)。しかし、ここで注視したいのは彼が幼少期を過ごしたのが、史上で名高い仏教徒的立場を示した楚王英の流された先(英と共にこの地に流れた一族は全てで無いにせよ彼の死後もおそらくその土地で暮らしただろう)であるという事実、それが必ずしも両者にとって無関係であるとは思えないし、両者の空白の百年間、この間を埋める信仰の存在、それもこの土地に皇帝の弟という高貴な人が失われたあとの民衆主導の信仰が根付いていたという証左にならないかと考えるのである。丹陽は後漢初の段階では三国時代・呉の帝都建業よりもさらに幾分か西南(三国時代では建業を含む一帯の異称でもあるが)である。また当時の仏教学者の集まったとされる会稽の都の長江に沿って西に位置する都市だ。
 『高僧伝』「康僧会伝」などには江南地域への仏教の伝播は康僧会によるものが始まりだとされる。彼が建業に現れ、呉の初代皇帝孫権に対しその奇蹟を見せることで初めて江南に仏教寺(建初寺)を得たという(康僧会については詳しくは第三章)。自分には、それに疑問を投げかけたい。
 本格的な仏教・ある種の教典に根ざした形の仏教ではないのかも知れないとは思う。楚王英がいかに仏教に傾倒していようと、頭を丸めたり、仏法僧らしい装束で生活していたとは当時の儒教的背景からも考えづらいからだ(頭を丸める、というような自分の身体の一部分を削る行為は儒教では不孝としてもっとも忌まれる)。それを考えると、余計に民間信仰的に、例えば後々乍融が徐州で仏教の教えを広めるに至る原風景はここに関係性を見いだせうるのではないかと考える。このふたつの土地に、極めて普及したかたちで仏教は根付いていたという可能性。幼少の乍融にその信仰の萌芽を設定するが如くに。それは康僧会以前から、そして質的にはどこか勘違いした部分を内包しているとしても、ということだ。
 西方からの流入に際してシルクロードの末端であろう長安・洛陽の両都市に仏教伝播のための基地があってもおかしくない。しかしながら、そこの民心、あるいは明帝自身の記録のためにその土地の仏教に対して全く史書が言葉を割かないというのはどうなのだろうか。後述するが、乍融の在った時代には既に洛陽を中心として原初的なものながらも訳経事業が細々と開始されていた。それ以前の段に於いて、まず第一に「彭城周辺を中心とした」ひとつの仏教世界の確立というものは可能性として論じられるべきものではないか。乍融の仏教信仰、それが何に根ざしたものかを考えると、楚王英以来脈々と「丹陽中心」に受け継がれた仏教信仰が乍融という人間の原風景を構成したのではないかと推察出来ると思う。
 彭城という仏教都市。丹陽という仏教都市。その関係性を示す端的なものが楚王英と乍融という存在であり、それが必ずしも洛陽・長安というようなメインストリーム的な場所からさらに一線画した場所に存在する可能性はある、と言うことをここでひとつ提案しておきたい。そして、それを補填する材料として、次いで仏教伝来初期の主導的役割を果たした訳経僧幾人かの存在について、取り上げてみたい。  




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