イスラエルのメシアニック運動
---- 米国との文化の違い ---

イスラエルにもメシアニックの人々がおられます。しかし、彼らにはいくつかの点で米国やヨーロッパのメシアニックとは違いがあります。これは信仰的な違いというより文化や社会環境の違いなのですが、時に誤解を招くことがありますので、簡単にご紹介させていただきます。
なお、こうした複雑で微妙な問題を「簡単にご紹介」などとても出来ないので、以下は私の独断でかなり単純化した解説であることをお断りしておきます。

1)迫害について

米国のメシアニックでも、イエスを信じただけで家族が「お葬式」を出した、などの実話が多くあるぐらいで迫害を受けてはいるのですが、イスラエルのメシアニックはそれに比較するとかなりひどい迫害を受けています。
まず、イスラエルはユダヤ教の国なので、ユダヤ教徒でないと国籍を取るのが極めて困難である、などの行政手続上のいやがらせがあります。また、埋葬や結婚、出産、割礼などにおいても、イスラエル国内ではすべて正統派ラビの承認が必要で、メシアニックは最大限の嫌がらせを受けており、結婚の為に国外に出るなどの不便を堪え忍んでいます。
その上「ヤッド・レアヒム」などの反宣教団体が、職場に押しかけるなど様々な行動に出ています。一般のイスラエル人はメシアニックに対して必ずしも反対はしていないのですが、反宣教団体が職場に押掛けてくると仕事に支障が出てくるので、結局はメシアニックの人をクビにしなければいけなくなるのです。日本でも仮に「反キリスト教団体」というのがあって、皆さんの職場へスピーカーを持って押掛けて来て「○○さんはキリスト教です。○○会社はキリスト教の人を雇っています。」と何日も叫びつづけたら、結局は退職を余儀なくされるでしょう。
こうした反宣教団体の仕業かどうかは不明ですが、メシアニックに対する放火や暴行事件、偽警官が夜間に押し入って来たとか、火炎瓶を持った青年がやって来た、などの例も数多く報告されています。
すべてのメシアニックがこうした迫害を経験しているわけではありませんが、イスラエルのメシアニックは「聖地に止まっているのが精一杯」という状況で、米国のようにメシアニック文化が成熟するという段階にはなかなか至っていません。

2)イスラエルと米国のユダヤ教の違い

現在のところユダヤ教はメシアニックを認めているわけではありませんが、両国のメシアニックの違いを理解するためには両国のユダヤ教の違いを知っておく必要があります。
だいたいユダヤ教には大きく分けて保守派、改革派、正統派の3派があり、正統派が律法や伝統の遵守に関して最も厳格な立場を取っています。米国では正統派は少数で、律法の自由な解釈を許容する保守、改革の両派に属する人々が8割程度を占めています。また、最近では「人道的世俗ユダヤ教」や「再建主義」なども登場しており、ユダヤ教はかなり幅広い流れであるというのが常識となっています。
一方、イスラエルではユダヤ教といえば正統派のことで、彼らは保守・改革の両派を認めていません。(ただし、イスラエルのユダヤ人が全て正統派というわけではなく、自分は宗教的では無いがユダヤ人だと考える「世俗派」と呼ばれる人々が多数を占めています。)
つまり、キリスト教を中心とする国家の中で「ユダヤ性」を強調しなければならない米国のメシアニックと、正統派ユダヤ教が独占支配する宗教国家の中で「イェシュアの弟子」である事を主張しなければならないイスラエルでは、必然的に力点の置き方が違ってくるということなのです。

3)用語の違い

米国のメシアニックは会堂のことを「メシアニック・シナゴグ」と呼んだり、牧師のことを「ラビ」と言ったり、ユダヤ教の用語をよく使用します。米国の場合は前述の通りユダヤ教自体がかなり幅広いものであるため、メシアニックがこうした用語を使用してもほとんど違和感がありません。
ところが、イスラエルでは「ラビ」とか「シナゴグ」「イエシバ」などの用語には、政治権力と結びついた国家宗教という強いイメージがあり、こうした権力とは何の関係も無い社会的弱者のメシアニックの人々は、こうした用語を使う事に抵抗があるようです。

4)メシアニック・ラビという称号

イスラエル以外のメシアニックでは指導者の称号として「メシアニック・ラビ」が非常に一般的ですが、イスラエルではこの称号はほとんど使われません。イスラエルで「ラビ」といえば、イエシバ(ユダヤ神学校)を卒業したユダヤ教学者の事を指すので、メシアニックの人々がこのような称号を使用してもかえって誤解を招くからです。
しかし、時にはイスラエルでは「ラビ」を名乗らない先生が国外では「ラビ」とされる場合があります。(JMFでも、イスラエルから講師を招く場合は、他に適当な称号が無いため、指導者という意味で「メシアニック・ラビ」としています。)
ところで、米国でもメシアニックが「ラビ」の称号を使う場合には一定の基準が必要だということになり、現在のところMJAAやUMJCなどの全米団体が一定の基準によりラビの叙任を行っています。イスラエルにはまだこうした事ができるような全国的な組織が無いこともあって、そのような動きはありません。

5)礼拝について

米国のメシアニックの場合は、安息日に「メシアニック礼拝」をするというのが主流ですが、イスラエルではそうとばかりも言えません。こうした傾向についてご理解いただくために、エルサレムのある某コングリゲーションの礼拝形式がどう変って来たかをご紹介致しましょう。

1:最初に、人々が集まって礼拝の日を決めようとした時、聖書の伝統に従って、使徒行伝20:7、コリント第一の手紙16:2などにもある通り「週の初めの日」に集まろうということになりました。「週の初めの日」は、イスラエルの風習によれば土曜日の夕方から始まります。そこで土曜日(安息日は)普通のシナゴグに行き、一般のユダヤ人と交流し、その夜にメシアニックの人々が集まって集会をしたわけです。

2:ところが、こうすると冬は良いのですが夏は非常に遅い時刻にならないと集会ができず、おまけに交通機関も使えないため、なかなか集会をするのが困難であることがわかって来ました。そこで、次善の策として日曜を考えたのですが、日曜はイスラエルでは出勤日になりますので、日曜の夜に集会をしようということになりました。

3:こうしてしばらくその伝統が続いていたのですが、米国から来たメシアニックが増えると、米国ですでに確立していたメシアニック安息日礼拝という形式をイスラエルでもという声が高まって来ました。ところが、安息日に礼拝をするとなれば、今まで折角シナゴグに行って正統派の人々と築き上げて来た信頼関係が崩れてしまいます。そこで、折衷案として隔週に安息日礼拝をすることになりました。

さて、イスラエルでの安息日礼拝は、米国とは違って大きな問題をかかえています。エルサレムで安息日を過ごしてみればすぐにわかることですが、安息日の静寂の中で自動車を運転するのは非常に気が引けます。我々異邦人でさえそうなのですから、トーラー遵守を標榜するメシアニックならなおさらのことでしょう。ところが、安息日礼拝をしようとすれば、各地に散在するビリーバーは車で集まらざるを得ないという矛盾があります。安息日礼拝の為に安息日を破らなければならないのです。
クリスチャンにしてみれば「何を律法主義にとらわれている」という感想を持たれるかも知れませんが、正統派のユダヤ人に伝道しやすいように律法を守ろうと考えて一生懸命やっている人々にとって見れば、これは切実な問題です。

6)アリヤー

「アリヤー」は「上る」という意味ですが、イスラエルに帰還する事を言います。米国などイスラエル以外で暮らすユダヤ人を「ディアスポラ」(=離散)と言いますが、こうした人々がイスラエルに移住する事を「帰還・アリヤー」といいます。
メシアニックの人々の中にも信仰的な理由からアリヤーをする方々がおられますが、メシアニックであることがわかると国籍を拒否されたりするため、かなりの苦労があるそうです。
また、念願のアリヤーを果たしてもイスラエルに暮らし続けるのはかなり大変で、相当なプレッシャーに耐えて生活しなければなりません。疲れ果てて「サバティカル・イヤー=安息年」と称して国外に出て休息する人や、聖地での生活を断念して国外に移住して行く人々もおられます。
こうした人々に神の助けがあるよう、祈りたいと思います。

7)まとめ

イスラエルのメシアニックは、私の個人的感触では「ユダヤ性」をあまり強調しません。なぜかというと、イスラエルではコシャー(律法に従った食品)を守ったり、キッパやタリートを着用したところで、別に何も珍しくは無いからだと思います。逆にこのあたりの所は、米国などクリスチャンの中に住むメシアニックの方が、強いこだわりを持っているように感じます。
しかし、こうした文化的な違いを除けば、イスラエルのメシアニックと米国やヨーロッパのメシアニックに信仰的な違いは無く、メシア(キリスト)にある兄弟である事は間違い無いでしょう。
現在のところイスラエルのメシアニックは非常に少なく、数の点では米国の10分の1にもなりません。しかし、預言的に見てイスラエルは重要な地であり、いつかこの地にメシアニックの花が咲く日が来ることは疑いありません。その日が一日も早く来てほしいものです。(了)

資料提供:シオンとの架け橋