葛飾区再生計画案(はじめに)

〜〜 こんなこと あんなこと できたらいいな 〜〜


区政のキーワードは 安心・信頼・誇り

"The good life is one inspired by love and guided by knowledge."
(よい人生とは愛によって鼓舞され、知識によって導かれたものである。)

”政治は強者のためでなく弱者のために存在しなければならない。”

”自治体は地域住民の共同目的を実現するための事務局である。”

そして結論は 行政革命

 行政主導の区政から政治主導の区政へ

(はじめに)この「葛飾区再生計画」(案)は全ての法令、国や都および他の自治体との交渉事あるいは実現の難易のその全てを棚上げした「行政(タックス・イーター集団)主導の区政から政治(タックス・ペイヤーの代表)主導の区政へ」をメインテーマにした「夢みるプラン」である。【ここに掲げるプランは単にアイデアのレベルであり、実際に個々の施策を実現するためには綿密な調査研究を先行させるべきであると認識している。

 学生時代の政治学の勉強と無知と利害関係のなさをベースに4年間の区議会議員経験、そして葛飾区内全域の土地勘と距離感をつかむために実行した7ヵ月間の「宅配業」の中で町中を這いずり回りながら接した人々から直接に聞いた経験とから書き集めたものである。「かつしか人」としてこの町に住んでいることを誇りに感じられるような新コミュニティ創造のためのプランを目指すものである。 (この再生計画案の原形は、私の議員任期の半分を過ぎた頃の平成8年2月の代表質問に対する区長や担当部長の答弁に失望して以来、折りある毎にメモしてきたものである。)

 かつて東京に出て来てそのまま東京にその生活の基盤を築いた者はもはや地方に戻れない。かたや地方では親が年老いて行く。偶然に居を構えた者がその地域に出自や文化背景を異にすることからくる違和感を覚えることがある。そしてそれが自らの利害に直接関係のないことは見ない、聞かない、言わない。ひたすら我が家の幸せのみ追い求める人々の増大に繋がって行くのである。巨大集合住宅の増加もそれに拍車をかけている。かつて出自の同一性の下に共助の精神に貫かれた地域のコミュニティは崩壊の一途を辿っている。一方で少子高齢化が進みそれまで私的なことに属したわが親の老後の世話、葬送、祭祀までが公的な範疇に入ろうとしている。こうした時代には従来の地域のコミュニティの果たした役割は自治体に求められるのであり、その長は将に首長として毅然とした父性の性格を要求されよう。そしてその首長に今最も強く求められるのは旧住民、新住民を取り込んだ新しいコミュニティの創造である。

 一議員として最善を尽くして個々の施策の善し悪し(個々の施策が全面的に悪いということはあり得ない)を叫ぶことは出来るが区政全体に異議を唱えるには一議員の力は無力であった。行政は巨大な経済利益の主張をそのまま繰り返すだけとなり、そのために既に強力な力を持つ人の便宜をさらに助長する役割を果たしているようにさえ感じられた。行政には富や権力の尺度において低い位置に置かれている層(社会集団)に行政支援を与えることによって通常の政治プロセスを経てはとうてい到達できない他集団との政治的平等を現出することができるのである。(しかし局部的にみれば葛飾区の行政も捨てたものではなく、こうした観点からの施策はいくつも見出せる。)

 意思決定の過程についても「稟議」「根回し」とする極めて官僚的な手法は権力のイメージを分散したが同時に責任の所在も曖昧にした。常に連帯責任=無責任がはびこるのである。

⇒(00.2.18) これは何も葛飾区に特徴的に現れるわけではない。不燃物中間処理施設「都杉並中継所」問題(cf.0801)の杉並区・東京都、一連の不祥事の神奈川県警、長期監禁事件のウソ会見の新潟県警、区立保育園のアスベスト除去工事に関する文京区(cf.0209)、児童福祉施設「恩寵園」(船橋市)の園長たちの長年にわたる度重なる体罰・虐待を見逃した千葉県所管部、被害園児13人からのSOSに『日頃県政にご協力頂き有難う御座います。』と寝ぼけた返事を出した千葉県知事など枚挙にいとまがない。どれもこれも皆、住民を無視した自己保身ないし組織防衛である。

⇒(00.9.12) 愛知県知事の神田真秋さんが『今回の被害の特徴は百年に一度といわれる大雨で伊勢湾台風をのぞいては49年災害(昭和49年の知多半島などでの豪雨)に匹敵する』と語ったとか。「百年に一度」が何回あるんだい。被害状況も明らかになっていないうちからの自己保身の責任転化は見苦しい。責任の追及を言っているのではない。人間の技であるから及ばない点もあろう。しかし、今後の対策の立案にしても不可抗力からスタートするのと、今回の被災・被害と施策との間の齟齬の究明を重視するのとでは出来あがる「対策」に雲泥の差があるであろうことを指摘したいのである。

 目先の個々の施策でなく葛飾区をどうするのか、どうしたいのか。そこに継続性が何より尊ばれる行政OBによる区政主導に限界を感じるのである。

 区政に直接関与しない多くの区民にとって行政主導によろうが政治主導によろうが影響ないように思われよう。しかし本当にそうなのであろうか。23区横並びで昨日と同じことを今日も、そして今日と同じことを明日もやって行く。前例のないことには手を出さない。住民が今まさに困ったときにも法令をたてに融通のきかない対応をしても痛みを感じない。住民の暮らしに合わせるのでなく区役所の運営に住民を合わせることを不思議と思っていない。区役所はそこで働く職員のために存在するのではなく区民、住民のために存在するということが失念されている。しかし一番問題なのはそのことをおかしいと思わない職員の中での常識である。そして職員とそうした常識を共有する行政OBの区政主導には強い疑問を感じるのである。
 行政OBが議会総与党化の中(つまり職員と議員の双方から担がれる)で首長に収まるということが日本中に蔓延しているが葛飾区とて例外ではない。批判にさらされない権力は必ず腐敗堕落するものである。活性化には是は是とし、否は否とする同じ土俵上にたった健全な批判勢力が必要なのである。
 これらが私が区議会議員としての4年間、区政を脇から見て来て感じたことである。

 地方分権法(⇒地方分権というのは手段であって目的ではない。地域住民の生活にとってプラスにならないようなら地方に分権する意味はない。)が実施される今日、地方政府はかつての隣近所に託されたようなコミュニティーの役割を果たすことも要請されるのである。こうした時、現実の執行にあたっては法律や条例の杓子定規な適用でなく、隙間をうめるような融通性が求められるのである。人治主義を排し、法治主義をあくまで厳守することは当然であるが、機構を守るため、前例を守るため、法治主義のための法治主義というのは本末転倒である。

 それを糾すのが区議会のそして個々の区議会議員の役割ではないのかの議論も起きてこよう。しかし現在は区議会そのものが行政化ないし官僚化しているのである。いい意味での緊張感がないのである。区政は常に緊張状態にあるべきであり難問に取り囲まれている方がいい結果を生む。(あたかも学生が問題を見つけられないのは不勉強の証左であるように)こうした難問、緊張感のなさが議員をして自らの地元ないし支持者への予算の箇所付けに終始させるのである。そしてこの予算獲得能力が政治力と判断されるのである。だが、こうしたことは最早終わりにすべきであろう。区の限りあるパイを奪い合うのでなく産み出す方策を考えるべきである。

 行政も議会も共に制度疲労をおこしており、区民住民のための現下の問題に機能しにくくなっている。従って区役所職員の意識改革と区議会の意識改革を同時に行わなければならない時期にきているのであろう。その意味で政治主導による区政であると同時に、中央政党の指示から独立した住民・区民のサイドに立った民意主導の議会を構築しなければなるまい。この計画案は表現の拙劣はともかく「人間は何のために生きるのか?」「人間が生きるために直接触れ合う行政は何をすべきか」の思想が地下水脈を流れている(はずである)。

 しかし、一読して解るようにここに掲げる「計画案」は様々なジャンルにまたがる(総花的な)思い付きの集積である。(中には自分自身も賛成し難い計画も思い付きの一つとして削除しないで残してある。)それぞれの計画案自体極めて未熟な形であり私自身のバイアス(偏見・先入観)がかかっているであろう。今後、それぞれの分野の専門知識を有する人、地方自治に関心を寄せる人や「おらが街」として葛飾区の明日を真剣に心配する人の力を借りて計画案自体を再構成ないし再定義しなおす必要があろう。葛飾区が今後めざすのは大きな政府か小さな政府かの議論を経て、ならばそれに整合する施策は何か。議論の過程を通じて(価値観の多様化する今日、真理は対立する利害の剥き出しの衝突を通して、その結果として得られると考えるべきであろう)より具体化した計画案を平成12年末を目途に取りまとめたい。その後、各方面に提示し徹底的な議論の中で優先順位(当然削除も選択肢のひとつである)を割振ってゆきたい。

この計画案が現職議員あるいは職員の目に留まりプランの一つでも実現すれば望外の幸せである。

      平成11年4月21日

東都総合研究所  代表 木下茂樹


(追記)
 東都総合研究所のメンバー以外の本再生案に対する直接の、手紙での、メールでの批評、批判ないし意見のうち同意出来るものは、あたかも我々の案の如くに取り入れさせてもらう。一方、ただちには賛成できないが以後の検討課題としたいもの、貴重な意見、提案、感想、疑問(⇒私自身の見解)、については★印(茶色の文字)を付して掲載する。(本再生案は6月13日、ホームページ上に掲載)   (平成11年6月19日)


★国の場合もそうでしょうが「地方分権化法」の施行が秒読みに入った今の時代は単に決められたことを着実に実行していくだけでなく、自治体自体をどんな風に進めていくのかが重要です。前例踏襲思考の役人の動きを抑える政治力が必要なのです。役人は態度は慇懃であっても議員そのものをバカにしています。国会でも地方でも「議員がバカだから我々がやらざるを得ない」という声が漏れて来ます。行政に対抗出来る力を政治が持つことが結果として行政を鍛えることにもなります。貴兄の基本的な考えには賛成します。(99.6.27)

『いきいきかつしかドリームサーチ』 リンクの登録のお願いメール(抜粋)
ご無沙汰しています。
小生のHP読者からのメール(『江戸川区長一代記』が載っているという)をもらって、今月より読売新聞の購読を始めました。 そこで本日この『いきいきかつしかドリームサーチ』を知りました。本来こうしたデータバンクは自治体が主導でやるべきかと思いますが、葛飾のように区民からの盛り上がりも悪くはないですね。
政治家の項を見ましたが該当なしのようですね。どうして我国というのは政治と宗教を目の敵にするのでしょうかね。意見が対立するからこそ小さいうちからアウフヘーベン(止揚)する訓練をしておくべきではないかと感じます。政治も宗教も人々がより良い暮らし(物質的に、精神的に)をするための手段でしかないのに。
小生目下、『葛飾区再生計画案』というのを10数人の仲間と作っております。その仲間うちの連絡用にHPを利用しております。メンバー外の方のメールも届きます。
『葛飾区再生計画案』作成への知恵収集の意味でリンクの登録をお願いします。
ではまた。いずれお会いする日を楽しみに。  (平成11年7月3日)

★文字カラーが色とりどりの貴総研HPを見ていて『議員や首長の公職に立候補する人は自身の公約を「黒」で書き、その実施状況(事実)を「赤」で、そして公約が実施できなければ、公約の撤回、変更なのか実際上できないのか等の理由を「青」で記載する』というのが次世代の公約のあり方ではないか、と思いました。(99.7.8)

⇒イギリスのブレア首相が政権発足前に公約した177の政策目標のうち「実施済み」「達成」「現在進行中」「メドが立っていない」などと業績を自己評価した『年次報告』を発表した(99.7.26)。この業績評価に基づいて内閣改造を行うと言う。
 翻ってわが国はどうか。(法案ないし連立の是非を言うのではない)国旗国歌法案、盗聴法案、国民総背番号法案、米軍協力法案そして自自公連立内閣と選挙前には影も形もなかったものばかりである。これでは「投票」というのは公約を聞いて判断するというより誰に『白紙委任状』を与えるかということである。民主主義とは結果の妥当性よりも手続きの妥当性が重視されるべきと思うのだが。
(平成11年7月28日)

⇒平成11年度第二回定例会の「かつしか区議会だより」を読んだ。『平成8年2月の代表質問に対する区長や担当部長の答弁』のレベルを一歩も出ていない。つまり個々の案件や進行中の施策には答えているが区の施策の根幹に関わることには何も答えていない。「検討する」のオンパレードである。区政(基礎的自治体として、いざと言うときに頼りにできる)の活性化を求めるならば行政の継続性を多少犠牲にしても政治主導のトップダウンで大なたをふるうしかあるまい。東京の東の端の23区の一つとして、じっとして、めだたなく、慎ましやかに存在して行こうというのなら別だが。
(平成11年8月 4日)

★『葛飾区再生案』を三日かけて読みました。「平成8年の2月からメモしてきた」とありましたが執念深さに敬服します。(中に意見の違うものも多くありますが・・・。)確かに葛飾区の地域を念頭においたものでしょうが、そのほとんどが全国どこの自治体にも当てはまるものです。タイトルを『全国自治体再生案』としてはいかがですか。(99.8.13)

★『区政に直接関与しない多くの区民にとって行政主導によろうが政治主導によろうが影響ないように思われよう。』は、区民を軽視した発言で、言い過ぎではないでしょうか。
 国と自治体が対等に位置付けられる地方分権の時代の幕開けを目前にして個々の自治体の対応や姿勢が問われて来ます。問題意識を持つ首長のいる自治体は環境にも福祉にも次々と諸施策を発案し実行に移しています。問題は「行政主導」か「政治主導」にあるのではなく首長自身の持つ「問題意識のレベル」ではないでしょうか。(1999.9.2)

<過去にもらったメールより同じ問題意識に類するものを>

★葛飾区へのメールに丁寧な御返事どうもありがとうございました。
確かに住民が選挙や行政に興味がないのかも知れませんね。私は叔父が町会議員をしてる関係で叔父の活動を見てて議員や町の考え一つでそこの町が発展するのを見てます。私が住んでる宮崎県のはしっこの町と大分県側の隣町では大きく差があります。宮崎県はどんどん道路が良くなって交通の便が良くなってるのに大分県側は20年経っても何も変わってません。地方自治もこう差があるとイロイロ考えてしまいます。[抜粋](1998.4.13)

(大学院時代の先輩、現在神奈川県立高校の教頭氏からのFAX)

★ 貴殿の葛飾区再生計画案の記述について若干の感想を述べさせていただきます。

 下線を引きながら幾度か読み、少し考えました。貴殿の熱意は伝わってはきました。住民の暮らしに合わせるのではなく、区役所の運営に住民を合わせる行政のありかた。この本質は、とりもなおさずこれまでの教育行政や学校教育現場にもいえることです。すべてが職員室からの発想であり、教室や地域からの発想など皆無ともいえましょう。貴殿が記されている【13、教育】を一気呵成に読ませていただきました。

 正直に言って、貴殿のレポートを読む限り、イメ一ジがひとつも湧きませんでした。なぜだろうと考えました。たぶん、全体と部分がごちゃまぜになっているのでしょう。理念と主張あるいは政策と施策が明画に書き分けられていないからなのだと思います。理念ときには主張にもなっていますが、あれもこれもと書きすぎるきらいがあります。理念は主義でも主張でもありません。厳然たる事実として、単純明解なものでしょう。葛飾区が抱えもつ教育事情の分析と本質の抽出、そして展望こそが理念なのでしょう。もちろん日本の公教育に関する理念も重要でありますが、貴殿の胸にしまいましょう。なぜなら、理念というものは施策の中に自ずから泌み出てくるものだと思うからです。施策には経があるはずですが、残念ながら貴殿の施策に経が見受けられませんでした。 ある種、つまみ食いのような感じがしました。それが、イメ−ジが湧かない原因です。

 僕は、教育現場にいる者の端くれです。その僕がイメージが湧かないということです。とすれば、たぶん葛飾区民はもっとわからないし、つまらないと思うかもしれません。[抜粋] (2000.1.2)

★ 年末から年始にかけて「葛飾区再生計画案」を読ませて頂きました。

 思想(葛飾区再生計画案の場合「施策なりプラン」)が、生活体験から離れ、現実の問題を観念的に解決しようとするならば、それは独善的なもの空虚なものであり、一種の気晴らしに過ぎなくなってきます。しかし一方、思想的自覚のない生活は極めて近視眼的なものになり、時には盲目的にさえなるでありましょう。そうでなくとも直接行動にとって都合のよい単純な思想にだけ偏向してしまうでありましょう。(それが正にこの国の今の姿です。)

 「葛飾区民40万通りの生活は体験できない」という声が聞こえてきそうですが、ここでいう生活体験とはそうした区民個々の生活体験ではなく、自分自身の生活意識、実感に根ざした、自己の喪失と回復、生の意義などについての自覚的思惟の深化された生活体験を意味します。

 全てのタブーを超越した有権者受けするかどうか、実現可能かどうかに関わらない施策を展開して下さい。知識の欠缺、技術的稚拙は次の段階で検討すればよいことです。 (2000.1.9)


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