1979年5月25日
ついに運転免許を取得した。自宅にある車は、1972年式(昭和47年式)のルーチェで、形式名はLA22S。エンジンは12A型ロータリーエンジンで馬力はグロスで130PS、トルク17.5kgmである。大学受験浪人の身分なのであまり乗れない。乗りたいなー。

1979年6月15日
なんかルーチェを眺めていたら父親のことを思い出した。4年前に父親を心筋梗塞で亡くしたが、この父親は大の車好きで1960年ごろより、よく分からない外車でプライベートラリーをしていた。JMCラリー3位のトロフィーが家に飾ってある。1963年頃A級ライセンスを取って船橋サーキットや鈴鹿サーキットに行っていたようだ(私は6歳なので良く知らない)。その時の車はプリンススカイラインGT‐B(S54B)である。また、亡くなる前に良く話に聞いたが、夜中、首都高速環状線で練習したそうだ。また、1965年12月富士スピードウエイの開所記念走行会に出たのが父の自慢だった(写真あり)。バンクを走るスカイラインの助手席から撮った8mmフィルムが家にある。ビデオじゃないですよ。

1980年7月30日
以前より電車で富士に耐久レースやGCレースを見に行っていたが、今日はルーチェで自分の運転で富士1000km耐久を見に行ってきた。帰りの渋滞が大変だった。

1983年4月10日
希望の大学にも入り、現在は車の運転は自由にできる。ほとんど自分の車のように使っている。

1984年8月10日
タイヤが磨り減ってきた。タイヤ交換をするついでにホイールも欲しいので母親に交渉。なかなか上手くいかなかったがついに説得した。

1984年8月11日
用賀ヨコハマタイヤセンターに行って14インチ6.5JのSSRメッシュリバース(ゴールド)と205/60-14のポテンザRE71を買ってきた。もともとのタイヤは195/70-13だったので1インチアップした。4本で13万8千円だった。

1984年9月10日
SA22S型RX7の友人と旧型ゴルフに乗る友人と三人で箱根に行った。第三京浜から横浜新道を経て、国道1号線で藤沢を通り西湘バイパスを使い箱根へ。これが一番安く片道500円以下である。旧東海道温泉街から入り七曲を経て芦ノ湖湖畔で休憩。そこから芦ノ湖スカイラインを経て箱根スカイライン手前左手の空き地で休憩。箱根スカイラインには行かず右手へ折れてロープウエー乗り場の下をくぐり、芦ノ湖を一周する様にして再び国道1号へ。ここから1号を使って富士屋ホテル旧館の脇を通り、下山した。帰りも500円以下のルートで東京に帰ってきた。タイヤのグリップは極めて良いがパワーで負けているかも。

1985年7月1日
箱根に行くようになったからではないがマフラーから白煙が出るようになった。メタリングポンプの不調ということで1度直してもらったことがあるが、まただ。同様に直してもらう。

1985年7月14日
SA22Sの友人の車が火災にあい、ERCに車を牽引して持っていったが、これに付き合う。この時店長に、自分の車もエンジンを載せかえられないか聞いてみた。可能な様である。エンジン単体は20万円とのこと。

1985年7月21日
無理を承知で、またまた親と交渉。1週間かけて交渉し説得した。「新車の購入とエンジン乗せ換えどっち」なんて言葉も出しちゃった。本日ERCにTEL。

1985年8月6日
ERCに預け入れ。友人のSA22Sはこの日引き取りだった。帰りはこの車で。今まで感じたことのないエンジンの振動の低さだった。ならしが終わっていないので回転はあまり上げていない。

1985年8月20日
車を引き取りに行った。ボンネットを開けてびっくり。がらんどうである。13年前の車なのでもともとエンジンルームは比較的空いてはいたがそれにしても。ATミッションも年式の違うものに変更されていたが、セルモーターがミッションの上に乗っていたのに下の方に移動している。デスビが2デスビタイプから1デスビタイプに変わっている。ラジエーターフードが付いていない。ローターハウジングやサイドハウジングに設けられた新たなボルト穴が一杯あった。我がルーチェには必要ないのである。1年に1回の車検が問題である。エンジン代、ミッション代、サス代、工賃込みで40万円なり。尚、ルーチェの車体価格は105万円だったのです。

1985年8月23日
方南町のマツダ部品に行ってラジエーターフードを探してみた。ファンの位置が全然違うので「エンジンが壊れたので中古エンジンに乗せ買えた」と言ってごまかし、メカの人に見てもらった。サイドハウジングやローターハウジング、補器類の年式がバラバラなのを人目で見破った。しかし整備表と部品表を出してくれ、自分で調べろと言われたので、1977年式ぐらいの1デスビの12A用のそれをチョイスし注文した。

1985年9月1日
注文の品が手に入った。何と無加工で取り付けできた。

1985年9月21日
箱根へ。SA22Sもゴルフも一緒である。かっとびスターレットのキャッチで売り出し中の1300ccに3人ともちぎられた。3人で話した。「やっぱり古い車いじっても速くないなー、腕も違うにしろコーナリング性能が違いすぎる」。

1986年4月10日
彼らは、FC3S型RX7と70スープラツインターボに代替した。我がルーチェは元気である。タコメーターは8000回転まで目盛りが打ってあり、回すと針9200回転(目測)ぐらいのところで止まってしまうが、音で10000回転を判断するのだ。10000回転は「ヒーーーン」という音だ。ジェット機みたい。

1988年7月30日
郡山での合宿(所属しているクラブの合宿/自動車部ではない)の帰り道に色々な事が起きた。3ヶ月ぐらい前よりフロントガラス左下にヒビが入っていたが、合宿の行きに5cmぐらいだったものが、帰りに12cmぐらいになった。また、東京に入ったころからエンジンルームよりカラカラ音がして室内が焦げ臭くなった。車を止めボンネットを開けると、クーラーコンデンサーのクラッチ部分が焦げて融けていた。それを駆動しているベルトをカッターにて切断し何とか家にたどり着いた。この事を親に話したら、代替を考えたようだ。

1988年7月31日
それにしてもクーラーが使えないのはすぐに困るので、知り合いの整備屋さんに頼んで格安で修理した。実は車検もここにお願いしていたのだ。今考えると壊れたのは、10000回転近くまで回していてもクーラーのスイッチを入り切りしていたからだと思う。代替の車は、何にしよう。GT-Rの噂が出ていたのでDR30の中古はどうか。本屋で写真を見つけて親に見せる。「なんか角張っててカッコ悪いわねー」と母親。

1988年8月2日
「えっ、中古なの。私が家の車として買うのだから新車にしたら」と母親。「?????」と自分。父親が亡くなって13年が経ち母の仕事も絶好調だったようである。自分の卒業も近いし。

1988年9月10日
ギャランVR-4が納車される。ルーチェはただで貰ってくれる人は居ないかと駐車場の隅に暫く置いておいた。

1988年10月15日
来月で車検切れ。ルーチェをミツビシに引き取ってもらう。噂どうり数万円の手数料が必要だった。

ルーチェよ、ご苦労様、そしてさようなら。



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