松五郎の玉手箱
MASTUGORO'S TAMATEBAKO
ここは我輩の情報保管箱です。(メール、新聞・雑誌の記事、手紙・葉書の投書 等々)

【保管ファイルNo.12】1999.12.15 広島県立広島国泰寺高校 同窓会会報より

  99.11.10 高校の東京同窓会の定例総会が開かれた。私は折悪しく参加できなかったが、会報で当夜の様子が知らされてきた。中に先の参議院議員選挙で広島選挙区で当選した先輩の亀井郁夫さんの「広島県の教育現場」を嘆く一文があったので転載する。文中で氏も言うように「広島県の教育現場の“二の舞”の愚を東京の、そして葛飾の教育界に犯させてはならない」とする思いからである。

高校同窓会

 今回も国会審議の合間を縫って亀井郁夫参議院議員(昭和27年卒)が出席され、次のような挨拶(要旨)をされた。

挨拶要旨  昭和27年卒 亀井郁夫

『今晩は。昭和27年卒の亀井です。今回、先輩、後輩にお会いできてうれしく思っています。只今、国会が始まり忙しい日程ですが、国会では中小企業の活力が話題になっています。アメリカも1980年代に厳しい時期を迎えていましたが、今ではベンチャービジネス育成で、がんばり、元気になっています。

 介護保険では弟の亀井静香が静かでなく騒がれていますが、今日もこの後、集まりがあります。介護保険は4月1日から実施されますが体制が整っていません。お金をもらわないで、とりあえず「ならし運転」を半年間いたします。その間に自民党でも意見がありますが、準備するということになりました。財源問題で税か施設か在宅かと自自公3党で調整が大変で、弟(静香)も苦労しています。もう一つは「自宅で自分自身でみている人は、どうするのか」との素朴な意見もあります。社会的介護は必要だが親の介護を社会がみるだけでなく、親子の関係をみなおすということを改めて考えてみるということが弟(静香)の意見です。最後の詰めをこれからやることになります。

 小渕総理は教育問題をとりあげています。8月9日に国歌法が決まりました。広島県も県教育委員会も民間も一生懸命取り組んでいます。私も頑張りたいと思います。よろしくお願いします。』

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蘇らせよう、教育県・広島

参議院議員(自由民主党) 昭和27年卒 亀井 郁夫  

「教職員組合」「解放同盟」の両輪体制は人の心まで変えてしまったのか

 学校の場における「日の丸・君が代」の問題は、特に広島県にあって極めて深刻なものとなっている。しかし、このような現状に至った原因は、ひとり教育現場のみに求められるものではない。

失った人の心、目に余る教育現場の荒廃

 去る7月3日の午後、広島県御調町、山間にたつ一軒のお宅を訪ねたとき、私はがく然とさせられました。日本人の心は、ここまで荒んでしまったのか、私は瞬間、呼吸が止まる思いでした。 そのお宅とは、卒業式の前日、ことし2月28日、国旗・国歌問題で自ら命を絶たれた県立世羅高校長、石川敏浩先生のご自宅です。久しぶりにご仏前に参った私は、そこで、石川先生が亡くなられて四か月余もたつのに、かつて職務をともにした世羅高校の先生は誰一人として、お線香さえあげに来ていない事実を知ってしまったのです。

 いまや、人の結びつきとはそんなに希薄なものになってしまったのでしょうか。そんなに無情であっていいのでしょうか。そして、先生とは単に知識を教える機械、人間としての心は必要としていないのでしょうか。「差別は許さん」はずの広島県で、こんな逆差別が堂々とまかり通るとは……。私は石川先生の夫人の前で思わず絶句してしまいました。

 冒頭、あえて日本人と申し上げましたのは、広島県で育ち、多くのすばらしい仲間を持つ私にとって、とても「広島県人の心」とは綴りたくなかったからです。しかし、私たちは、勇気を持って事実を直視しなければならないところまできています。私が本稿をお引き受けしたのは、二つの理由があります。一つは全国のみなさんに広島県の実情を知っていただき、決して「二の舞」になるような道を選択していただきたくないこと。そしてもうひとつはいうまでもなく、広島県において、荒廃の極みにある教育現場に人の心を復活させるためには、単に教育関係者に限らず県民のみなさんに、まず、事実を知っていただく、その上で解決のためにみんなで力を出しあいましょうと、呼びかけたいからであります。

増える県外進学、非行は全国ワースト2

 広島県は疑いもなく全国有数の教育県です。ひとつ大学進学率を例にとっても、47都道府県で5位より下がったことはなく、時にはトップになる年さえあります。

 ところがです。割合、つまり「量」はトップクラスでも「質」、すなわち成績は決して芳しいものではありません。例えば、大学センター試験の成績ですが、以前は19位か20位に位置していたのに、ズルズル落ちて、いまでは全国で45位というありさまです。また、地元の広島大学の合格者も、昭和43年頃は、60%を県内の高校で占めていましたが、最近はわずか25%。県立高校からの進学率も、45%から15%へと、三分の一に減ってしまいました。

[木下補注⇒私(木下)の卒業した昭和43年3月、我が国泰寺高校からの広島大学の合格者数は普通課卒業生450名弱で120名。うち進学者は7割程度。校内模試400番前後でも合格していた――と記憶している。]

 県立の高校からでは希望する大学に入れない、というのがいまや定説で、残念ながら県外の高校へ進学させるご家庭が増えています。県東部の福山市を中心とした備後地域の中学生は、その3割がお隣り岡山県の私立高校などに進むといわれています。こうした脱広島県現象が、結局、県立高校生の学力の低下につながり、さらには希望校に進学できないという悪循環を生みだしているといえましょう。

 学力ばかりではありません。かつて、広島県は、非行少年の数は全国でも最も少ない県のひとつでしたが、現在はというと、千人当たりの刑事事件を起こした少年の数は、大阪府についでワースト2。広島県は26人で、このままいくと大阪府の27人を抜きかねない、最悪のところまで来ています。

 雑誌『正論』(産経新聞社、平成11年5月号)に、「広島県公立教師 田中一男(仮名)」さんが書かれた『校長はなぜ自殺したか』の数字を引用しますと、
<平成9年度、学校内外の暴力行為は広島県では小中高で1,542件起きており、平均すると一日6件起こっている事になる。いじめは1,076件、30日以上の不登校も小中で2,336人。高校生の中途退学は2,448人でどれも増加している。>

学校運営は校長ではなく教組の手に

 まさに学校が修羅場と化しているわけですが、田中先生は、こう続けています。
<しかし権限を制約された校長は、問題を解決するどころか、生徒の命や教職員の安全さえも守ることができない。リーダーシップを発揮できないのだ。一方、教職員はというと、遅刻や欠勤者が多い。つまり教師の士気が低い。自習時間が多いということだけでなく、問題行動があっても対応できる職員が少ないのだ。>
 「校長の権限の制約」。全国のみなさんは信じられないでしょうが、それは校長に学校運営がまかされていない、ということに尽きます。職員会議が最高議決機関であり、校長は議長にさえなれず、もっぱら広島県教職員組合(以下「広教組」と略)や広島県高等学校教職員組合(以下「高教組」と略)の決めた方針が多数決によって採択され、校長はこれに従わざるを得ない状況にあります。これを広島県では「従来からの労使慣例」と呼び、新着任の校長は、教組側からこれらを守ることを約束する確認書に署名させられています。

 また、学校の生活指導、進路指導、学年などの主任の任命についても、任命権を持つ校長が決めるのではなく、これまた職員会議の多数決によることがほとんどです。従って事実上、教組に任命権があるといってよく、任命されるのは一年交替で、大方、先生に採用されて2、3年の組合員、なかには新任の先生を選ぶ場合さえあるのです。

 これでは、豊富な経験や知識がモノをいう生活指導や進路指導の主任をこなせるわけがありません。学校が荒れ、進学率の低下も当然の帰結ということになります。ちなみに、校長が教組の意に反し、非組合員、ストライキ参加不同意者を主任に選ぶと、校長は、たちまち「従来からの労使慣行を守らない」「約束を守らない」ことを理由に反省文を書かされています。

 また、主任手当の70%は教組にカンパすることになっており、もちろん教組は活動費としてこれを使っています。もっとも、教組は、「主任制度反対闘争」を続けている身、さすがに「主任」とは呼べず、「手当処理係」と表現しているのが実情です。教頭人事についても、校長が推薦する場合、これまた、確認書によって組合員、または教組に対する協力者に限られることがほとんどといってよいでしょう。

当たり前の「区別」に「差別教育」のレッテル

 問題はさらにあります。広島県部落解放同盟広島県連合会(以下「解同県連」と略)の存在です。同じ「解放教育」を掲げるにしても中央本部や他の都道府県の連合会と、解同県連とではスタンスにかなり開きがあり、「異端児」とさえいう人もいます。身分差別はあってはならないことですし、同和教育は必要だと、私自身も思います。しかし、いま、広島県の教育現場で行われている同和教育は、間違ったそれ、であるといわざるを得ません。

 広島県下の教室をのぞいたらわかることですが、先生は出来る子には当てません。運動会の徒競争もなしです。補習も、能力に差をつけるという理由で行われず、夜間、被差別部落に教えにいくことだけが許されています。

 教育とは、得手を伸ばし、不得手を克服するもの。そして誰にでも挑戦する権利はあり、機会は均等でなければなりません。あとはこどもたち一人ひとりが結果を出していくだけです。

 私は正真正銘の音痴で、小学校の合唱の練習では、パクパク口を開けるだけで、決して声は出しませんでした。一人で一生懸命何度練習してもまともに唱えなかったからです。こども心に出した私の結論は、「他でがんばろう」でした。人間はそれぞれ違った能力を持っています。不得手の克服に限度も限界もあることは私も経験しています。ならば一人ひとりの得手をもっと伸ばしてやるのが教育であり、先生の役割だと、私は思います。

 そして、この判別は、「区別」であり、「差別」では決してありません。しかし、広島県ではこうした教育を行おうとすると、たちまち「差別教育」のレッテルを貼られ、よってたかって周りから叩かれてきたわけです。

 本年4月21日、22日の両日、私は参議院自民党政策審議会の広島県派遣団(団長・中曽根弘文政審会長ら9名)の一人として故郷に戻り、教育現場の混乱状況を調査して参りました。

 その際、多くの証言をいただきましたが、異口同音に語られたのが次の話です。

 「学校内で先生が解同県連の方針と違うことを言うと、差別言癖があると断定され、連日のように解同県連による糾弾集会に呼び出され、徹底的に糾弾、つまり総括される。だから解同県連の方針に従わざるを得ない。このために自殺された先生は、十数人にのぼるといわれている。」

 また、解同県連は、卒業式で国旗を掲揚し、国歌を斉唱しようとする校長を呼び出し、「自分たちのこどもを欠席や途中退席させるぞ。それで部落の子とわかって差別事件が起きたらどうする!」などと、脅迫まがいの圧力をかけてきたという話も聞きました。

 こういう時、解同県連とともに、前面に立つ団体が二つあります。広島県高等学校同和教育推進協議会(以下「高同協」と略)と小中学校対象の広島県同和教育研究協議会(同「広同協」と略)です。校長以下全職員がメンバーですからなんと組織率100%。表向きは同和教育の研究機関ですが、実際は解同県連と一体となった運動団体で、反国旗・反国歌・反学習指導要領の活動が中核になっています。そんな団体の地域の会長を校長がやらされているのだから校長もたまりません。対教組に加えて、ここでも自分で自分の首を締めるような立場に置かされているわけです。

 挙句の果て、と申しましょう。ある小学校では、低学年生から「『日の丸』の赤い色は、日本が侵略・戦争で殺した人の血の色、白地は殺した人たちの骨の色」と教えています。
 また、亡くなられた石川先生の世羅高校でも、毎年、韓国に「謝罪修学旅行」に出かけています。ソウルの独立運動記念塔前で、生徒が謝罪文を朗読しているのです。もちろん、校長の権限でこれをやめさせることができないのは、これまでの説明でおわかりいただけると思います。

無軌道な「両輪」加速の軌跡

 いつから広島県は、こんな状況になってしまったのでしょうか。まず、昭和43年という年が挙げられます。この年、高教組、広教組に高同協、広同協、そして解同県連の5団体が「五者協」と呼ばれる協議会を結成しました。これをきっかけに教育現場に対する激しい介入が始まったのです。
 月刊誌『文藝春秋』(本年5月号)誌上で、その後の流れについて、広島県議会議員の石橋良三先生が明快に語られているのでそれを引用させていただきます。

<平和教育の点から、日教組が「日の丸」に反対し、解放教育の点から、部落解放同盟県連が、「君が代」に反対している。「日の丸・君が代」というくくりのなかで、日教組と解同県連が、おたがいに利害の一致したところで手を結んでいる。それが「日の丸」と「君が代」をめぐる広島県の歴史なんです。>

 片方に高教組・広教組、もう一方に解同県連という両輪をつけた広島県という台車は、当初はゆっくりでしたが、やがて加速度をつけ始め、昭和60年、第二段階を迎えます。
<県教育の荒廃の最大の元凶は、組合活動理念の教育現場への持ち込みと、それを支持する解同県連の不当介入である。>
と、木山徳郎県議会議長が強く批判、教育正常化を求める要請文を出しました。

 この要請は前出「五者協」の激しい反発を招き、結局、これを収束するために「五者協」に知事、県議会議長、県教育長の行政三者を加えた八者が話し合い、「八者合意文書」を取りかわしたのです。ところが、同文書に
<差別事件の解決にあたっては、関係団体とも連携>
との一節を入れたために、「五者協」の五団体が教育現場にいっそう、それも堂々と入り込み、数育現場を事実上支配するに至ったわけです。

 そして第三段階が平成4年2月。この時は
<「君が代」は身分差別につながる恐れもあり国民のコンセンサスを得ていない>
という趣旨の文書を当時の県教育長が解同県連と高教組に出したことがきっかけになりました。これによって広島県においては、学習指導要領が事実上否定されることになったわけです。

 こうした三段階をふまえて、現在に至った広島県の教育は、「五者協」との合意なしには何も決められない状況になってしまったのです。

実態を報道しないメディア

 私は痛感しております。解同が悪い、教組が悪いというのは簡単ですが、これでは冒頭にご紹介した「お線香一本あげに来ない先生」と、同じレベルです。

 責任の一端は、いうまでもなく、こんな状況を許してきた、つまり台車を止めなかった私たち広島県民にある、と言わねばなりません。

 たとえば前出の高同協、広同協に対して、広島県はもとより市町村は、毎年、2,300万円もの補助金を出しています。正しい同和教育であるならば、もちろん結構ですが、間違った同和教育を行っている運動団体に、血税を使う理由はまったくありません。県や教育委員会が解同や教組を甘やかしてきたことは、疑いもない事実です。

 また、同様の責任は、メディアにもあります。こんなひどい教育現場が、なぜ、県民に伝わらなかったのでしょう。それはいうまでもなく、宮澤喜一大蔵大臣が過日の参議院予算委員会で厳しく指摘されているように地元のメディアが逃げたからです。「強きを助け、弱きを叩く」メディアの姿勢は、これまた冒頭の世羅高校関係者と、人間的にまったく変わりはありません。

 「中国新聞」は、その社是でこういっています。
<中国新聞は公器としての使命を自覚し、全社をあげての親和協力により、その向上発展を期するとともに、世界平和の確立、民主国家の建設、地方文化の高揚に努力する>

 「立派な社是を大切に頑張ってほしい。」あえて、私はここで申しあげます。最近のあるテレビ局の調査ですと、「日の丸」は90%、「君が代」は70%の国民が認めています。「国旗・国歌の法制化」と前出の「主任制度の見直し」を手はじめに、故郷の教育の正常化、「量」だけでなく「質」でも胸を張れる教育県・広島の蘇生に、そして人の心の復活に、私もまた県民の一人として取り組んで参ります。

(『月刊 自由民主』8月号から転載/広島県立広島国泰寺高校・広島県立広島第一中学校、東京同窓会会報『東京鯉城』(99.12.15 No.52)より再転載)


【保管ファイルNo.13】佼成新聞 99.12.17 & 00.1.14 より

老いの風景 茅葺きの里から[京都 美山町]

日本支えてきた先輩たちの背骨あぜ道診療で元気確認

 北山杉が幾何学的な直線美を描く山あいを抜ける。京北町、そして美山町と続く。福井県若狭と結ばれる国道162号は、かつて鯖街道と呼ばれ、鯖を担いだ若狭の商人が京に通った道だ。今はトンネルがいくつもでき、トラックや乗用車がびゅんびゅん走る。

 京都府美山町はその名のとおり、美しい小山に囲まれた町だった。由良川(通称・美山川)の上流には西日本最大級の芦生原生林を有する。三方を山に囲まれた段丘に、入母屋作りの茅葺き民家が並ぶ。丘陵には棚田が、これまた幾何学的な美を見せ、まるで「日本むかしばなし」の世界に入り込んだような気分になった。

 昭和55年に一万人を超えた人口も現在約5,600人。高齢化率は約30%。過疎と高齢化が進む典型的な山村だ。

 収穫期。コウベを垂れた黄金色に色づく穂を手で刈るおじいちゃん、おばあちゃんたちの腰は、折れ釘のように曲がっていた。これがまた、じつに農村の風景に味を加えている。 茅葺き屋根の郷土資料館に入ると、館長の中野文平さん(60)が地場産の野草茶を入れてくれた。「昔は街道沿いで行き倒れが出たら救う決まりがあった。働き手がけがや病気で亡くなったら村の責任で遺児を育てる風習もあった。今みたいな水くさい世の中とちゃうな」。

 夕暮れの田んぼで働く老夫婦の姿を見つめながら、そんなぬくもりが、今も生きているように感じられた。

 観光客がお目当ての茅葺き民家群の一軒をのぞくと、電灯のもとでミシンを踏む老人の姿があった。「年金だけではやっていけんわな」と80歳の男性は言う。大手メーカーの布団袋を作る内職をしていると聞いて、驚いた。工賃は一枚130円。一日十枚作るのが精いっぱいだ。17年前に妻を亡くし、農地を手放した。「一人でやってもつまらん」。子どもたちは京都へ。今ひとり暮らし。

 美山町の老人たちは、じつによく働く。過疎に悩み、末期的な症状を呈していた日本の山村は、バブル期の「村おこし」で決定的に崩壊したかのようにみえる。金の使い道がわからない地方自治体は、だれも寄りつかないような反近代的な建造物や公園を造り、都会と何ら変わらない風景を人工的に造りだしてきたが、美山町の場合はちょっと違う。

 町ぐるみで茅葺き民家の保存を行い、町並み保存地区に指定された。看板も自販機も自粛。コンビニもない。ゴルフ場、パチンコ店も造らないという条例もある。かけがえのない自然や豊かな生活がほんのわずかな欲望で姿を消すことを、村人たちはちゃんと知っている。畑に農薬をまいたら田んぼの稲が倒れた。「人間が食べる物に、こんな物騒な物を使うのはやめよう」と、昔ながらの農法をお年寄りたちは守り続け、稲も手で刈る。

 以前この欄で報告した沖縄県竹富島が海の楽園とすれば、この美山町はさしずめ山の楽園とでもいえそうだ。

「勲章や」

 キビ工房では平均年齢66歳の男女14人がダンゴ作りに精を出す。最高齢は80歳。キビで村おこしを、と8年前に町の補助金を得て始めた。シルバー産業といってもよい。「働きがいは生きがい」と代表の中野幹子さん(64)。キビダンゴは、週末に茅葺き民家を見学に来る観光客に提供する。村おこしとお年寄りの働きがいをリンクさせたため、民宿や食堂も増え、雇用創出につながった。

 それまで家で内職している人ばかりだった。「ここで交流でき、ストレスも解消される。お客さんとのつながりも楽しくて。きょうは何しようという人、おらんですね」と最年少の中野秀代さん(57)は言う。いずれもおヨメさんとして寝たきりの義父母を看護して見送ったり、あるいは現在介護している人ばかり。

 山あいには大小57の集落が散在する。必ず道沿いには無人販売所が置かれ、早朝畑でとれた新鮮な野菜が並ぶ。ナス、ピーマン、ネギ、サツマイモ…。「種代くらいにはなるで」と腰の曲がった80過ぎのあおばあちゃんが野菜を並べていた。「折り紙、くす玉作り。ボケヘんようにしとる。お金の工面せんのが一番ボケへんわ。ハッハッハ」。五反ほどの畑を毎朝手入れするのが楽しみだという。「戦争じぶんは豆をつぶしてご飯に入れて食べた。若い子ら、ようわからへん。ほんま苦労してな……。今はもったいないくらい幸せな時代じゃ。」地面に顔がすれるほど折れ曲がった腰で、おばあちゃんはトボトボ畑に向かった。

 なぜか、折れ釘のように腰の曲がったお年寄りばかりに出会う。美山町は96%が山林。崖農業が多く、何十年も地を這うように働いてきた人が多い。腰の曲がりは年輪である。編み笠をかぶり、もんペ姿のおばあちゃんがどっかり地面に座った。「40の時、夫を亡くしてなあ。百姓と内職で四人の子どもを育てたわ。60から体が痛んでなあ。話にならんほど苦労しよったからなあ」。

 「これは勲章や」早川一光さん(75)は、皮膚を突き破るようにグイッと出っ張った背骨を、そっと撫でる。「苦労したんやなあ」。今春まで早川さんは京都市内の堀川病院顧問だった。三月に辞任、四月からは一医師として美山町で往診を始めた。美山診療所所長。京都西陣で往診医療を開拓し、「わらじ医者」として知られる。

 「ひもじい戦前、戦後、親は我慢して子どもに食わせ、歯を食いしばって生きてきた。そういう人たちが今、老いを迎えている。折れ釘のように腰を曲げた患者さん、泥の中に手を入れて、腰を曲げて働きに働いてきた。日本を支えてきた先輩や。だれのために医療をするか。もうはっきりしとるで。この背骨に支えられてきたんや」

 沢沿いにポツン、ポツンと建つ民家。「おーい、来たぞー」。ちゃぶ台には診療代、薬代が、釣り銭もなく、ぴったり置かれていた。早川さんの往診を今か今かと待っていたことが伝わる。88歳のおばあちゃん。車いす生活だ。早川さんは満面笑みで手をぎゅっと握りしめる。ぱっぱっぱっと、手際よく、診療。「具合はどうですか?」と私が問うと、「診とらんわ」と早川さんは半ば冗談で答える。「元気に生きとる、それを確認して回っとるんや。50年も医者しとると、指先は血庄計、手のひらはエコー(超音波)の枝(端子)になっとるでえ」。

 仲道こぐめさん(85)の自宅前にはタクシーが止まっていた。京都市内で個人タクシーの仕事をする息子さんが、老夫婦二人の様子を見に来たのだ。稲刈りの時期で、こぐめさんと息子さんは畑に出かけ、家の中にはおじいちゃんが一人テレビを見ていた。どの家もそうだがチリ一つ落ちておらず、たたずまいは簡素だ。看護婦さんが、「先生、こぐめさん、田んぼにおるでえ」。急きょ、田んぼへ。

 「おばあ、脱ぎ。お乳だせ!」と早川さんは、こぐめさんを診察し始めた。血圧、内診。 「これ、職場検診、あぜ道診療と言うとるのや。田畑はおばんやおじんにとって立派な職場やで」。

 こぐめさんは典型的な農民だった。地下足袋を履き、節くれ立った手で稲を刈り、生活を支えてきた。田んぼは四反あったが、88歳になる夫の体の調子が悪いので、「今は二反だけや」と笑う。

 「ようおいでなす」。相模コマさん(78)の腰も折れ釘だ。「ほら、触ってみい」。早川さんの言葉に私もそっと撫でさせてもらった。骨の硬さが伝わってきた。自転車で接骨院に行って来たというコマさんは、夫・篤太郎さん(84)と二人暮らし。篤太郎さんも病気がちだ。

 夫病み 同じ病で見る妻も 苦しき中に 笑み浮かベ

エネルギー

 午前中だけで十軒。山道を登り、沢沿いを走り、農家の玄関先にぱっと姿を現す。正義の味方、月光仮面ならぬ、早川一光参上といった感じだ。しかも颯爽とした白衣姿。なぜ、往診を重視するのか。早川さんの答えは至って明快だ。

 診療所までお年寄りに足を運べというのは無理である。だから医者のほうから出向く。それを「出っ張り医療」「出前医療」と早川さんは言う。「往診ルートは病院の廊下やな。町全体が大きな病院やから、自動車で行くだけのことや」。

 とくに終末期医療では、患者や家族との人間関係が重要であり、これといった治療はしなくても何年、何十年という人間関係の積み重ねをベースに、早川さんが言う「合点」、つまり最期を迎える時の納得が生まれるのだという。

 「臓器を診るより、人を見よ。人間とは一人ひとりの間柄、その間に流れる気の交流が大事なんやということを、私は患者さんや家族から教わった。目に見えなくても流れるもの、病気、元気、人気、殺気、……この気。エネルギーやな。

 「網の目が大事ですよ。キズナといってもよい。ひとり暮らし、ええやんか。近所、地域、自然と切れていなければ、人間です。でもな、家族と同居しながら隅っこに孤立させられたら本当に孤独、独り暮しやな。だれの世話にもならないというのも思い上がり。人間は一人では生きられまへん。間柄を大切にしていく。これが理想的な老い方やと思う。薬を手渡し、変化があったら連絡するように念を押し、次の家へ向かう。

“先端”医療

 高度先端医療に対し、老いに寄り添い、死を看取る医療を続けてきた早川さんは、懐疑的である。真の医療とは何か。京都での路地裏診療を50年続けながら摸索してきた。

 歯が抜けるのは、生まれた赤ん坊に還えるから。食べてよい物だけ食べなさいという信号だ。早川さんが診てきた多くのお年寄りは、食事の時ほとんどが入れ歯をはずす。

耳が遠くなるのは、嫌なことを聞かなくてすむように。曲がった背骨を見ながら早川さんは思う。「自然やなあ。現代医療、先端医療は人工骨入れて真っすぐにしてしまう。でもねえ、かがめなくなります。落ちた物も拾えへんわ。そういう体にして治ったという医者は、いったいどこを診ているのか。骨を診て人を見ていない。曲がるベくして曲がった、草を取るために、落ちた物が拾えるように。それが正常や」

 「臓器の入れ替えもそうや。切って切って切り張りし、延命させる。苦しくても、もがいても、心臓の鼓動を続けさせる。移植後、患者さんがどのように余生を生きていけるか、そこまで医療はフォローできるか。心臓の入れ替えだけならパンク修理とあまりかわらん」本当の医療とは?

「施設のなかで時間を決められ食事をし、リハビリをし、体操をし……ではいけない。仕事をすることや、それが本当のリハビリ、暮らしの中に、医療が溶け込むような仕組みを作り出すことが一番大事なんや。これが本当の先端医療やな」

 あぜ道診療を終えた早川さんは、ふと遠くを見つめた。田んぼの上にはアキアカネが飛ぶ。全山は紅葉を迎えていた。「あぜ道じゃなく、田んぼの中に入って診ればもっと先端やねえ。」

「こここそ終の棲家や」荷を分け合い共に歩む

 老朽化した町役場とは対照的に、去る11月にオープンした真新しい診療所。この二つの落差が美山町のポリシーを感じさせる。京都府内でもとりわけ進む過疎と高齢化を前に、医療と福祉を最優先させるという町の姿勢に早川一光医師(75)も共鳴した。京都市内から週二回、山あいの道路を車で飛ばし、往診に通う。早川さんは戦後、京都・西陣で医療活動を開始した。貧しい人々が医師にもかかれず苦しんでいた。早川さんが「町衆」と呼ぶ西陣の住民約800人は、自主的に5円、10円と貯め、ついに3万5千円ほどの資金になった。七円の素うどんすら食べずに、そのお金を貯めて町衆の命を救おうという意気込みに、外科医を目指す医学生だった早川さんは胸打たれた。町衆が主人公の診療所に勤務することが、早川医師の出発点だった。

 「夜中でも朝方でも、お呼びかかかったら、枕辺にスーツと菩薩さんのように行く。知識じゃない、体がスーッと動かなきゃアカン」そういう姿勢で医療活動をする早川さんは、病院というハコの中ではなく、医者自身が患者の現場に出向く往診こそ医療の本領と考え、往診カバンを抱えて路地裏診療を続けてきた。その50年の臨床の蓄積が、美山町の往診医療のベースにしっかりと横たわっていることも、見逃してはならないだろう。

 「おーい、来たでえ。元気かー」。その日も、早川さんの元気な声が、美山町の山間部にこだました。「48歳から独身どすわ」という川勝輝太郎さんは93歳。調子のよいときは杖をついて外のトイレに自力で行くが、その日は寝たまま早川さんの診寮を受けた。67歳の長男が、稲刈りをまかされ、ときどき輝太郎さんの様子をのそく。93歳とはいえ、食事も掃除も自ら行う。畑の畝を真っすぐにしないと気に入らなかったが、87歳から畝を真っすぐ作れず引退。「もう楽しみ、ありまへんわ」と寂しげだ。奥さんと早くに死別し、息子家族と暮らす。八人家族の長老。「家族に大事されるから幸せやな。おじいちゃんは扇子のカナメや」と早川さん。

弱音にカツ

 次の往診先、大秦利枝さん(79)宅には近所から二人のお年寄りが訪れ、さながら即席の診療所という風景だ。

 「山の中なので、足もなく、診療所まで行かれんでね。往診は助かります」と大秦さんは言う。近所の女性(71)は夫を12年前になくし、子どもがなく、ひとり暮らし。心臓、胃、血圧が心配だという。わずかな年金では十分ではなく、新聞配達のほか土日には料理屋さんで賄いの仕事をしているという。81歳のおばあちゃんも、ひとり暮らし。みんな野菜作り、花作りを生きがいとしている。

 職を辞め、日中はひとりぼっちだった義母に付き添う嫁さんは、小姑との人間関係で悩んでいる様子。往診が終わると、庭に出て、その嫁さんの愚痴を聞くのも早川さんの仕事だ。「たまにはガス抜きせなアカンで」と、早川さんが近々催す卜―クショーに誘った。

 「長生きしとるのが悲しい」「空気吸いとうない」なんて弱音を吐く老人にはカツを入れる。「なに言うとるねん」その男性は86歳。海軍兵で中国戦線も経験した。「戦争のようにバーンと死にたい」と言う。58歳の息子さんは近くの工場に勤め、日中は一人で過ごす。広告の裏にはマジックで「めしたくヒル」「クスリノムアサ」と書かれたメモが壁に張り付いていた。

 早川さんが定期訪問する患者の数は80人。通院が困難な寝たきり、あるいはそれに準ずる状態の人が基本条件だ。「畑も立派な職場やでぇ。あぜ道診療は、職場検診や」近所の人が一ヵ所の家に集まって診察する場合、その家の人は訪問診察、他の人は外来診察と考えればよい。山村にバス路線を増やしても赤字になるだけ。しかしバスがないと診療所にも行けない。そういうジレンマを解消するのが往診だ。通院できる人、訪問医療に該当する人、しかしどちらにも該当しない農作業ができる元気な人、それらすべての人の老いを支える。これが巡回診療の本意である。巡回車は救急車で、中には薬や酸素ボンベなど医療器具もそろっており、診療所の設備に劣らない。

キズナの力

 美山川に沿って、上流の芦生原生林近くの佐々里という集落に向かう。12軒の小さな農村地帯だ。

 「どや、痛いか?」65歳の患者はじっと早川さんを見つめ、首を横に振り、わずかにほは笑む。4年前に肺がんの手術をしていったんは復帰したが、平成11年2月にMRI検査をしたら脳に転移していることが分かった。家で最期を迎えたいとの思いから68歳の夫が四六時中、ベッドサイドに付き添う。

 私たちが訪れたとき、ご主人は妻のベッド脇の畳の上で寝ていた。病院で苦しんで亡くなる人を見たのも、在宅を選んだ理由だ。さわやかな笑顔でご主人は私たちを迎えてくれた。早川さんに言わせれば「達観の姿」だという。

 7月まで夫とともに畑に出て、弁当まで作ってくれた妻が、うつろな眼をしてベッドに横たわる。声も発せられなくなった。2ヵ月前から夫は仕事を返上しベッドサイドにつきっきり。免疫力が落ち、頭部にはヘルペスができていた。野菜はあるが、魚不足。若狭から売りに来る移動店舗で魚類を買うという僻地なので、妻は15年前から農作業の合間を縫って食堂も営んでいた。

 私が驚いたのは、痛み止め、つまり末期がん患者の緩和を促すモルヒネの投与が全くなかったことだ。早川さんも痛みの少なさに眼を白黒させている。

 「須田はん、見なはれ。これやで」早川さんが、ふすまを開けた。立派な神棚の上には日本国憲法が表具張りにされ掲げられていた。その左側は大きな仏壇。早川さんは、さっと縁側の戸を開けた。「これ、見てみい」。美しい山々。沢のせせらぎ。さわやかな秋風。ご主人が精魂込めて手入れする箱庭のような整然とした畑が、絵画のように私の眼に飛び込んできた。イノシシ、シカ、サルを避けるための囲いが張り巡らされた畑だ。そこで採れたトマトを妻は好んで食べた。「この自然環境、家族の支え。こここそ、おばちゃんの終の棲家や」と早川さんは力を込めた。仏間の真ん中に置かれたテーブルに可憐な野花が一輪。ご主人がさしたものだ。

 いざというときのために、酸素吸入器と呼吸器を枕元に置き、使い方も伝授した。末の息子さん(30)が京都市内の勤め先の会社に事情を話したら、一ヵ月の休暇を与えてくれた。介護を父親だけに任すわけにはいかなかった。

 早川さんは言う。「自然の心地よさ、おいしい果物や野菜、家族のキズナ、心配して入れ替わり訪れてくれる近所の人々の心、そしてわれわれのチーム医療……そういうキズナという網の目が、痛みを少なくしているように思うんや。環境ホルモンやな」

 早川さんは、死にゆく人と荷を分け合いながら、ともに胸突き八丁を歩むという願いを家族に託す。この患者さんの場合は、早川さんが予測した臨終の日から一週間、二週間たっても、その日は訪れなかった。「人は余命だというが、私がはずれた。本命なんやなあ。はずれたのは初めてやな。みんなの力や」。私たちが伺った日から二週間後、安らかに亡くなった。

 患者は永久に、医師にとっての教師だと早川さんは思う。「ホスピスは家にあり。一つ一つのキズナが最期の、シンフォニーを奏でる要素や。一つ欠けても不協和音になってしまう。基本的にコンダクターは医師だが、人間的に優れていれば家族でも、近所のおばさんでもよい」。「老いやボケは病ではありまへん。正常な営みや。死なない人間はおらんのだから。つまり医療で人間は治らない」という持論を持つ。

生涯一医師

 毎週土曜日の早朝は二時間の大型ラジオ番組「早川一光のばんざい人間」(京都放送)のパーソナリティーを務める。11年にわたる長寿番組で生放送。スタジオは、早朝から早川ファンですし詰め状態。平均年齢70歳。お年寄りパワーがみなぎる。同局オリジナルの「ボケない音頭」では一緒になって踊り、指揮棒を振る。まるで忘年会のよう。

 放送中のニュースで「77歳の双子、介護の妹急死、姉も餓死」という痛ましい事件に、すかさずコメント。「向こう三軒両隣の心が消えとるんやね。心を配ると書いて心配や。元気かどうか確認し合う、心を配り合う、これが高齢化と言われる現在、そして将来、とても大事なこと、キズナやな」。

 点滴をやって、ひと月、ふた月と生き延ばしたところで、その患者を救ったことになるのだろうか。苦しめたにすぎないのではないか。臨床経験50年、とりわけ死の現場に立ち会ってきた早川さんの問いかけは重い。「先生がそばにおるだけで安心して死ねる。看護婦さん、あなたがおるだけで痛みが取れる。そういう寄り添いができれば最高やな。」

 呼ばれる前に枕辺に医師や看護婦が行くとは、そういう寄り添いを可能たらしめる必要条件だと早川さんは力説する。そして、最期のステージのために演出を伝授する。「別れの幕引き」こそ医師の仕事だ、と早川さんは力を込める。

 「預金通帳でなく、嫁はんの手を握りしめて逝く。おおきに、いうてな。小姑も嫁はんに頭があがりまへんで。三回忌、七回忌、三十三回忌になっても小姑さんだって、あのときはお世話になりました、言うで。「今度は自分が手を握る番になってるわけですけどな。今度は自分があのおばあさんのように息を引き取りたいと思うて生きてきた、おばあさんが遺したすばらしい財産ですな。土地や家やお金と違う。火事にも焼けず、地震でもつぶされない、泥棒にも税務署にも取られない、心という財産です。

 臨終間際、早川さんは主人公である老人を隣の部屋でじっと見守る。「囲むのは家族、『上手に最後、やりなはれ』と念じる。おばあさん、手を差し伸べた。『世話になったな』と小姑の手を払いのけ、嫁はんの手を握った。そのとき、医師の胸はじーんとくる」。

 「これがワシの仕事やな。臨床医としては最高に難しい」そういう演出ができる看護をしてもらいたい、と早川さんは願う。月一回、第一土曜日の夜、京都市竜安寺の自宅は、ふすまがはずされ、教室と化す。「看護職を考える会」を主宰し、現場から学んだことを看護婦の卵たちに伝えてきた。医療技術論ではなく、心の通ったキズナを築く医療を築くために早川さんは美山町で求道を続ける。むろん後継者育成、世論喚起のため、75歳の今も現役医師として現場を持つ傍ら、月に二十回近くにおよぶ講演も引き受ける。

75歳の今なお、生涯一医師として地を這うように生きる早川さんの前向きな姿も、お年寄りの活力になっているのに違いない。                    (須田 治)

*******

追録 00.5.1 AM0:25 日本テレビ ドキュメント'00

『おーい元気か!京都76歳医師の挑戦』として放映された。番組の最後で往診を終えて出てきた早川さんの「暮らしの中に医療を見つける。暮らしの中に福祉を見つける。行って見ないと何も判らない。」と語る言葉が印象的であった。


【保管ファイルNo.14】

レーガン元大統領の書簡

 米国のロナルド・レーガン元大統領は1994年11月5日、自分がアルツハイマー病に侵されていることを、国民への書簡で公表した。

「アルツハイマー病に侵された人々やその家族への理解が進むように望んでいる」そう83歳の元大統領は語った。書簡は世界中に打電された。敬意をもって全文を再録したい。

TEXT OF REAGAN LETTER

  My fellow Americans,

  I have recently been told that I am one of the millions of Americans who will be afflicted with Alzheimer's disease.

  Upon learning this news, Nancy and I had to decide whether as private citizens we would keep this a private matter or whether we would make this news known in a public way.

  In the past Nancy suffered from breast cancer and I had my cancer surgeries. We found through our open disclosures we were able to raise public awareness. We were happy that as a result many more people underwent testing. They were treated in early stages and able to return to normal, healthy lives.

  So now, we feel it is important to share it with you. In opening our hearts, we hope this might promote greater awareness of this condition. Perhaps it will encourage a clearer understanding of the individuals and families who are affected by it.

  At the moment I feel just fine. I intend to live the remainder of the years God gives me on this Earth doing the things I have always done. I will continue to share life's journey with my beloved Nancy and my family. I plan to enjoy the great outdoors and stay in touch with my friends and supporters.

  Unfortunately, as Alzheimer's disease progresses, the family often bears heavy burden. I only wish there was some way I could spare Nancy from this painful experience. When the time comes I am confident that with your help she will face it with faith and courage.

  In closing let me thank you, the American people, for giving me the great honor of allowing me to serve as your president. When the Lord calls me home, whenever that may be, I will leave with the greatest love for this country of ours and eternal optimism for its future.

  I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life. I know that for America there will also be a bright dawn ahead.

  Thank you, my friends. May God always bless you.

  Sincerely,

  Ronald Reagan

(木下仮訳)

私の同胞、アメリカ人へ

 私は最近、私がアルツハイマー病のため苦しんでいるであろう数百万人のアメリカ人のうちの1人であると告げられました。

 このことを聞いて、ナンシーと私はこの「私的なこと」を私的な市民として黙っているか、または「公的なこと」として知らせるかどうかを決めなければなりませんでした。

 過去にナンシーは乳ガンを患い、私は癌の手術を受けました。私達は私達の公表を通して(ガンについての)世間の関心を高めることができたことを知っていました。結果として、多くの人々が検査を受けに行ったことが私達には幸いでした。彼らは初期の段階での治療を受け、通常の健康な生活に戻ることができました。

 それで今回も私達は、それ(アルツハイマー病)をあなた達と共有することが重要であると思います。

 心の中を打ち明ければ、私達は、これがこの(アルツハイマー病の)状況についてより大きな認識が促進するであろうことを望みます。たぶん、そのことは、それ(アルツハイマー病)に冒されている個人や家族へのより明白な理解を促進するでありましょう。

 今、私は全く元気です。私は神がこの世で私に与えてくれる残りの年をこれまでしてきたことをしながら送るつもりです。私は最愛のナンシーや家族とともに人生の旅をともにしてゆき続けるつもりです。私は雄大なアウトドアを楽しみ、私の友人や支持者達と連絡しあっていこうと計画しています。

 不幸にして、アルツハイマー病が進行すると、家族はしばしば重い荷を背負います。私はナンシーがこの痛ましい経験に会わないようにする方法があることのみを希望しています。私はその時(死)が来た時、あなた方の助けによって彼女は信仰と勇気によってそれ(私の死)に直面することを確信します。

 最後に私は、大統領として奉仕する偉大な名誉を私に与えてくれたあなた方アメリカの人々に感謝します。神に召される時には、それがいつであっても、私は私達のこの国への大きな愛と、この国の未来への永遠の楽観とともにこの世を去るでしょう。

 私は今、私の人生の黄昏に至る旅に出かけます。私は、アメリカにとって、前途に輝かしい夜明けがあると思います。

 ありがとう、私の友人たちよ。神の祝福があらんことを。

敬具

ロナルドレーガン

 

「史上最も偉大な米大統領」 レーガン氏選ばれる        (01.02.20 読売新聞)

【ワシントン19日=柴田岳】米ギャラップ社が米国民の祝日「プレジデンツ・デー」(2月の第3月曜日、今年は19日)に合わせて発表した恒例の世論調査によると、「史上最も偉大な米大統領」に、レーガン氏が回答者18%の支持を得て選ばれた。2位はケネディ(16%)、3位はリンカーン(14%)。

 レーガン氏は昨年調査ではケネディ(1位)らに次いで4位だったが、米国では昨年から、東西冷戦に勝利し経済繁栄の基礎を築いたレーガン氏の功績に対し、新たな伝記が発刊されるなど再び注目が集まっている。共和党のブッシュ新政権も、レーガン時代を連想させる大型減税や国益重視の外交方針を掲げた。アルツハイマーで闘病中のレーガン氏は、1月に自宅で転んででん部を骨折し、手術を受けたが、無事退院。今月、90歳の誕生日を迎えた。ギャラップ社は、こうした一連の報道の直後に調査が行われたことも、レーガン氏の高支持率回復につながったと分析している。


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