松五郎の玉手箱
MASTUGORO'S TAMATEBAKO
ここは我輩の情報保管箱です。(メール、新聞・雑誌の記事、手紙・葉書の投書 等々)

【保管ファイルNo.25】  00.9.3 新学習指導要領に疑問を持つ友人からのメール

 15歳以下の年端もいかない子供達の個性を云々することは、彼等の怠け心を助長するだけである。「テキ儻不羈」「狷介孤高」の精神を内在した日本人としてのアイデンティティを保持するには「個」を高めるべきであるのに、今回の文部省の「指導要録」はバカな国民をつくることにつながる。与党は地方で、野党は都会で、競ってばら撒き政策を進め日本人のモラルハザードを招来させ、日本国民を1億2,000万総乞食にした。文部官僚は自民党単独政権下にあぐらをかいた戦後50年間、アメリカのペットとして飼いならされて、日本人同胞を自分の今の幸せ、自分の家族の炉辺の幸せだけを追い求める三等国民にした。

 我が国をして銭金(ぜにかね)に狂い、民族として共通の価値をも共有できず、人間の質的、量的再生産すらおぼつかなくし、国家百年の計である教育を今日の姿にした文部省に、もはや明日の教育を取しきる能力はない。文部省はサッカー籤の胴元だけに権限を縮小すべきである。

 友人からのメールを機会に新学習指導要領を読んで愕然とした。円周率は3.14をやめ3とし、中学の必修英単語は100語にしている(もっとも外国語は学校教育の現場からはずべきと考えているが)。「個性」と「ゆとり」を重視することは、子供のみならず教員をも甘やかしダメにすることである。以下に受信メールを掲げる。(木下茂樹)

◆00.9.8 来年度から中学を共学化するという私立(中・高)学校の説明会に顔を出した。説明会の後の懇親会で教頭と校長をつかまえて新指導要領について質してみた。別々に聞いたのだが返って来た答えは同じ。『あれではご父母のご賛同は得られないでしょう。』「無視するのですか」『無視は出来ないでしょうが工夫する余地はありますから。』受験後発校のこの意気込み。公立中学は完全に後塵を拝することは目にみえている。学歴社会・学校歴社会の崩壊は時間の問題だが、これは学力社会の崩壊を意味しない。・・・帰りに立ち寄った葛飾区立中学の授業中の3年生の教室から季節はずれの爆竹の音がしていた。これも「ゆとり」であり「個性」であろうか。

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新学習指導要領 改訂のポイント

文部省では,平成10年12月14日に幼稚園教育要領,小学校及び中学校学習指導要領を,平成11年3月29日に高等学校学習指導要領,盲学校,聾学校及び養護学校幼稚部教育要領,小学部・中学部学習指導要領,高等部学習指導要領を告示しました。

〔改訂のポイント〕

今回の改訂の基本的なねらい

 平成10年7月の教育課程審議会答申を受けて,完全学校週5日制の下で,「ゆとり」の中で「特色ある教育」を展開し,幼児児童生徒に自ら学び自ら考える[生きる力]を育成。特に,次の点を重視。

(1)豊かな人間性や社会性,国際社会に生きる日本人としての自覚を育成すること。

  ・ 幼稚園や小学校低学年では,基本的な生活習慣や善悪の判断などの指導を徹底。

    また,ボランティア活動の重視。

  ・ 小学校では人物・文化遺産中心の歴史学習の徹底,中学校では歴史の大きな流れを

    つかむことを重視する歴史学習に改善。我が国の国土や歴史に対する理解と愛情

    国際協調の精神など国際社会に主体的に生きる日本人としての資質の育成を重視。

  ・ 中学校及び高等学校外国語科の必修化と聞く話す教育の重視など。

(2)自ら学び,自ら考える力を育成すること。

  ・ 各教科及び「総合的な学習の時間」で体験的な学習,問題解決的な学習の充実。

  ・ 各教科等で知的好奇心や探究心,論理的な思考力や表現力の育成を重視。

  ・ コンピュータ等の情報手段の活用を一層推進。中学校技術・家庭科で情報に関する

    内容を必修化,高等学校で教科「情報」を必修化 など。

(3)ゆとりのある教育活動を展開する中で,基礎・基本の確実な定着を図り,個性を生

    かす教育を充実すること。

  ・ 年間授業時数は,現行より週当たり2単位時間削減。

  ・ 教育内容を授業時数の縮減以上に厳選し,ゆとりの中で基礎的・基本的な内容を繰

    り返し学習し,その確実な定着を図る。

  ・ 中・高等学校における選択学習の幅を一層拡大。

  ・ 高等学校では,卒業に必要な修得総単位数を80単位から74単位に縮減,必修教

    科・科目の最低合計単位数を38単位(普通科)から31単位に縮減 など。

(4)各学校が創意工夫を生かし特色ある教育,特色ある学校づくりを進めること。

  ・ 「総合的な学習の時間」を創設し,各学校が創意工夫を生かした教育活動を展開。

  ・ 各学校が創意工夫を生かした時間割編成ができるよう,授業の1単位時間や授業時

    数の運用の弾力化。

  ・ 教科の特質に応じ目標や内容を複数学年まとめるなど基準の大綱化。

  ・ 高等学校における学校設定教科・科目の導入 など。

〔今後のスケジュール〕

 新学習指導要領は,幼稚園については平成12年度から全面実施し,小・中学校については平成14年度から全面実施し,高等学校については平成15年度から学年進行で実施し,盲・聾・養護学校については,幼,小,中,高の各学校段階に準じて実施することとしています。

 また,完全学校週5日制については,平成14年度から,すべての学校段階一斉に実施することとしています。


知的亡国論                        立花 隆

 以下の文章は、今年4月27日に東京神田の学士会館において行われた、文理シナジー学会シンポジウムでの「日本の高等教育の危機」と題する講演に、大幅に加筆訂正を加えたものです。文理シナジー学会というのは、現代文明の危機を招いた最大の要因の一つは知識の細分化がもたらした文科系の知識と理科系の知識の乖離にあることを憂慮し、文系、理系の知識を再結合させ、「知の総合化」をはかることで、21世紀社会の新生をはかろうという目的で設立された学会です。

 私は、この文理シナジー学会の設立目的に全く同感しております。実は私は昨年から今年にかけて、駒場の東大教養学部で、「人間の現在」と題する講義をつづけているのですが、その第一回目の授業を、いかに現在の学問が細分化して、その細分化が現代社会を知的な危機に追いやっているかという話からはじめています。

 文科系、理科系の知識の乖離ということでは、1959年にC・P・スノーが書いた、あの有名な「二つの文化と科学革命」という本があります。あの本の中でスノーは、文科系の知識人と理科系の知識人は、全く別の世界に住んでいて、お互いに相手をまるで理解しようとせず、敵意と嫌悪の情をもってにらみ合っていると書いています。どちらも相手方をバカの集団と思っているわけです。彼があそこで指摘したような状況は、その後ますます悪くなる一方です。

 スノーはあの本の中で、「二つの文化は60年前にすでに危険な分離を始めている。

……二つの文化がおたがいの話しあいを止めてから、もう30年にもなっている」と書きましたが、彼がそう書いてから、さらに40年近くがたち、事態はもっと悪化し、二つの文化は背を向けあったままです。

 スノー自身は、文科系の教養と理科系の教養を合わせ持つ人でしたが、あるとき文科系のインテリの集まりに呼ばれて話をさせられたとき、そこに集まった人々が、あまりに科学と科学者をバカにしているのに腹を立て、「あなたたちのうちで熱力学の第二法則がわかる人がどれくらいいますか?」と壇上から質問した。会場は静まり返り、手を挙げる人は誰もいなかった。スノーは、いまの質問は、文科系の人に「あなたは何かシェークスピアのものを読んだことがありますか?」と聞くのと同じくらい、理科系の人なら知っていて当たり前のことを聞いたのだといった。そして、理科系の人にはシェークスピアと同じくらい当たり前のことを文科系の人は何も知らないという現状を指して、「西欧のもっとも賢明な人びとの多くは物理学に対していわば石器時代の祖先なみの洞察しか持っていない」と、いいました。一方で、理科系の知識人たちの読む本は、「文学的な人びとにはバタつきのパンにひとしい小説。歴史、詩、劇などの本については皆無に等しい」といいます。読んだことがある文学書について聞くと、「ディケンズを少々」といった程度の答えしか返ってこないといいます。両者は最も基礎的な教養すら共有していないのです。

 現代の日本でも状況は同じです。

 私の授業は、文科系、理科系、両方にまたがる内容で、取っている学生も、理一、理二、理三、文一、文二、文三、ほぼ万べんなくいます。そして授業をやってみて驚くのは、学生たちの知識が非常に偏っていて、知っていることはすごくよく知っているが、知らないとなったら、ほんとに何も知らないということです。

 私もスノーにならって、「熱力学第二法則を知っている人?」という質問を発してみましたが、本当に、理科系では、ほとんどの人が知っていたのに対して、文科系では、ほとんど誰も知りませんでした。

 授業の中で、文系、理系双方のいろんな文献を引用するので、「これを読んだことがある人?」とよく聞いてみるのですが、これは基礎文献のスタンダード・ナンバーだからこれぐらいはたいていの人がすでに読んでいてほしいと思うものでも、読んでいる人は実に少ない。総じて、いろいろな分野の基礎的な知識があまりにも欠けているということがわかってきました。

 この授業を通して学生たちとつき合い、同時に、教養学部の他の先生方といろいろ意見交換をするうちに、私はいまの日本の高等教育に何かとんでもないことが起こりつつあるということがわかってきました。このままでは、日本という国は、知的に崩壊するに違いないと思うくらいです。日本の高等教育はいま、恐るべき質的低下と組織的解体の過程にあるのです。

甘やかされる受験生

 高等教育というとき、どこからどこまでを問題にするのかということがありますが、私は大学受験準備課程としての高等学校教育を含めて考えています。普通は高等教育というと、大学院を含めた大学教育のことをいうのですが、実は現在の、大学教育の恐るべき水準低下をもたらした最大の原因の一つが大学の入試制度にあるから、そこまで含めて考えなければならないのです。

 ここ十年ほどの間に、何度も大学の入試制度が変わっているので、いま何がどうなっているのかよくわからない人が大部分だと思うのですが、要するに、大学入試は、受験生の負担軽減を合い言葉に、どんどん楽になったのです。それも科目を減らすという形で楽になったのです。

 私と同世代の方はみんな覚えているように、国立大学の場合は、文系であろうと、理系であろうと、英数国の3科目に社会2科目、理科2科目の7科目の試験がありました。この社会2科目、理科2科目という制度が、当時はちょっと大変だと思いましたが、いまから考えてみて、非常にいいシステムだったと思います。あのときその4科目をやったことが後々いろんな形で役に立っています。高校の授業は、それにさらに1科目プラスして、社会3科目、理科3科目を履修しました。別にこれは特別なことではなく、誰でもやっていたわけです。ただ受験科目については、記憶がはっきりしませんが、国立大学でも二期校は若干少なく、私立大学はもっと少なかったと思います。私立大学は、理系だと英語、数学に理科1科目、文系だと国語、英語に、社会1科目といったところが標準的だったと思います。しかし、その場合でも、高等学校では誰でも社会3科目、理科3科目を履修するというのは同じでしたから、一応高校で真面目に勉強した人間は、バランスよく幅広い知識を修得したのです。

 しかしいまの学生に、「我々の世代は、理系でも文系でも差別なく、理科、社会で6科目履修し4科目受験だった」というと、「エーッ」と驚きの声が広がります。今は、高校でそんなに幅が広い知識を身につける必要はないし、そんなに沢山の科目で大学を受験しなくていいのです。

 学校や年次によって差があって統一的な記述はできないのですが(ここ数年でもいろいろ変った)、理科だと1年のときに「総合理科」として物理、化学、生物の基礎をひととおり勉強しますが、これは中学の理科に毛が生えたようなものです。あと2年生以後は文系なら物理、化学、生物、地学の中から1科目選択、理系なら2科目選択です。社会は、1年のときに、公民という教科(政治、経済、倫理)をやり、2年生以後は日本史、世界史と地理の中から、理系は1科目選択だし、文系なら2科目選択です(後述するように最近世界史が必修になった)。

 受験科目はどうなっているかというと、共通一次試験にあたるセンター試験で、社会、理科はそれぞれ1科目です。二次試験で、社会、理科はどうなっているかというと、東大の場合は、文系に理科はいらないが、社会は2科目。理系は社会はいらないが、理科は2科目ということになっています。これはかなりきびしいほうで、他の国立大学では、もっと科目が少なくて、かつての私立大学のように、英数国の3科目のうちの2科目と、理系、文系によって理科、社会のいずれか1科目という程度になっています。そういう国立大学の先生に聞くと、そうしないと、学生がみんな私立に逃げちゃうというのです。

 要するに学生が欲しいばかりに、受験生を甘やかし、科目をどんどん減らした結果、ウソみたいに物を知らない学生が大学にどんどん入ってきているのです。

 高校で履修を要求される科目が減っている上に、受験科目が減ったので、学生は受験に入っていない科目はサボるし、大学入試のみに熱中している高校では、受験に必要ない科目は学校が最初から教えること自体をいいかげんにしているということがあるので、履修したはずの科目も実はろくにやっていないということがあります。すると、高校で履修しなかった科目、または、履修とは名目だけで、事実上履修しなかった科目の場合、その学科の知識水準は、中学生当時のままということになるのです。科目によっては中学生当時の知識しかない学生でも大学に入れるのですから、ものを知らない学生が多くなるはずです。

 最近、飛び級が話題になっていますが、これでは、成績がいい子を飛び級させるのではなく、成績が悪い子を中学から大学に飛び級で入れてやるみたいなことになっているのです。

 それでも大学に入って、大学で鍛え直されるというのならいいのですが、いま大学のほうがまたとんでもないことになっているのです。

教養学部は壊滅状態

 これは大学関係者なら誰でも知っているが、大学に関係していない人はほとんど知らないことですが、いま全国の大学で教養学部というものがなくなっているんです。

 まだ教養学部が残っているのは、国立大学では東大だけで、あとは、ICUとか上智大学とか、外国系の大学は残ってますが、残りの大学ではなくなってしまったんです。

 かつては、たいていの大学で、入ってから最初の一学年ないし二年間は教養学部で、広くいろんな学問を学び、その後、各専門課程に振り分けて進学するという形になっていました。今は、たいていの大学で、入学試験そのものが最初から専門の学科別に行われてしまうので、前期と後期の間で振り分けをするということは、東大以外行われなくなっています。

 これも大きな制度の改悪です。だって、高校生に専門課程を選んでから入学試験を受けろといったって、どういう課程がどういうことをやっているのかわからないから、選べっこないんです。選ばないとそもそも受験できないので、彼らなりの貧しい知識の上に勝手なイメージを作って選ぶことになりますが、その結果、学部学科のただのネーミングにひかれて選んでしまったり、いいところに就職できるらしいという評判だけで選んだり、誤った選択をしている人が大部分です。

 正しい選択をするためには、いま学問の最前線はどうなっているのかという、知の世界の全体像のパースペクティブを持つと同時に、自分自身が本当のところ何をやりたいのか、自分はどういう能力を持ち、どういう特質を持っているのかという成熟した自己認識が必要なはずです。しかし、そんなパースペクティブも自己認識も、高校生に持てるわけがないんです。かつての教養学部の二年間というのは、そういうパースペクティブと自己認識を持つのにちょうどよい時間だったのですが、それが今の若い人たちからは奪われてしまっているわけです。

 そういうこと以上に、教養学部の解体という事態は、日本の高等教育に深刻な影響を及ぼしつつあると思います。

 これは日本におけるリベラル・アーツ教育の壊滅ということを意味します。まだ、東大教養学部が一人孤塁を守るという形で、リベラル・アーツ教育の旗を押し立てているので、壊滅というには早いかもしれませんが、ほとんどの大学で教養学部が消え去ってしまった以上、戦後の新制大学が出発したときに大学人が共通して持っていた高等教育の理念である、大学とはまずリベラル・アーツをさずけるところという考えは明らかに失われてしまったといってよいでしょう。

 それによって、日本の高等教育は本質的に変質したのです。

 リベラル・アーツとは何かというと、いわゆる一般教養です。日本では専門教育のほうが格が上の本当の学問で、一般教養などというものは格下の学問以前のものと考えられがちですが、大学の歴史においては、リベラル・アーツこそが大学の本流で、専門教育は一種の職業教育にすぎないと考えられています。

 アメリカなどでは、大学の学部4年間は、リベラル・アーツしかやりません。いまでもそうです。つまり日本のかつての教養学部が四年間あるようなものなのです。専門教育は、大学を卒業したものが、それぞれの専門学校に入って行われます。いわゆる、グラデュエイト・スクールです。グラデュエイト・スクールは、日本ではしばしば大学院と訳されますが、本来、大学卒業後に入る職業専門学校なのです。ですから、ロー・スクール(法学校)、メディカル・スクール(医学校)などというように、"スクール"の字がかぶされているわけです。

 大学の歴史は、13世紀までさかのぼるのですが、基本的にそれはリベラル・アーツを教えるところでした。リベラル・アーツというのは自由学芸ともいわれ、3学4科からなっていました。すなわち、文法、修辞学、論理学の3学と、算術、幾何、天文学、音楽の四科でした。中世が理想としたのは古典古代の時代で、その時代の文化は、3学4科を身につけた自由人によって維持されていたと考えられたので、教養人たるもの3学4科を学習しなければならないとされたのです。

 そのころから、法学校や医学校という専門職業のための学校はあったのですが、そのような実用的な職業のための学校は、実利から離れて真理のために真理を追求する自由人のリベラル・アーツの立場からすると、むしろ下賤なものと考えられていたわけです。とはいっても、いつの時代でも実利を求める人が多かったから、法学校や医学校に集まる学生は多かったのですが、そちらのほうが格が上ということはありませんでした。むしろ、そのような専門的職業教育を受ける前提として、リベラル・アーツを身につけていることが必要と考えられたのです。リベラル・アーツを身につけることで完全な人格者となった人間でなければ、そういう専門職業の道に入る資格がそもそもないということです。制度的にもそうなっていました。

東大も歪んでいる

 日本の大学は、西欧の大学とちがって、自由人の自由学芸のための教育の場という伝統をもともと持ちませんでした。近代国家として遅れて出発した日本は、すべてが、国家主導の形で、西欧近代国家に早く追いつくことをめざしました。そこにいろんな歪みが生まれました。産業社会作りも国家が主導したために、経済体制がすべて国家主導(官僚主導)型になってしまい、いまだにその歪みがいたるところに残っていて、それが昨今の経済構造改革問題すべての根っ子にあることはご存じの通りです。

 実は、日本の高等教育制度が、これと同じような歪んだ歴史を持っています。日本の大学制度は、国家が必要とする人材を早く育て上げるために、国家が主導して作り上げたものです。

 日本の大学では東大が一番古いのですが、これは、いろんな官庁が管轄していた教育機関が合わさって作られています。文部省が管轄していた開成学校(後の文学部、理学部)と医学校に、司法省が持っていた法学校、工部省が持っていた工学校、農商務省が持っていた農学校などが合体して帝国大学(1886年)となるのです。だから、西欧の大学ははじめから自治的な組織体としてできたのに、こちらは当初、大学の自治などは全くなく、総長は文部大臣の任命によって決まり、なってからも、「文部大臣の命を承け帝国大学を総轄す」(帝国大学令第六条)となっていたのです(その後若干の自治は獲得していく)。

 大学の使命も、自由な教養人の育成にあるのではなく、国家有為の人物の育成にあったのです。具体的には、まず行政官僚の供給で、近代国家の官僚はみな法律職ですから、法学部がその任にあたったわけです。東大法学部卒が高級官僚の地位をもっぱらにしているのはけしからんとよくいわれますが、東大法学部というのは、もともとそういう目的で作られたのです。官僚だけでなく、産業界や医学界、教育界にも、人材を供給することが期待され、東大の各専門学部はそのような役割を果たしてきたわけです。

 こういう歴史が東大の大学としての歪みを作ってきたわけです。こういう歴史のなかでは、リベラル・アーツ教育こそ大学教育の本流という考えは生まれるべくもなく、多少ともリベラル・アーツ教育に近いものがあったとすれば、旧制高校の教育がそれだったといえるでしょう。

 戦争が終わったとき、アメリカは日本の戦争体制の解体を目ざしていろんな使節団を送り込み、次々にいわゆる戦後改革を行っていったわけですが、日本の戦前の教育体制も戦争体制の一環ということで、その解体がはかられました。そしてアメリカの大学制度をモデルに新制大学が作られたわけですが、その最も重要な柱が、大学を前期課程と後期課程にわけ、専門課程は後期課程とし、前期課程は、新設の教養学部によるリベラル・アーツ教育を主体とするということでした。その担い手として、これまで、リベラル・アーツ教育にいちばん近いことをやっていた組織として旧制高校が選ばれ、旧制一高が東大に吸収合併されて、東大教養学部になったように、各地で旧制高校が新制大学に合併されて教養学部となったわけです。

必要とされるのはゼネラリスト

 リベラル・アーツの中身は、中世時代は先に述べた3学4科でしたが、時代を経るに従い、その中身も時代の流れに合わせて変容をとげていきます。そのころ、アメリカでは、最も現代的なリベラル・アーツのあり方として、人文科学、自然科学、社会科学の三つの分野をそれぞれ偏ることなく広く学習するという方式がとられていました。それがそのまま日本の新制大学に導入されたわけです。91年の制度改革で、教養学部解体が決まるまで、そのシステムがずっとつづきましたから、ほとんどの人がそういえばそうだった、と思い出すでしょう。人文科学、自然科学、社会科学の三分野からなる一般教育科目の中から36単位をとらなければならないという大学設置基準がありましたから、どこでもそうなっていたはずです。

 この一般教育科目というのが、アメリカ流のリベラル・アーツ教育を取り入れたものですが、中身は似て非なるものでした。たいてい大教室でマイクを使ってやるマスプロ授業で、内容的には、おざなりもいいところで、その先生の著書以上のことは何もないというものが大半でした。大学の授業なんてこんなものかとガッカリする最初のきっかけでした。

 しかし、この基本構想そのものは正しかったと私はいまでも思っています。人文科学、自然科学、社会科学、三分野の知識を幅広く修得することは、現代社会に生きる人間の基本的な教養としてぜひとも必要なことです。どの分野の知識が欠けても、社会人として完全とはいえません。

 一時、いまやスペシャリストの時代などといわれて、ネコもシャクシもスペシャリストにあこがれ、ゼネラリストなどというものは、つぶしがきいて何にでも使えるが、どの分野でも大して使いものにならない大衆的知的労働者のことだというような見方が流行していましたが、それは低レベルのゼネラリストのことです。スペシャリストの上に立つハイレベルのゼネラリストもいて、社会のあらゆるシステムは、結局、ゼネラリストが動かしているのです。

 あらゆる大きな組織のマネジメントにあたる人、ポリシーメーキングをする人、デシジョンメーキングをする人、執行部門の上層部のエグゼクティブたち、みんなゼネラリストです。技術部門出身の大企業の社長とか、官庁のトップになる技術官僚などもいますが、それはみなスペシャリストとしてトップに座るわけではありません。たまたま出身が技術部門というだけで、みなゼネラリストです。技術屋だけど、経営の数字もわかれば、営業展開の戦略もわかる、政治や社会の動向もわかる、そういう人でないと組織のトップには座れません。逆に事務部門出身でも、技術がわからないものは、企業でも、官庁でも、トップレベルに行くことはできません。技術はわかりませんですむのは、それこそ低レベルのゼネラリストで、ハイレベルのゼネラリストは、当然技術も守備範囲に含むゼネラリストでなければならないわけです。

 そういうハイレベルのゼネラリストを育てるのに一番いいのは、ハイレベルのリベラル・アーツ教育です。

 アメリカはそれがうまくいっています。アメリカの国力の源泉もそこにあります。現代における国力は知力の総和をもって測ることができるといっても過言ではないほど、現代は知力の時代です。

 かつては、アメリカの知力水準が問題にされるとき、アメリカには突出した個人は沢山いるけれど、全体的水準は日本のほうが高いとよくいわれましたが、今では(実は昔から)そうではありません。高校まではともかく、大学になったら、アメリカのほうが上です。日本では、大学に入るまでは熱心に勉強するけれど大学に入ると遊んでしまう学生が多いのに対してアメリカの大学は、学生をきびしく教育し、じゃんじゃん本を読ませ、遊んでいる学生は容赦なく落とすから、ここで完全に逆転してしまうのです。アメリカの大学は先に述べたように、学生を幅が広いリベラル・アーツ教育で4年間しごきます。そして、大学進学率はほとんど50%ですから、それによる知力の総和のレベルアップは大変なものです。

 日本でも大学進学率は45%をこえていますが、大学に入ってからの教育水準が低いから、知力の総和はグンと低くなる。アメリカとは大差がついています。どれほどちがうかは、本屋に行くとすぐわかります。アメリカでは、結構知的水準が高い本がベストセラー入りするのに、日本でベストセラーになるのは、ほとんどがタレント本程度の知的水準が低い愚劣としかいいようがない本です。TVはバカ番組のオンパレードだし、雑誌で圧倒的に売れているのはマンガ雑誌だし、日本の知的国力はもう取り返しがつかないほど下がっているといってよいでしょう。

 問題がとりわけ深刻なのは、科学技術に関する社会一般の知識水準がどうしようもなく低下していることです。サイエンス系の本でベストセラー入りする本がほとんどないのはもとより、科学雑誌が日本では壊滅状態にあります。

 その代わり日本では、科学的常識がちょっとあったら絶対に手を出すはずがないバカげた本が売れたり、そういう言説をまきちらす雑誌の記事やTV番組が繰り返し繰り返し市場に出てくる。

 これが本当に大学進学率が45%もある国なんだろうかと思います。大学でリベラル・アーツ教育がちゃんと行われていたら、そしてかつてそうであったように、その三分の一は自然科学系ということになっていたら、これほど、サイエンス系の一般の知識水準が低下するわけはないのです。

低下する日本の教育レベル

 事態をさらに悪くしているのは、先に述べた大学入試の問題です。入試が基本的に理系と文系にわかれそれぞれに科目が削減されたから、たいていの高校では、はじめから理系と文系にわけてしまって、入試に必要ないものは、学ばなくていいようなカリキュラムにしてしまっているんです。理系と文系では、先に述べたような理科と社会の科目のちがいもありますが、数学の内容も大幅にちがっているので、はじめからわけちゃうわけです。私立の中高一貫の6年制の学校では、中学時代からわけてしまうというところも珍しくありません。

 そして文系を選ぶと、入試では理科はほとんどやらなくてすむし、理系だって、受ける学校によっては科目が1科目ですむし、(もちろん、理系では入試で2科目要求するところもあるから2科目選択するという人も結構いますが)昔のように、理系であろうと、文系であろうと、誰でも3科目履修があたり前(時代によっては、前から2科目履修が普通という学校もありました)という時代とはぜんぜんちがうのです。

 その結果どういうことになっているかというと、科目別の履修率が驚くほど下がってしまったのです。昔は、ほとんどの人が物理、化学、生物の3科目をとって、わりと少数(1〜2割)の人がそのいずれかを捨てて、地学を取っていましたが、いまは、物理を履修する人がわずか17%前後しかいないのです。物理はあらゆるサイエンスの基礎で、他のサイエンスでも、いま物理との境界領域の学問である物理化学、生物物理といったところが最も発展しつつあるところだし、地球と宇宙のサイエンスである地学などは、もっと物理と縁が深いし、要するにサイエンスというのは、物理の基礎知識がないと本当のところはわからないというのが現実です。だから、その履修率が17%ということは、日本でこれからサイエンスを基礎からわかる人が激減するということになるのです。地学を教えられる先生が少ないということもあって、地学になると、履修率わずか7%です。一番履修率が低い宮崎県にいたっては、履修率わずか0.4%です。

 日本は国是として科学技術立国をめざすといい、科学技術振興のための予算をこれから17兆円つけるなどといっていますが、いくら予算をつけたって、サイエンスの国民的知識水準がこれほど下がっては、科学技術立国など逆立ちしたって不可能です。

 無資源国の日本がここまで経済を発展させることができた背景には、これまで基礎科学はともかく産業利用面での科学技術振興が相当うまくいっていたということがあると思うんですが、それをうまくいかせた大きな原因の一つとして、高等学校における理科教育が相当の厚みをもって行われてきたということがあげられます。

 あるいは、こういういい方ができるかもしれません。

 日本のリベラル・アーツ教育は、実は相当部分が実質的に高校教育によって担われていた。大学入試の幅の広さ、水準の高さに引きずられて、高校教育がその水準をあげざるをえなかったので、しばしばいい高校では外国のカレジなみの教育が行われていた。それによって育てられた質の高い中級技術者の層の厚さが日本の技術立国を支えていた。文科系の人間にしても、高校時代に強制的に理科を3科目履修させられたために、それなりに科学の基礎知識は持つようになっていた。それが、技術立国を事務や営業の面から支えていた。

 こういう日本経済の基盤を支えてきた教育面でのいい条件がどんどん失われています。これまでに述べてきたような、高校教育の水準低下、大学入試の水準切り下げ、大学でのリベラル・アーツ教育の崩壊の三者があいまって、日本の知力の総和は大幅に低下しています。なかんずく科学技術に関するいちじるしい知識水準の低下が総社会的に進行しています。

 現代の経済は、あらゆる意味で科学技術によって支えられていますから、その面での知識水準が総社会的に低下しつつある社会には、はっきりいって未来がありません。

 科学技術の個々の領域を現場で支えている大学の研究室、企業の研究所、生産現場などを個々に見れば、それなりにすぐれた研究水準が維持され、人材の補給もまだ一応はつづいています。しかし、ときどき、とんでもない話を聞くようになりました。微積分をちゃんとできないやつが東大の工学部に入ってきて先生が困っているとか、高校で生物学を履修しなかった学生が医学部に入ってきたので先生が仰天したとか、ウソのような話があちこちにあります。ある大学では、ナポレオンの話をしても学生に話が通じないのでよく聞いてみたら、学生はナポレオンというのは酒の名前だとばかり思っていたというウソのようなほんとの話もあります。これはそういうバカな学生もいるという単なるエピソードではなく、社会科の履修しなければならない科目数が削減され、大学入試に不利ということもあって、一時期世界史の履修率が大幅に減って、ほんとにそういう学生が出ることもありうる状況になったのです。しかし、このエピソードがあまりに有名になり、こんなに世界史の履修率が低くては、これから日本は国際社会で生きていけなくなるといわれ、最近では、世界史最低二単位が必修になったという話もあります。

 事態は、こういう個々の科目についての手直しでは救えません。最大の問題は、科目数削減それ自体にあるのです。リベラル・アーツ教育がなぜ大切かというと、幅広い知識を身につけることそれ自体にあるのです。

新しいリベラル・アーツの構築

 リベラル・アーツ教育はもともと人間教育が目的なのです。リベラル・アーツ教育を通じて、全人格的陶冶をはかることが目的です。バランスがとれたゼネラルな知識を与えることで、ものごとをトータルに総合的に見ることができる人間を育てようということです。現代の知の世界は、とめどない細分化によって、その全体性が失われようとしています。細分化による知の解体現象に抗して、知の全体性を復元し、それを維持していくためにも、リベラル・アーツ教育は大切なのです。科目数削減は、それに逆行する行為です。

 細分化による知の解体現象は、大学のような高等教育機関でこそとりわけ深刻化しており、いま進行しているリベラル・アーツつぶしは、実はそのあらわれともいえます。

 要するに、入試も学科単位でやって、大学での教育も、専門課程を中心にして、早くスペシャリストに仕立てあげてしまおうという方向なのですが、こういう方向づけは、細分化に毒された専門課程の先生方の独善的な学生の囲い込みを目的にはじまったもので、学生のためにも、社会のためにもなりません。

 そもそも高等教育は何のためにあるのかというと、大きくわけて、目的は二つあります。

 一つは、いまの社会が必要とする知的労働者の供給ということです。知的労働のレベルにもいろいろありますが、社会が求めている一般的なレベルは、高度なリベラル・アーツを身につけたというレベルで、アメリカの四年制大学の卒業生のレベルです。日本では、この層が、リベラル・アーツつぶしによって、ガタ減りしてしまいました。そして、とにかく専門課程に早く連れていって専門教育をほどこしてしまおうという方向になっているのですが、実際には、一般社会では、そこまでの専門教育を求めているわけではありません。先だって、本郷の工学部の先生と話していたら、学部を卒業して就職した学生で、専門課程で学んだ知識が職場で生かせるような企業に就職した人はほとんどゼロだろうというのです。ほとんどが専門課程で学んだこととは全く関係がないところに就職しています。大学を卒業して、就職する学生のことを考えたら、学生にとっても、その学生を採用する企業にとっても、本当は、なまじの専門課程教育より、もっと幅広くかつハイレベルのリベラル・アーツ教育をほどこしてやったほうがずっといいのです。

 高等教育の現場では知の細分化がどんどん進んでいますが、社会のあらゆる現場は、ゼネラルなのです。ゼネラルな知が求められるのです。

 たとえば環境問題を解決しようと思ったら、工学、医学、生理学、化学、気象学、法律学、経済学、社会教育学などなど、あらゆる関連学問を動員する必要があります。社会のあらゆる部門の現場で同じような要求があります。そのような要求に対し、それなら、必要な専門家をどんどん集めてくればよいかというとそうはいきません。どういう問題でも、その問題の全体像をとらえ、いま何が必要で、それは誰がどう役割分担すればいいかを考えるマネジメントが的確にできるゼネラリストが必要なんです。問題解決に参加する専門家も専門領域をこえた目が持てるゼネラルなスペシャリストが必要なんです。

 そういう人材を社会に供給していくために必要なのは、学生をどんどん専門課程に送り込んで狭い領域のことしかわからない専門バカ的スペシャリストを沢山育てることではありません。むしろいろんな専門領域のことまである程度わかるというレベルのゼネラリストを育てるために、新しいリベラル・アーツを構築することです。古いリベラル・アーツ教育の枠組み(これはダメな面が相当ありました)を解体して、より高次で、より現代的な内容を持った新しい時代の知識の枠組みを構想して、それをこれからの大学教育の中心にすえることです(教養学部を残した東大はある程度その試みをやっています)。

見直されるべき学制改革

 では専門課程は不要かというと、そうではありません。高等教育機関は単なる高等職業訓練機関ではありません。高等教育機関のもう一つの貴重な役割は、高等教育機関そのものを維持し発展させていくことにあります。大学は上質な知的労働者のプロフェッショナル・スクールであると同時に、大学教育を再生産してゆく、アカデミック・スクールでもあります。大学は高等教育機関であると同時に、高等研究機関でもあります。大学教員は、教育職であると同時に研究職でもあります。その両様の意味での大学教育を再生産し、雇用の場を提供するという役割も大学にはあります。学生も大学をプロフェッショナル・スクールとして利用する人もいれば、アカデミック・スクールとして利用し、そこからアカデミズムの世界に入っていく人もいます。そういう学生のためには、早くから専門課程教育をほどこしてゆくことも意味があるでしょう。

 しかし、そういう学生にとっても、リベラル・アーツ教育は重要なのです。

 なぜなら、研究職にとって一番大切な資質は、創造性(クリエイティビティ)ですが、創造性がどこから生まれてくるのかといえば、異分野との接触によって生まれるシナジー効果(相乗効果)によることが多いのです。この道一筋で、脇目もふらずに、ただそれだけを研究してきたという研究者がいい研究をするわけではありません。最近ではむしろ、インターディシプリナリー(学際的)な他の領域との接触部分にこそいい研究のシーズ(seeds)があるということがわかってきて、あらゆるところで、領域をこえた研究交流が進められています。個人の頭の中もそうです。できるだけ幅の広い領域の知識を沢山詰め込み、いわば頭のなかで知的化学反応を起こさせることによって、ユニークなアイデア、クリエイティブな考えが生まれてくるのです。良質のリベラル・アーツ教育をすぐれた若者たちにほどこすことは、社会の知力の総和を増大させるだけでなく、クリエイティビティを増大させるという大きな副次的効果があるのです。

 つまりいまの日本で進められている学制改革は、知力の総和を減少させるだけでなく、クリエイティビティを低下させるという意味においても、日本の将来を絶望的なものにしつつあるということです。

 こういう学制改革をどういうバカが推し進めてきたのか知りませんが、そういうバカの手によって、いまの日本の大学は教養がない専門バカの大量生産機構になりつつあります。このままでは日本という国が知的亡国の道をたどるのはそう遠い将来のことではないでしょう。


大統領が数学と理科に力をいれるアメリカと小数ができない新日本人

経済学部教授 戸瀬信之

 この小論では、日本とアメリカで行われている教育改革の質的な違いを数学者の目から見て解説する。

逆向きの日米の教育政策

 2000年の年頭にあたって日米の首脳の所信表明演説・年頭教書が発表された。双方とも教育を最重要課題としているが、中身を見ると方向性は全く異質である。このことを見るには過去20年間の経緯を振り返る必要がある。

 レーガン政権が「卓越した教育に関する委員会」による教育白書「危機に立つ国家」[i]を、1983年に発表して以来、アメリカでは教育改革を進めてきた。全米の教育目標の中には必ず数学と理科の学力向上が入っている。たとえば、1990年に全米の知事と当時のブッシュ大統領が定めた教育の「全国目標」の一つとして「2000年までに数学と理科の成績が世界一になる」ことが入っているくらいである。その結果、大学入学のための学力試験であるSATの数学では、受験者数が過去最高であるにも拘わらず、過去25年間で平均点が最高となったのである。現在のクリントン政権下では、21世紀に向けての教育の課題として最重要視しているのが、読み書きと数学・理科の基礎学力の向上である。実際、クリントン政権は、アメリカ科学財団と教育庁が共同作業グループを作り、「数学・理科の学力向上の活動戦略」を策定した。クリントンは策定を命じた教書の中で、「高度な数学と理科が大学進学、市民となること、生産的な雇用、そして生涯教育のゲートウエイである」と位置付け、「技術・情報化時代には生徒の数学・理科の達成度をあげる必要がある」と断じている。

 ちなみに、20年前の「危機に立つ国家」の勧告の中にある、高校4年間[ii]の5つの新基礎科目(the five new basics)の一つとして、計算機科学が1年半必要とすでに書かれている。思えば、20年前に東京大学理科1類に入学した。当時、駒場の計算機演習は抽選で宝くじにあたるような存在であった。また、76年3月にニュージャージー州にある母校の姉妹校に通学する機会があった。そのとき、高校には汎用機の端末があり、優秀な高校生がプログラミング演習を行っていたのである。日本では、計算機が普及したから数学の初等、中等教育における重要性は低下したという浅薄な教育論議が依然として大手をふるっている。クリントンの教書の中では、情報化時代が数学と理科の重要性を高めているとうったっているのに。[iii]

 プログラミングができるようになるというのは、若い世代が豊かな収入を確かに得る一つの手段であろう。2月にドイツに講演のため出張した。その往路、隣の座席に卒業旅行の女子大生がいた。東京にある旧府立のナンバースクール[iv]の出身である彼女は、文科系であるのに高校3年までしっかりと数学を学んだ。そのおかげで、ソフトウエア業界への就職が他の友人に比べてスムーズに決まったそうである。クリントン大統領の教育目標の中で誰もがプログラミングをできるようになるというものも設定されている。日本では、ソフトウエア技術者の能力が国際的に見て低いとよくいわれている。最近、理科教育の問題に関するシンポジウムに出たとき、ある計算機メーカーの相当高いレベルの技術者の方が、日本のソフトウエア技術者のレベルはフィリピン以下であると発言された。アメリカの情報産業を支えるのは実は、インド人、ベトナム人、中国人である。インドのソフトウエア産業が勃興したのは、高等教育で数学を重視してきたからであると分析する人もいるのだ。

 翻って日本の状況を見てみよう。99年に小中学校と高校の教育内容を大幅に削減した新学習指導要領が策定された。そして、小渕政権は教育改革会議を発足させるが、その方向性は全く「真空状態」と新聞各紙が報道している。

 日本の現在の状況は「危機に立つ国家」の当時のアメリカの状況と非常に近い。当時のアメリカでは、子供の自発的な興味や個性を重視して、知識の詰め込みを否定して体験による学習と問題解決を重視したデューイ以来の教育哲学が強く、高校では科目選択を大幅に認めた「キャフェテリア式教育」が主流であった。そして、その結果著しい学力低下が生じた。

 アメリカには大学入試がないという全く愚かなことを信じている人も多い。SFCの2学部が先鞭をつけたAO入試はアメリカの入試をモデルにしているというが、両者は全く異質である。SFCのAO入試では、学力調査はない。ところが、アメリカでは、SATという国語と数学の基礎的な統一学力試験を受験することが要求される。しかも、難関校に入学するにはレベルのより高いSATのレベル2の科目試験を数科目受験することが必要である。高校4年間の履修に関する科目指定がなされるのだが、高校4年間で国語が4年間以上、数学が3年間以上を要求されるのが通常である。

 「危機に立つ国家」の当時のアメリカでは、高校での履修条件が、高校サイドの「キャフェテリア教育」を受けて非常に緩やかになっていたことにも注意しよう。「危機に立つ国家」の中で、「大学の中にも、入学者数を保持することに躍起になっていて、厳格な学力水準の維持などおざなりになってしまっているところがある。優れた学力をつけさせることを学校教育の最大の目標におくという理想は、アメリカの教育界で完全に陰がうすくなってしまっているかのようである。」と述べて、アメリカの教育の危機、そして国家の危機を強く訴えていたのである。

 アメリカにおける、教育政策の一連の変転を見て、現在の日本の現状と行く末を思い重ねない者は、よほどの愚か者であろう。

 この10年間「教育におけるゆとり」の名の下で、日本の初等・中等教育の教科内容と時間数が削減され続けてきた。他方、受験戦争緩和という、これも反論できないコピーの下で大学入試科目の軽減と推薦入試の推奨が行われてきた。私が大学に入った79年度入試から始まった共通一次試験では、5教科、しかも理科2科目、社会2科目が必修であった。ところが、現在、国立入試を諦めて、私立文系を目指す限り、せいぜい3科目入試である。藤沢の2学部などは英語だけで入学できる。国立大学の受験科目も減っている。社会を2科目受験することを要求しているのは、東京大学の文系と京都大学の一部である。

 この10年間に日本であった教育論議の中で、はやった言葉を思い出そう。詰め込み教育、受験戦争、4当5落、個性重視、新学力観、体験重視、創造性、ゆとりの教育などなど、マスコミと文部省が創り出したイメージあるいは虚構のもとで様々な教育政策が行われてきた。それはあたかも、勉強しなくていい、勉強しなくていいと文部省とマスコミが連呼しているようであった。その結果がやはり学力低下であった。最近、新聞報道にあったが、財団法人「日本青年研究所」が調査した結果、学校外で塾を含めて全く勉強しない高校生が40%もいる。中国とアメリカでは10%である。この傾向は今になって分かったわけでなく、すでに総務庁青少年対策本部が1996年に日米韓の3国で調査した結果からも明らかになっていた。勉強すること、学問することが「詰め込み教育」、「受験技術」などの汚い言葉で歪曲化されている。皮肉な言い方をすれば、実態と乖離する言葉遊びに、官僚とマスコミと学者がおぼれるのもやはり能力が問われるところである。

 最近、高校を卒業しながら就職も進学もしない無業者の率が東京では20%近く、全国では10%近くいる。不況の影響であることも否定できないが、SPIなどの基礎能力試験を企業側が受験させることにより、最近の若い世代の実態が明らかになっていることも影響しているかもしれない。

 99年に小中学校と高校の新学習指導要領が策定されたと上でのべた。その路線は今までの方向をさらに推し進めるものである。

 ここで章を改めて、現在の日本における学力低下の現状とその原因を分析する。そして、新学習指導要領がさらに状況を悪化させることが確実であり、国民に新学習指導要領の実施を中止するように訴える。

ゆとり教育と学力低下

 西村和雄京都大学経済研究所教授と私は、98、99年度に、幅広い層の大学の文系学部で数学の学力調査を行った。詳細は「分数ができない大学生」、「小数ができない大学生」(東洋経済新報社、岡部・戸瀬・西村編)の中の我々の論説[v]に譲るが、(1)私大のトップ校の経済学部でも分数・小数などの算数レベルも危うい学生がいる、(2)私立上位校でも数学未受験の学生の数学力は中学2年生程度である、(3)国立大の最難関校の学生でも入試で数学を経験していない学生の多くは中学の数学もできない、など非常に深刻な状況にある。日本経済新聞の昨年春の連載「大学はどこへ」で、本塾経済学部の匿名教員が、ゼミで英語のテキストが使えないくらい英語力が落ちていると語っている。英語力、国語力の低下も多くの大学教員の共通認識である。[vi]

 文系だけでなく、理系の、しかもトップのレベルの学生を含めて学力の低下が著しい。私が東京大学理科1類の学生のときは、論理的に厳密(rigorous)な微分積分を学んでいた。ところが、約10年くらい前から、落ちこぼれる学生が非常に多くなった。その対策として、計算中心の別のコースを設けて学生の自由選択に任せたのである。東京大学の工学部では専門に進む2年の後期の最初に数学の共通試験を行っている。100点満点の同一の問題で平均点が10点以上も15年間で下がっている。

 日本では「ゆとり」という美名の下で、教育内容の空洞化が進行している。算数・数学でみると内容が減っているだけ時間数も減っている。減らしたのは枝葉というが、これは根幹の部分の理解を促すために必要な部分である。学年間の重複が理解を確かにしていたが、それもない。しかも、詰め込み教育批判があり教員サイドが宿題をあまり出さない。これでは学年が進むほど「理解不能な」勉強を苦痛に思う子供たちが増えるのが当然であろう。小学校の算数は、中学で理科・数学などを理解するための基礎である。中学校数学は高校で理科を理解するのに不可欠である。

新指導要領が日本を滅ぼす

 ところが、2002年から実施される新学習指導要領ではさらに算数、数学の時間が減るのである。そして3割の内容を削減する。小学校の算数に焦点を当てると、たとえば、4桁の足し算、引き算がなくなる。その結果、新日本人は千円札でおつりをだせない。新日本人は小数の計算として小数点以下1桁までの小数しか学ばないのである。このような算数では、中学の数学・理科で多くの子供たちがつまずくであろう。このような国は文明国といえるだろうか。中学の数学は各学年で週3時間になる。これが、多くの高校生を理科・数学嫌いに導くであろう。文部省の政策担当者[vii]が、内容の3割削減で「全員100点とれるようになる」とまで公言しているが、たとえ内容を6割減にしたところで、そのような目標が達成されるはずはないし、そのようにして達成された「全員100点」にどんな意味があるのだろうか。いずれにしても、学年が進むほど子供たちが理解に苦しむ構造は加速するであろう。

 分からない子供たちをなくすために教科内容を減らすといっているが、優秀な子供たちはどうなるのだろうか。日本の公教育が一律に文部省から制度的に強制されているので、指導要領で内容を削減すれば、全ての層で子供の学力が下がる仕組みなのである。したがって、高度な学問を行うための基礎学力が身につく子供の層が非常にうすくなる可能性が強い。今後の少子化の中で、高等教育のレベルを維持することは日本の将来を左右させる重要な課題である。日本は世界史上まれにみるくらいのスピードで少子化が進むのである。

 総合的な学習の導入をはじめ、体験学習、問題解決型の教育という言葉も最近よく耳にする。しかし、上で述べたアメリカの教育改革の中で、失敗と認識されているのである。「危機に立つ国家」が発表されて以来、つねに引用されてきた文献がある。E. D. Hirsch の “Cultural Literacy --- What every American needs to know “ である。[viii]この中でハーシュは、従来のアメリカの個性重視、自主性重視の教育が学力を低下させたという意味で、デューイ以来の教育哲学を強く批判したのである。数学の世界でも、イギリスでは問題解決型の数学教育を行う傾向が強い時期があった。ところが、その結果学力低下が叫ばれて、基礎的な能力を重視する教育法に回帰している。[ix]

 2003年からの高校カリキュラムでは科目選択が無節操なまでに自由となってしまう。こうした方向の教育は、冒頭で述べた過去のアメリカの教育改革で失敗と認識されており、「危機に立つ国家」では高校生により厳格な科目の履修をさせるように勧告した。ニューヨーク州では高校の卒業資格試験が最近導入されたが、その試験科目が定める履修科目とその時間数は基礎科目に厚いものになっている。

 新指導要領の社会的な影響はどうだろうか。内容が薄まった新指導要領の導入とは、公的教育が、以前のパッフォーマンスを示していないことの裏返しにすぎないことに注意すべきである。公立の学校で教育を受けるとなると、学習塾でも行かない限り高い学力はつかないであろう。それどころか、文明人としての最低限の基礎能力である読み書きと算数が身につかないだろう。現在でも、塾通いが非常に盛んであり、読み書きと算数・数学の学力のある部分は塾の力で維持されていると思ってもよいだろう。これでは、結局、公的教育の質低下のコストを国民が負担することに他ならない。このことは、経済的に問題のある家の子と教育に理解のない家の子が、これまでと同様な教育をうける権利を大幅に奪われることも意味する。納税者は異議を唱えるべきではないだろうか。家計における教育費の増加は少子化に拍車をかけるだろうし、[x]長期的には貧富の差を拡大させる危険すらある。

 上で日本の子供の勉強時間が国際的にみて非常に少ないということを述べた。実はこの現実の社会学的な分析もある。教育社会学者の苅谷剛彦東大教授らのグループは1979年と1997年に有力な私立がない県の高校において生徒の学校外での勉強時間を調査した。その結果をみると[xi]、1997年の調査では、子供の勉強時間に親の学歴などが依存ずる構造が顕著になっている。日本の社会の二極分化が教育により進み、教育により固定化されつつあると見るのは私だけであろうか。

 東京大学の合格者における私立・国立の6年一貫校卒業者の割合が尋常でないくらい増加している。その反面、有力な私立高校がない県からの合格者数は軒並み減少している。田舎の県立高校を出て慶應義塾の教授になるのも私の世代が最後となるのだろうか。

真の意味での自由な教育・豊かな教育を

 全ての問題は、文部省の役人が決めたことを間違っているものでも全て一律に地方に押し付けることである。最近、文部省の政策担当者が指導要領は minimal requirement であって、現場の先生がより高度な内容を教えていいと言い出した。算数・数学の学習指導要領を見る限り、「に限る」、「に留める」という文言の連続である。しかも、学習指導要領を基に策定している教科書の作成基準に細かい規制があるのである。その検定教科書をもとに全国一律の公教育を行うことには何ら変わりない。このような規制の下では、地方の様々な努力、改善が広く活用されない仕組みにあるのである。別のいい方をすれば、現場の試行錯誤が改善に結びつかないのである。

 緩やかな指針としての指導要領を残して、科目設定と教科書編集を地方レベルでより自由にできるようにすべきである。

 教育論議が始まると必ずエリート教育か平均主義かという二分法の議論が出てくる。「危機に立つ国家」の素晴らしいのは、「かつてアメリカは、一部のけた違いの教育を受けた人々の力により、世界の中で十分に安定した地位を築いてきた。しかしその時代は終わった。」として、「学校教育における卓越性と平等を目指す」点にある。言いかえると、「全ての人の潜在能力を最大限にまで出し切ることが我々の目標」であるとした点にある。

 優秀な学生を伸ばす仕組みも必要であろう。アメリカでは Advanced Placement と呼ばれる仕組みが高校にある。大学初年級レベルの内容あるいは高校の内容の高いレベルに関する科目がたくさん設定されている。全国の統一試験があって、認定された成績次第では大学によって単位として認定されるのである。そして、APあるいは高校内での上級の科目(honors)を学んだことは大学入学の際に評価される。実をいうと、日本の理系の高校生が学ぶ数学のレベルは世界的にみて高い方ではなくなっている。これもひとえに、指導要領が日本の学生が学ぶべき内容を規制しているからである。

 クリントン政権は財政黒字を投入して18人学級を実現しようとしている。ところが日本は未だに40人学級が存在するのである。私が1976年に1ヶ月姉妹校に滞在したとき見た理科の実験室は非常に高度なものであった。理科、社会の教材も様々なフィルムが用意されていた。日本で高校の理科の実験室がこの25年間でどれだけ進化を遂げただろうか。

 豊かな国に豊かな教育を実現して欲しい。そのために、2002年からの新指導要領の実施を中止して欲しい。「2002年度からの新指導要領の中止を求める国民会議」を結成して署名運動を始めた。

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氏名:戸瀬 信之(とせ のぶゆき)。現職:経済学部教授。学位:理学博士(東京大学)
最終学歴:1985年東京大学大学院理学系研究科数学専攻修士課程修了
著作:「分数ができない大学生」(東洋経済新報社、1999年、岡部恒治埼玉大教授、西村和雄京都大学教授と共編)、「算数軽視が学力を崩壊させる」(講談社、1999年、精神科医和田秀樹氏、西村和雄京都大学教授と共著)、「経済数学」(エコノミスト社、1999年、伊藤幹夫本塾経済学部助教授と共著)、「経済学を学ぶための微分積分学」(エコノミスト社、1999年)、「小数ができない大学生」(東洋経済新報社、2000年、岡部恒治埼玉大教授、西村和雄京都大学教授と共編)

[i]以下の、「危機に立つ国家」と「数学・理科の学力向上のための活動戦略」の訳は、西村和雄教授(京都大学経済研究所)と私の共訳から抜き出した。現在、これらの文書の邦訳を出版準備中である。

[ii]アメリカの初等、中等教育の制度は州による。大学進学のための各大学が定める高校での履修要件では高校が4年制であると想定している。3年制の州も実際には存在する。

[iii]「情報」を学部名の中にいれておきながら、数学をまったく軽視するところもある。そのような学部の技術レベルは、もちろん非常に低いものとならざるを得ない。これは理系の出身者にとっては自明のことである。昔のように、文系の学生も数学をしっかりやって大学にはいれば、文系の学生を集めた情報系の学部も実質的な意味があるのではないだろうか。

[iv]旧制の府立中学の伝統を受け継ぐ高校の教育は依然として非常に厚いものである。正統な教育を行う高校が評価されるような受験制度をつくるべきである。

[v]98年度の調査に関しては「日本の大学生の数学力」(戸瀬信之、西村和雄著、「分数ができない大学生」(岡部・戸瀬・西村編))、99年度の調査に関しては「日本の大学生の数学力――学力調査1999」(戸瀬信之、西村和雄著、「小数ができない大学生」(岡部・戸瀬・西村編))を参照されたい。

[vi]「小数ができない大学生」の中に英語の学力低下に関する論説を載せている。参考にされたい。

[vii]朝日新聞「論座」99年10月号の徹底討論「子供の学力は低下しているか」(寺脇研×苅谷剛彦)を参照されたい。

[viii]翻訳は、「教養が国をつくる」(中村保男訳)TBSブリタニカ、1989.2である。この本の巻末には、アメリカ人の教養として必要とハーシュが考える事項をまとめた小辞典がある。これを拡大してまとめたのが、「アメリカ教養辞典」E. D. Hirsh, Jr. [ほか著] 、中村保男, 川成洋監訳)丸善、1997.3である。

[ix]Tackling Mathematical Problems, London Mathematical Society, Institute of Mathematics and Its Application, Royal Statistical Society, 1995.を参照されたい。現在、この文書の翻訳を準備中である。

[x]教育費の問題は「小数ができない大学生」の中の、池本美香さくら総合研究所主任研究員による「少子社会からの脱出策」を参照されたい。

[xi]「小数ができない大学生」の中の苅谷教授の論説を参照されたい。


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