[英語]
[戻る]
- ささやきは愛
- 小さな自由
- 人生はシチューのように(1997/11/25)
- アド・バルーンの想い出(1997/11/30)
- イマジン(1997/12/8)
- 愛のために裏切る者(1998/1/18)
- 冬のグレープフルーツ(1998/1/25)
- スキー大好き(1998/2/5)
- 不思議の国カナダ(1998/2/22)
- 流れ星(1998/8/15)
- 虹(1998/8/15)
- ささやきは愛
-
誰だって落ち込むことがある。これは健康な人も病気の人も若い人も年老いた人も金持ちも貧乏人も
障害のある人も障害のない人も成績の良い人も悪い人も同じだ。
もちろんその程度は人によって違うかもしれないけどもね。
そんなときには、優しいささやきが必要だ。
ささやきはただ、あなたをあなたとしてそのまま認める。
けして、良いか悪いかの評価はしない。
ささやきは人から人へ伝えられながら、みんなを元気付けていく。それは留まることを知らない。
一滴の水がせせらぎとなり、川となり、やがて海に流れこむ。しかしそれで終わりではない。
もう一度、蒸発して雲となり雨となってみんなの上に降り注ぐ。
昔の人は言った。良い人にも悪い人にも等しく雨は降る。
- 小さな自由
-
ある晴れた秋の日、朝のラッシュ時の電車の中だった。いつものように満員で、
誰もが眠そうな顔をしていた。僕は最近なにかと忙しい。
暗い気分で今日一日の仕事の事を考えていた。
そのとき、何かが目の前を通り過ぎた。黒っぽい10cmくらいの小さな塊。
それは野生の小鳥だった。なぜ、電車の中に小鳥が?
彼女(または彼)は脱出を試みていたが、ただ窓や天井に何度も頭をぶつけるだけだった。
飛び回るのを止めて、ドアの前で開くのを待ったほうがいいのに…。
とにかく、満員なので誰もが手を出せずに、ただ目で追っていた。
最後に床に落ちたところを、年配の伯父さんが捕まえた。
次の駅で駅員に渡そうとしたが、駅員は受け取らなかった。
不審に思ったようだ。さらに次の駅で伯父さんは小鳥を空に放した。
そして彼女(または彼)は再び自由になった。
そこは何駅かの冒険の末の新天地だったにちがいない。
- 人生はシチューのように(1997/11/25)
-
最近疲れている。仕事やら何やらで、心身ともに疲れていた。
この休みもぐったりとしていた。2日ほどろくなものを食べていなかった。
独り暮らしは気楽で良いが、こうした場合、誰も助けてくれない。
このままでは餓死してしまうと思い、ビーフシチューを作ることにした。
(1)牛肉を塩とこしょうで強火で炒め、焦げ目がついたら、
赤ワイン70ccでとろみがでるまで数分煮込む。
(若いうちは強気と勢いで勝負しーの)
(2)水300ccを加えて弱火で約40分煮込む。
(あせらずじっくりと己を磨きーの)
(3)一口大に切ったニンジンとたまねぎを炒めて
デミグラソースと共に加え、さらに30分煮込む。
(畑の違うものも取り込みーの)
(4)一口大のじゃがいもを加え、さらに煮込む。
煮詰まったら水を加え、好みの濃さに調整する。
(やわらかくなったら出来上がり、と。)
(5)ゆでたブロッコリなどを添えると彩りも豊かに。
(盆栽のことか?)
シチューを煮込みながら、人生を哲学してみました。
これ食べてちょっとは元気でたかも?
因みに僕の人生シチューは煮込み中である。たぶん。
- アド・バルーンの想い出(1997/11/30)
-
カンボジアの子供達は本当に屈託がない。何にでも興味を示すし、素直な感性を持っている。
それは1996年11月の末にカンボジアを訪れたときだった。
トンレサップ川の岸辺はちょうど水祭りで賑わっていた。
水祭りというのは、雨季が終わり乾季になる変わり目に水の恵みに感謝する祭りである。
土手に腰をおろし、のどかな風景を色鉛筆でスケッチし始めると、どこからともなく子供たちが
集まってきた。
彼らはいろいろだ。祭りを楽しんでいる子供もいれば、働いている子供もいる。
友達とふざけ合っている子もいれば、独りでガムやキャンデーを売り歩く子もいる。
それこそサンタクロースのように袋をひきずって空き瓶を回収している子供もいれば、
ボロをまとって物乞いをしている子供もいる。しかし、彼らはみなそれぞれ懸命に生きている。
カンボジアは常夏の国だ。11月末と言えど、暑い太陽が照り付ける。そんな中にもかかわらず、
彼らはぴったりと身をすりよせてくる。さすがに財布でもすり取られはしないかと不安にもなったが、
じきにその不安も消えた。なんと20分でも30分でもじっと動かずに、絵を描くのを見ているのである。
しきりに僕の絵と実際の風景とを交互に見比べていた。後から加わった子供に、先から見ていた子供が
得意げに絵の解説までし始めた。僕はその様子がおかしくて吹き出しそうになりながらも、
わざと知らんぷりで小難しい顔をして描き続けた。(そうでもしないと本当に笑い出しそうだったので。)
やがて、隣にいた一人が絵を指差して何か言い出した。そのとき、タイガービールという会社の
アド・バルーンがいくつか上がっていたのだが、どうやらそれが描かれてないというのがご不満らしい。
それは絵の構図上は枠の外だったし、こちらはさして興味もなかったのだが、子供たちから見れば
重大な手落ちに見えたに違いない。とうとう、特別サービスで無理矢理にアド・バルーンを描き入れる
ことにした。それはスペースの都合で小さくしか描けなかったが、子供たちはとにかく意見が取り入れ
られて満足した様子だった。
言葉よりも感覚の方が伝わるという瞬間がある。それは僕自身の遠い記憶の中に、今も、
あのデパートの屋上の不思議なアド・バルーンが浮かんでいるからに違いない。
今、あれからちょうど一年が経つが、彼らは元気にしているだろうか?
いずれにしても、子供が子供らしくいられるということは素晴らしい。
- イマジン(1997/12/8)
-
クリスマスも近づいたこの頃、街はクリスマスソングであふれる。そんな中に混じってときおり耳にする
曲がある。ジョン・レノンの「イマジン(想像しろ)」だ。彼は有名なビートルズのメンバーの一人で、
1980年12月8日に狂信的な人物にピストルで撃たれてこの世を去った。
僕は個人的には、ビートルズよりもむしろ彼のソロ時代の作品が好きだ。それらはどれもシンプルだが、
不思議な魅力にあふれている。そこにはジョン・レノンが自分自身と向き合っている姿が感じられる。
それは時に悲しく切ない。
本当の自分を知るという事は、けしてきれい事じゃない。甘えた自分や醜い自分、そしてそれを何とか
隠したり正当化したり、たまに改善したりしようとする自分がいる。そうした自分と向き合うとき、人は
誰しも孤独を感じるのかもしれない。それはとてもつらい事だ。そんな孤独に捕らわれて立ち直れない
人にも救われる瞬間はあるのだろうか?
彼はイマジンという曲の中で「天国も地獄も国境も所有もないと想像してごらん」と唄う。それは平和の
願いだ。しかし、同時に孤独との決別であるかもしれない。なぜなら、彼は唄う
「でも僕はたった独りじゃない/
君もいつか僕らに加わってくれるといいな/そしたら世界は一つに暮らせる」と。
- 愛のために裏切る者(1998/1/18)
-
その青年は仲間に呼び出された。そして「やれ!」と言われた。彼が「嫌だ。」と言うと、仲間は彼を殴り、
そして言った。「やらなければ、お前は裏切り者だ。こいつらと同じ目にあわなければならない。」
彼は非常な戦慄を憶えた。そしてついにやってしまった。他に方法がなかった。
同じ頃、別の場所でも狩りは行われていた。ここに別の青年がいた。彼は友達のために小さな穴を掘った。
そして友達とその弟達をそこに隠し、毎日バナナを与えた。それは彼自身にとっても危険なことだった。
仲間にわかれば、彼もやられる。しかし、彼は仲間を裏切った。他に方法がなかった。
この二つの話は今日テレビで見た。それはアフリカのルワンダという国での出来事だ。そこでは80万人
もの人が殺されたという。それは信じられないことだ。しかし、僕らの身の周りでもこれと似たことは
ないだろうか?学校や職場で、そしてあなたの心の中で…。
何かを犠牲にしなければ、何も得ることはできない。しかし、その前にまず選ばなければならない。
そして、その選択はとても難しく、過酷なものかもしれない。そしてそういうときは、どれもが正しく見え、
どれもが間違って見えるだろう。どうすれば良いのだろう?答えはどこにあるのか?
まず目を閉じ心を静め、そして一緒に思い出そう。
僕らが池に落としてしまった斧は本当は何色だったのか?
- 冬のグレープフルーツ(1998/1/25)
-
今日、久しぶりに実家に帰って、なぜかグレープフルーツを食べることになった。
冬のグレープフルーツ。これには少し訳がある。
あれは確か小学校の頃だから、今からもう20年ほど前のことだった。
夏のある日、外から帰ってきて、冷蔵庫から冷えたグレープフルーツを取り出した。2つに切ってみると、
なんと種から芽が出ていた。実の方は既に水分が抜けていた。食べてはみたが全然おいしくなかった。
しかし、グレープフルーツの種から芽が出ているのは初めて見たので、とても驚いて、植木鉢に植えてみた。
当時は集合住宅の5階に住んでいたので、庭がなかったからだ。しかし、それは小さな植木鉢の中で日々
成長した。数年後、それが30cmくらいの高さになったとき、一軒家に引っ越し、庭に植えることができた。
しかし、そこも北向きのため、けして日当たりの良い場所ではなかった。それにも関わらず、それは成長の
ペースを上げた。いつしかそれは、りっぱな木になっていた。3年ほど前から実をつけるようになった。
初めは小さな実をつけるだけで、少し風が吹くと落ちてしまった。しかし、わりと大きな実をつけるように
なり、去年は何十個も収穫できた。その時期は12月頃だった。つまり日本のみかんと同じだ。そして、
そのうちの一個を僕は今日初めて食べることになったわけだ。
サイズは少し小さく種も多いが、実は果汁たっぷりだった。食べてみると、レモンのようにすっぱいが
確かにグレープフルーツの味だ。あの夏の日を思い出し、なにか不思議な感じがした。
このグレープフルーツを愛しく感じるのは、きっとその実にいろんな想い出が
つまっているからだね。
- スキー大好き(1998/2/5)
-
すっかりスキーシーズンになりました。明日からカナダにスキーしに行きます。とても楽しみ。
ところで、数日前に東北の安比(アッピ)というところにスキーしに行ったとき、
めずらしいスキーを見た。一本のスキーの上に椅子のようなものがついており、
それに両足が固定されている。ストックの先にも小さなスキーがついていた。
その人は独りで滑っており、あっという間に目の前を通りすぎて行った。
今日テレビを見て、それがチェアスキーというものだと知りました。日本には約500人ほど
その愛好者がいるそうです。しかし、スキー場の受け入れ体制があまり整っていないということ。
スキーを楽しむには誰でもゴンドラやリフトの設備が必要だ。また夜中にゲレンデを整備してくれる
スタッフも必要だ。同じく、より多くの人がスキーを楽しむためには、
チェアスキーの受け入れも必要だ。
僕はたまにスノーボードもするけど、これも数年前までは日本のほとんどのゲレンデで禁止されて
いた。今、それは嘘のよう。同じように、チェアスキーも世界中に広がる日が来るだろうか?
誰でも雪と戯れることはできる!そう思う。
- 不思議の国カナダ(1998/2/22)
-
カナダから帰って来た。暖冬のため気温は高かったけど、スキーには丁度よかった。
天候はあまり良くなかったけど、新雪を快適に滑れた。
僕は旅行に行くとすぐにその国が好きになってしまうが、カナダも例外ではなかった。
今回はスキーツアーなので市内観光はほとんどしてない。しかし、カナダの良さというものを
少し感じた。まず目をひくのは漢字だ。カナダには中国系の人が多く、漢字の看板の店が多い。
また、日本人観光客向けの日本語も多く目にした。あとはカナダの公用語である英語とフランス語
の店がならんでいる。しかし、イタリア料理の店やモンゴル料理の店まであり、とても国際的だ。
世界中から色んな文化の人々が集まり、仲良く一つの国を作っている。そんな不思議な国がカナダだ。
ターバンを巻いたインド人も見かけた。本当にあらゆる人種の人がいる。治安も良い。
あらゆる人々が対等に付き合うということを、
最も自然にやっている国かもしれない。
紛争の絶えない世界の中で、それは素晴らしいことだ。わずかな時間の中でもその空気を感じることが
できて良かったと思う。
- 流れ星(1998/8/15)
-
毎年、8/12頃の夜にペルセウス座の流星群が見られる。高校生の頃、それは理科部
にとって夏休み最大のイベントだった。夕方、学校に集まり、校舎の屋上で流星を観測した。
8人が頭を中心に輪になって寝転がって担当の空を見張る。そして方角と明るさを報告する。
別の2人が時間と共にそのデータを記録する。でも、実際に流星が流れると、担当の空でなくても
叫んだり、見とれたりする。しばらく流れないと、となりから寝息が聞こえてきたりした。
そういうわけで正確な数はあてにならなかった。でも楽しかった。懐かしい思い出だ。
今年は、あるきっかけで岡山の美星(びせい)というところで、その流星を見ることになった。
星のきれいなところなので、何年も使ってない望遠鏡を持って行った。望遠鏡は口径15cmの
反射型なので、やや大き目のものだ。観測は「いくさランド」の広い駐車場で行われた。
一般の人が200〜300人くらい集まってきた。流星が流れ出すと、みんな歓声を上げていた。
ところで流星を見るために望遠鏡は必要ない。その日は木星、月、土星が東の空から
上がってくるので、望遠鏡でそれらを見ていた。すると、近くにいる人や通りすがりの人が
「見せて下さい」と言ってきた。木星は4つのガリレオ衛星と一緒に見えた。それらは一直線に
きれいに並んでいるのですぐわかる。土星はあの有名な輪がくっきりと見えた。月はまるで
石膏細工のようにクレータが見えた。300倍に拡大した世界は本当に別世界だ。
それらを見せてあげると、本当にみんな大喜びだった。写真やテレビでしか見たことがないものが、
実際、いつも見ている空にあるというのは本当に不思議なことだ。
いつも見ているのに、全く見えてない。
それが見えたとき、人は感動するのかもしれない。
あの望遠鏡があんなに活躍したのは初めてのことだった。大勢で星を見るのは、本当に楽しい。
- 虹(1998/8/15)
-
流星群を見た翌朝だった。駐車場の車の中で目を覚ました。しかし、目が痛くて開かなかった。
たぶん、前の日にコンタクトレンズを長くつけていたせいだ。頭も少し痛かった。涙がたくさん
出たが、やはり目は開けられなかった。しかたなく、車の中でじっと耐えていた。昼を過ぎても
まだ治らなかった。外には雨が降り出した。ますます、暗い気分になって、このまま目が
開かなかったらどうなるだろうかと考えた。車は運転できない。夕べ見たあの星空も見えない。
月も木星も土星も、もう見えない。もし、昨日見たのが最後だとしたら、そう考えると少し
悲しくなった。しかし、あの感動や思い出はきっといつまでも忘れないだろう。そのイメージは
心の中に鮮明に残っている。そして、多くの人が流星や惑星を見て喜ぶ歓声も憶えている。
それは消えない。かばんから手探りで、タオルを取り出し涙をふいて、カロリーメイトを食べた。
次第に激しくなる雨の音だけが聞こえていた。
夕方近くなって、なんとか目が開くようになった。雨も止んだので、決心して出発した。
途中、高速のパーキングで少し眠った。目を覚まして再び走り出した。しばらくして、
前方に大きな虹があるのに気がついた。それは夕焼け色の空を背景にして、本当にきれいだった。
外側には第二の虹も見えた。本当に久しぶりに虹を見たのでとても感動した。
さっき雨が降ったからこそ、虹ができたのだろう。
虹は見ようと思って見れるものではない。
その虹はいつにも増してきれいだった。
E-mail:
JuN Kawai <jun1967@pis.bekkoame.ne.jp>