読売新聞 平成9年6月9日

東京伝説 

カスリーン台風

上空から見た葛飾区内の浸水状況(葛飾区郷土と天文の博物館)

 葛飾区立石で飲料水の配給に集まった人たち
 濁流はついに、埼玉県大利根町にある利根川の堤防を突き破った。9月16日午前0時25分頃だったという。埼玉東部の人家や田畑をのみ込みながら、濁流は45Kmを南下し、葛飾区の北端にある桜土手に押し寄せてきた。

 敗戦から立ち上がろうとする日本を、大型の台風が相次いで襲った。今から50年前の1947(昭和22)年9月。利根川上流部に空前の大雨を降らせた「カスリーン台風」も、その一つだった。

 旧利根川の堤防だった桜土手に押し寄せる濁流を前に、土のうを積む必死の作業が続いた。せき止められた水を放とうと、江戸川堤防の爆破も試みられたが、失敗に終わる。

 19日午前2時20分。桜土手は決壊し、低地の葛飾、江戸川両区の大半と足立区の東半分が浸水する。都内での床上浸水家屋は73,000戸近くに達した。

 「牛馬の死がい、根からもがれた桜の木、かやぶき屋根の家……。何もかもが流されてきました。」桜土手が切れた所からわずか100m西に住んでいた葛飾区東金町の古宮錦雄さん(78)、その激流の光景を語る。家はあっという間に浸水した。古宮さんは、わが家を見下ろす桜土手にトタンで小屋を建て、荷物運び上げる。水かさはどんどん増し、家々は、屋根が顔を出すだけになった。「(広島の)宮島みたい。」と悪い冗談を言う人もいた。

 困ったのは飲み水だ。周りの泥水は飲めるはずもなく、杉皮でこして飲んだ。軒下につるした田舟や自家製のいかだで、高台の神社まで水をもらいに行く人もいた。「やかん一杯の水を十円で売る、たくましい人も現れたといいます」

大洪水が生んだ結束

 江戸川区船場の木本順司さん(88)は「町会は戦後解散させられ、住民の数すらよくわからなかった」と話す。洪水を機に非公式に自治会が結成され、救援物資を分けた。寺の住職だった木本さんは、自主的に生まれた青年団が本堂に集まり、町の復旧を話し合う姿を思い出す。「国が類りにならない時代でした」


横田さんが描いた当時の街のイラスト
 葛飾区東立石の横田実さん(73)は、配給の手帳に万年筆で、水と闘った一か月を記した。上平井小の二階には1,600人が避難し、教室は満員に。横田さんは、七輪で暖を取る人々の様子をスケッチに残した。「当時は食べ物にも事欠く時代で、皆で助けあったものです」一つの布団に三人が眠り、残り少ないカンパンを分けあった。

 江戸川区の教育課長だった中里喜一区長(84)は振り返る。「地域の結束力が試された出来事でした。あの苦難を忘れるべきではないでしょう」

 

薄れゆく住民の治水意識、今起きれば15兆円の被害

 あれから五十年。国は、利根川の上流部こ十か所のダムを造り、治水事業に一兆円以上をつぎ込んだ。大洪水なんて、もう起こらないのでは。そう思う人も多いかもしれない。だが、今もし、カスリーン台風の時と同じ量の雨が利根川上流に降ったらーーー。当時の1.25倍の555平方Kmが浸水し、被害総額は15兆円に達すると建設省は試算する。上流部の市街化と流域人ロの増大が、当時より大きな被害を招くというのだ。

 新潟大工学部の大熊孝教授(河川工学)は「川のはんらんを完全に防ぐのは不可能」と断言する。「心配なのは、治水を国任せにするうちに、人々が川との付き合い方を忘れつつあるのではということです」

 五十年前、暮らしに息づいていた、洪水に対処する知恵は失われていはしまいか。堤防は頑丈で、コンクリートの護岸が築かれた川は、我々から遠い存在になってしまっていないか。大洪水の中で、住民が結束していく姿を覚えている木本さんは結ぶ。「我々で町を守るんだ。その気構えだけは、いつまでも失わずにいたいものです」  

小坂 剛


カスリーン台風

 47年9月14日から17日にかけ、紀伊半島沖から房総半島沖を通り、三陸沖に抜けた。上陸こそしなかったが、秋雨前線を刺激し、秩父で611_など関東周辺の山地に蒙雨をもたらし関東を中心に死者・行方不明者1,930人という大水害を引き起こした。


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