映画館がやってきた! ドラマ鑑賞記

アルジャーノンに花束を

DATA: 2002/10/〜12/ , フジテレビ 火10 (全11→10回), 平均視聴率 10.8%
キャスト:藤島ハル/ユースケ・サンタマリア,遠矢エリナ/菅野美穂,他
スタッフ:

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 サイコSFの傑作『アルジャーノンに花束を』を原作とするが、換骨奪胎。
 「知性とは何か」を追求した原作を「障害があっても愛があればハッピー」 に書き換えた噴飯もの脚本で原作ファン激怒。

Story&感想

■第1話[2002.10.9]

 最近とり・みきのSFをパロディーにしたマンガ「SF・大将」を読んで、 その中のネタ、「アルジャーノンに花束を」の文庫を妻が読んで感動して いたところ。不思議にgoodタイミング。
 ただし、見るまではタイトルだけ借りたメロドラマかなんかやるのだろうと 漠然と思っていたが、どうやら、真面目に日本を舞台に置き換えたドラマ化 のようだ。書店を見ると「原作本」として、大量に並んでるし。

 若手俳優を適当に混ぜるという配慮や、男女比をドラマ的にする(原作だと 男ばかり多い)などの配慮からか、原作とは違う登場人物もあちこちにあるけれど、 第一話には、本質を損なうほどの改変は無かった。
 原作は主人公チャーリー・ゴードンの経過報告書の体裁の一人称物語だが、 それでドラマを作るのは困難だからか、報告書の体裁はとらない。
 物語が進行する 時勢も、原作は「研究所で報告書を書かされた時点」に始まって、徐々に過去を 思い出しながら遡るラインと、知能が向上する現在のラインの双方向に進行するが、 ドラマではハル(原作のチャーリー)が、パン屋で虐められているところ、 知恵遅れの教室で先生が好きだというところから始まっている。(原作では徐々に 思い出す過去を最初に見せている)
 これは、「報告書」の体裁を取らないため、必然的に変更された部分だと 思うが、ドラマとしてすんなりと状況が把握できて意外に成功している。 違和感も無い。
 冒頭出てきたユースケ・サンタマリアの子役が、いい按配に似ていてボーっと している。笑ってしまった。お母さんはいしだあゆみで、その痩せぎすなところは、 原作どおりかな。
 菅野美穂は学校の先生。原作でも重要な役所で、生徒に対する真剣な感じは 結構良いんじゃないか。
 主人公・ハル(チャーリー)のユースケ・サンタマリアは、もともととぼけた役者だが、 馬鹿役も違和感無くこなしている。
 大学の研究室で「僕は頭が良くなりたい」というシーンでは正直涙が出てし まったぞ。

 原作読者的には、親方が女なのと、パン屋にもう一人女の知的障害者がいて ハルのお友達という設定が、ちょっと心配。
 改変部分が物語りにどのような影響を与えるのか考えてみよう。
■原作登場人物の対応
■変更点
 女になったパン屋の主人は主人公ハルの味方ではあるが、理解はしていない という様子でその上行動に一貫性が無い。彼女の行動は原作には無い部分なので、 脚本家が馬鹿なのかもしれない。
 原作に対して、女が三人も増強され、主人公の恋敵まで用意されていることには いや〜な予感がする。原作に無い恋愛のドロドロを勝手に追加されたら、 確実にメインテーマの「知能を獲得することによる世界の変化」を描写する 時間が食われるわけだから。
 女の知的障害者まで用意されているのは、主人公と先生の三角関係にさらに からむ可能性もある。
 すでにハルは先生が婚約指輪をもらうのをナチュラルに妨害していて、 男が怒り出すのは時間の問題という情勢。
 嫌な予感がする。改変しまくりで、ただの恋愛ドラマになったアルジャーノン は見たくないなぁ…、恐ろしいぞ。
@ローンのCMだけは勘弁して
 涙物の知的障害者の演技の直後に同じ役者が「あ〜っとその時!」はね〜ダロ。
 それでなくても顰蹙CMなのに、番組ぶち壊しだよ、スポンサーにとっても大マイナスだよ。 それぐらい考えろよ〜。

■第2話[2002.10.]

 今週は先生がハルのお母さんに手術の同意書をもらいに行って、彼女が息子を捨てた 理由を聞くのが山場。そしてハルが手術室に向かうところで次週。
 手術に関する医師の過大な自信が、そこはかとなくこの先の不幸を匂わせる。 (原作の医師は、これが賭けであり失敗したときのリスクの大きさもきちんと 示しているのだが。)

 原作では母はすでにボケていて、手術の同意書は妹が書くことになっているが、 ここで母を出してしまったということは原作終盤で主人公(チャーリー)が母に合いに行って すっかり正常な意識を保っている事が難しくなった母と対面するシーンなんかは 削除されるってことなんだな、きっと。
 しかしここで新たに追加された母の語る過去の物語、いしだあゆみの長台詞は 聞かせどころだ。障害を持つ親の悲しさがたいした迫力で語られる。
 原作ではここは、チャーリーが過去の記憶を発掘する作業の過程で語られる 内容だが、悪くない。もちろん、1-2話で原作では手術後に語られる彼の心の 動きを示すエピソードを先に出してしまっているので、この先が薄くなりそうな 気はするが、語るべきエピソードはたくさんあるので、この方が良いのかも。

 原作に無い「先生の恋人」は、最終回までハルに積極的にかかわらない限り、 有効かも。
 何故なら、原作では「幼児期の性的抑圧と不能の関係」を中心テーマといって 良いほどみっちり取り上げていて、先生はチャーリーの恋人として関係をシフトさせる が、ラストには彼を捨ててしまう。
 原作の彼女は「結局自分視点の女で、一般人としての限界も持つ」という イメージしかなく、何故チャーリーを捨てたのか説得力に乏しく「ただの女」と 思わせる。
 一方、このドラマの先生は恐らくハルと性的なかかわりを持たないだろうし、 献身的で天使のような人と設定されているから「ラストで社会から 隔絶された施設に去っていくはずのハル」と別れるには、個人的な関係を持ちすぎず、 こちらの世界には心理的な重石が必要だろう。
 その為に、婚約者が居るという設定はうまく使えば生きると思う。
 彼女が何故これほどまでにハルに肩入れするのかも、徐々に説明されてきている。
 女性の描写に限って言えば、「フロイト的」に過ぎる原作と比較してずっと 説得力のある泣けるストーリーになりそうな予感。
 TV的な脚本の再構成も、人間関係の整理も予想以上に上手く行っている。
 最終回に向けての流れに、大いに期待を持たせる第2話だった。
 あとは、パン屋の女主人と店員たちが今後余り大きくかかわらないのを祈るのみ。
 ユースケの演技は、イマイチだと思うが、天才モードを待とう。

■第3話[放送日]

■第4話[放送日]

■第5話[2002.11.7]

 徐々に知能が増して、パン屋で虐待されることに耐えられなくなって、保護者に、 我慢できないならば出て行けと言われちゃう。

 最初から謎なのだが、保護者のパン店主は「私がこの子を守る」とか言っている 割には、店員による虐待を黙認しているのは、いったい何だ?
 毎回粉袋を抱えたハルを転ばして小麦粉をぶちまけているので、いじめっ子が店に 与えている金銭的な損失も馬鹿にならないはずだが、お咎め無し。
 馬鹿は健常者の玩具で良いと思っているのか? TV局に抗議があってもおかしくない位 矛盾したキャラクターじゃないか、あの店主。
 脚本がどうなっているか分からないが、店主の描き方は演出上の大間違いがある と思う。
 原作でも店を出る主人公だが、原作では店員の代金ちょろまかし事件を店主に 告発するかどうかで人間関係がこじれることになっていて事態はもっと複雑で、 「虐める相手がいなくなって気分が悪い」なんて、単純な理由ではない。
 せっかく舞台を現代日本に移したのだから、もう少し腑に落ちる成り行きで 店を出ることになってもいいのではないだろうか。
 さもなければ、最初から店主をもっと主人公に対する愛の無い、愚鈍な人間に 描くべきだったろう。
 同僚の障害者役の女性が、まるで必要ない展開なのも気になる。
 必要ないなら出さないほうが、ドラマが整理できるのに。
 すでに原作とはずいぶんかけ離れてきたけれど、とりあえず、知能的には、 もうじき普通人を超えそう。
 早く「天才時代」を描かないと、その後の悲劇との落差が描けなくなりそう。 この話の本題は知的障害の悲劇ではなく、パン屋を出て天才になってから 始まるのだ。急げ急げ。
 来週には母親との対決も待っている。どうなることか…。

■第6話[2002.11.15]

[一ヵ月後]

 11/7に見た5話の段階で早く「天才時代」を描かないと、その後の悲劇との 落差が描けなくなりそう。というコメントを書いたが、製作者はなんと 画面に「一ヵ月後」というテロップを入れやがった。
 おぃ、手抜きジャン(^^;;;
 しかも、今回のラストですでに「アルジャーノンの知能の喪失」を書いてしまった。
 こんなに天才時代をはしょって良いのか…、と思うが、来週から 「その後の悲劇」をたっぷり描けるともいえる。思いっきり大胆な ペース配分だ。
 原作では天才時代に「多方面の学問分野で一気に業績を残す」という色々な 話があるが、ドラマは具体的な業績を描いていないので、ただ分別臭くなっただけ みたいな気もする。
 これでは、「百科事典や科学雑誌を読み漁っていた知識オタクの 小学生だった私」が、当時くだらない悪戯に熱心な同級生を見て「なんて幼稚な奴らだ」 と思っていたのと、大してレベルは変わらない。もっと「人知を超えてしまった」 という感じが描かれないとインパクトが無い。
 この辺、ここから先のドラマの描き方に頑張りを期待する。
 一方、原作にあった「幼児体験がもたらした女性に対する接し方の欠陥」は、 「恋人の居る女性に対する禁じられた恋慕」にうまくすり替えられていて、 生々しさを封じつつニュアンスは残しており、先生に恋人が居る設定は 成功しているようだ。
 今時フロイト学説でもない時代なので、これは正解だろう。その点、 何かと言うと催眠療法をやってトラウマを発掘している「サイコドクター」 の方が、心理学的には怪しい道にはまっているな。

■第7話[2002.11.19]

 いよいよこの研究の学会発表。
 一度は「見世物と変わらない」と出席を拒否したハルは、何故か突然出席を承諾する。
 発表の日、低脳時代のハルの言動を見て笑いが巻き起こる会場で、ハルは壇上に立つ。
 ところが彼の発言は「実験は失敗に終わり、自分はビデオの中の低脳時代より はるかに低脳な状態に退化してしまうだろう」という驚くべき予測だった。

 全体には盛り上がる回だけれど、学会シーンはかなりうそ臭い。
 知能障害の研究家たちが、昔のハルの言動を見て笑うわけが無い。物凄い発達ぶりに 騒然となるならともかく。
 原作と比較しても、今は障害者を見て笑うような時代ではないからな。
 また、根拠となるデータもなしに、「実験は失敗だ」と言っただけで、参加者が 全員退出するはずが無い。意外な問題提起があったらその場で徹底討論モードに入るのが 科学者らしい振る舞いだろう。
 脚本家、演出家は「芸能記者会見」のイメージしかわかなかったのだろう(^^;;
 それ以外の、エリナ先生や母と妹の心理描写は丁寧だっただけに、学問の世界の 描き方のうそ臭さは「天才〜秀才の世界」を描くべき、ここ数回の緊張感を 台無しにしていると思う。

 パン屋の店員といじめを止めない店長の謎について、設定を考察してみたが、 あの店は全員障害者スレスレの知能しかなく、その序列の中でハルが最下位だった だけで、虐める店員も「叱っても訳が分からないほど馬鹿」だという設定なら、不自然では ないかもしれない。
 いわゆる「障害者の働くお店」の中に一人だけ天才が発生してしまったら、 それはかなり落ち着けない事態と言うことになろう。いじめ役のちょっと顔の良い若者も、 かろうじてパンが作れる以上の知能が無いなら、店長に咎められなくても仕方ない。

■第8話[2002.11.27]

 事実を知った妹とのデート。母を許して欲しいと伝言。  パン屋再訪。店員との和解。
 ハルは研究室のメンバーと団結し知能の退化を防ぐための研究に没頭するが、 得られた結果は「人の死が避けられないように、人工的に増大した知能が失われる ことを防ぐことは出来ない」というものだった。
 エリナ先生は泣いており、彼氏との仲も危うい…

 原作では「知能の増大速度に比例して退化する」という理屈も付いていたが、 要するに、「太く短く燃え尽きる」と言うことだ。
 今はまだ天才なんだけれど、次回あたりから退化するらしい。
 9,10,11回の3回で知能退化のプロセスを描くのは、やっぱり厳しい ペース配分なのではないか。前半賢くなる前や、原作に出てこない 人物のエピソードに時間の割きすぎだな。心配だ。
 

■第9回[放送日]

■最終回[2002.12.19]

知能の低下が止まって何もかも元通り。母も迎えに来て、なんだかハッピーエンド

 泣く。いや「あの原作をこんなにして…」と(^^;
 たぶん原作ファンで見ていた人のほとんどは納得しないのじゃないかと思うが、 単純にドラマだけを見ていた人にとっては「感動の最終回」なのかもしれない。
 だいたい、前週の最終回の予告映像に「感動の最終回」という でっかい文字をハリウッド映画の劇場予告のように入れたセンスからして、寒い 予感がしていたのだが、内容が「感動してくれ!」と書いて有るような筋でびっくりした。
 つまり、脚本家は原作の美しいタイトルとシチュエーション、 「知的障害者が脳手術で知能を獲得し、やがてこれを失う」を使いたかった だけで、ドラマが描いたテーマはまるで別物になっていた。
 原作が書きたかった一番大きなテーマは「知性は、貧富の差のように人を隔てる」 だが、ドラマでは「障害を抱えていても愛があれば幸せに生きてゆける」 だろう。
 これって、ぜんぜん「アルジャーノン…」が原作である必要が無い話だ。
 知性を獲得することによって見えた「持たざるものへの差別」、そして、 知能が高いとされる人たちのなかにある欺瞞性、この辺まではドラマの中にも 描かれていた。
 しかし、親子の関係、妹との関係は全面的に書き換えられていたし、知能が 失われる過程で起きる苦しみは全然描かれていないし、「この世でアルジャーノンだけが 唯一の同類であり、友だった」という悲しい連帯感が全然描かれていない。
 知能の低下そのものも、原作では「はたして人間で居られるか」という極限まで 落ちる恐怖が描かれているのに、ドラマでは冒頭であっさり 「低下は止まったようですね」で対決を避けた。
 そして最後の最後で、「知能は無くても家族と友達が居れば幸せ」という結論。
 一般社会的にはそれは「正しい結論」だが、この原作で障害者に送る応援メッセージ なんか書いてどうするつもりだろう。
 原作の持つ厳しい知の孤独はどこにすっ飛んでしまったのだろう。 母の「老人性の痴呆」を通して、彼が直面した知性の喪失は誰にもひと事ではないのだという、 そちらの方のメッセージ性はどこに置いて来たのだろう。
 この「ハッピーエンドへの書換」は、知性とは何かという物語の根幹をなすテーマへの 裏切り行為。真面目に向き合うことに対する「思考停止」だと思う。


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文:唐澤 清彦 映画館がやってきた!