新聞記事をよんで

都会にあっては、在宅ケアーより施設ケアーを

葛飾区議会議員   木下しげき


 私どもも昨年、「病院でしてあげられることは何も無いから本人の望むように」という医師の言葉を受け、末期ガンの父を家族3人で介護させてもらった。最初はおむつの交換に3人がかり、力まかせに持上げて大変な思いをしたがヘルパーさんに要領を教わってからは力は必要ないことを知った。ペインコントロール(痛み緩和)の薬の副作用で痴呆の状況に似た様相をていして、夜中の徘徊が始まる。(カギは家の中からにはまったく役にたたない。)それで、3人の役割分担がはじまる。母は午後10時に起床して、夜中の当番。妻は日中の当番、ヘルパーさんやお医者さん、看護婦さんに点滴やらおむつ交換のアドヴァイスを受けた昼前近くに母は就寝。私は二人の注文の買い物や力仕事を担当。大人一人を介護するのに3人の手が必要なのである。もちろん日曜も休日も無い。慣れていないという点を割り引いても肉親に親身の介護をしたいとなれば同様であろう。私が議員という比較的時間に余裕のある仕事であったから出来たようなもので、これが9時から5時の勤め人であるならばこの負担はすべて妻や母が負うことになり、その大変さは想像に難くない。幸いというべきか、父は我々のことを見かねたのか自宅介護27日間で逝った。

 今、施設ケアーより在宅ケアーが叫ばれている。2月号(第40号)で紹介した『高齢医療と福祉』で岡本祐三は「政策的な誤りは、いわゆる老人病院を設け、ともかくそこに収容することで家族の危機を救おうとしたことである。倒れた老人を救うことより、介護倒れから家族を救うことが優先された。その結果、老人はベッドに縛りつけられ、百万人を越える寝たきり老人を生み出してしまったのである。手当てさえ適切であれば、その多くは寝たきりにならずにすんだからである。」「在宅ケアを中心に、寝たきり老人を作らないという北欧型福祉の成功が先進的な自治体の目を開かせた。巡回看護やホームヘルパー派遣、ディケア、ショートスティなどの組み合わせで心身ともに老人を立ち直らせ、また介護から解放された家族が仕事に復帰することで、経済的効果も上がったのである。」という。たしかに発想の転換を要する分野として目からウロコの落ちる思いはした。
 だが、ちょっと待てよ、の気がする。国なり自治体が施設やヘルパーなどを完備し終わるまでの「今」はどうするのか。大学に通うために都会へ出て来てそのままその都会で生活の基盤を築いた者は親が老いたからといって田舎に戻ってはいけない。結婚すれば親は当然に二組ある。それでもまだ元気なうちは田舎で暮らせようが、また田舎ではまだ親戚、縁者が何かと面倒はみてくれる。が、それにも限度がある。地域振興部長は「高齢者が生まれ育った自治体が出さない、出て行かなくてよい施策を」というが、そしてそれは望ましいのではあるが、担税力のない高齢者を田舎の自治体が面倒見てくれるか。私は望んでも果てないことであるように思う。呼び寄せざるを得ないのである。団塊の世代の私には都会で働いて手に入れた猫の額のような狭い我が家に寝たきりになった老親を呼び寄せ、妻君の顔色を見ながら暮らす友人が多くいる。

 もはや、こうした介護の問題は個人の力の限界を越えているのである。これこそ政治の仕事である。「施設ケアーより在宅ケアー」が優れていることは誰しも異論はない。が、都市の現実を考えれば絵に描いた餅の感がしてならない。私は、都会にあっては「在宅ケアーより施設ケアー」をと主張したい。


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