私の書斎][上野さち子著 竹下しづの女


金子兜太著 竹下しづの女への親近  
富士見書房  「遠い句 近い句 」より


女人高邁芝青きゆゑ蟹は紅       竹下しづの女

の句についてはすですでにいくどか書き、『愛句百句』(講談社)にも入れさせてもらっているのでいまさらの感もあるが、しかし書かずにはいられない。竹下しづの女と「秘誦句と秘誦句」という率直な文章があって、「秘誦句」などという言い方にもこの人の思い切りののよさを覚えるのだが、その違いについて、〈曖昧な区別〉とことわりながら、(前者(愛誦句。引用者注)は感情的で後者は意欲的であり、普遍的と特殊的な差異ででもあるとも言える。一読して朗々と高尚愛吟して愉しい句としみじみと考えさせる寧ろ苦しい程愉しい句との別ででもある。〉と書いていた。この区別でゆけば「女人高邁」の句は私にとって愛誦句なのだが、どこかに「秘誦句}かもしれない、とおもっているところがある。〈感情・普遍的〉よりも、〈意欲・特殊的〉の印象がつよいせいかもしれない。
 この句「定本 竹下しづの女」(昭和三九年一九六四刊)所収。集中の昭和一三年(一九三八)のところにある。まさに、その年、私は『成層圏』誌上でこの句を詠み、感銘というより驚きといったはうがよい、かるい衝撃を受けたものだった。以来、この句を忘れることはなく、昭和前期の男尊女卑著しい風のなかでも、殊に著しい世界とおもっていた俳句のなかに、こんな女流がいることに目を開かされたおもいがある。

ちなみに、この句文集は(星書房}かが出版している。社主は出沢三太(珊太郎)。編者はすでに故人となった香西照雄。二人とも『成層国』に熱心に協カしていた人たちだが、しづの女の二男健次郎が発意し、出資した。また、昭和二十六年(一九五一)、しづの女が六十五歳の生を閉して間もなく、九大(九州大学)俳句会で彼女の指導を受けていた人の一人、藤野房彦が、「先生の句集を出したい」と香西のところを訪ねていて、健次郎の発意をどこかで促すことになっていたのかもしれない。その藤野が句集稿を作成している。出沢の出版業は短期間のことだったので、そこからしずの女の定本遺句文集が出ていることに、私は縁ということをおもってしまうのである。
 ところで、昭和十三年のときのこの句の作句事情を、私は横山自虹の文章で知った。白虹の文「女人高邁」は、昭和五十四年(一九七九)八月一日の読売新聞夕刊に掲載されたのだが、この年の十一月三日、しづの女の生れ故郷・福岡県行橋市中川に彼女の句碑が建立された。これも二男健次郎の尽力によるもので、句は周知の「緑蔭や矢を猟ては鳴る白き的」。白虹はこの昭和十年(一九三五)
作の句が、『ホトトギス』巻頭句だったと書き加えている。
 白虹の文章をそのまま弓用しておく。
《昭和十三年に橋本多佳子さんが小倉路櫓山荘を手放す決心をして、真夏に惜別の雅会を催すことになり、しづの女、龍骨(しづの女の長男。夭折。引用者註)の二人にも参会して貰った。対岸の山腸ホテルから汽艇で伊勢海老の料理が運ばれ、芝生での豪華なパーティだったが、その折にしづの女さんは「女人高邁芝青きゆゑ蟹は紅く」という句を残している。彼女は「女人高遇一という言葉が好きだった。》
 状景が目に見えるようだし、「女人高邁」の語をしづの女が好んでいたということも、私の享受をより具体約にしてくれる。学生のとき初めてこの句を読んだときの受けとり方に間違いはなかった、
ともおもいなおしている。
それにしても、鮮明に大胆に言い切ったものだとおもう。すこしヒステリックかな、と感したりもするが、「芝青きゆゑ」は冷静である。「芝青く蟹紅し」の投げ出しだったら、その感を修正しないのだが、「芝青きゆゑ蟹は紅く」と冷静に書かれているのを見ると、撒画せざるを得ない。しづの女は佳景嘉肴を前に悠悠と端然と座して、この句をものしたのである。
 この句が感情の所産ではなく。理知の作なり、私は言いたいわけである。横山白虹は同じ文章の中で次のようにも書いている。
〈(前略)山本健吉氏は自我を作品に打ち出した女流作家の始まりは杉田久女であると書いたが、久女は自分との戦いに負け、しづの女は主知主義をかかげて自分との戦いに勝った。私にはそう思えるのである。〉と。
〈主知主義をかかげて〉というところには少しこだわるが、他は白虹説に賛成である。もっとも、山本健吉も、しづの女が〈自意識過剰の久女に比して、もっと外部に目が開かれて社会的・批判約・進取的な意欲を持っていた〉ことを受けとっていた。ただ、しづの女の句は〈久女ほど完成されていず荒けずりである〉と読んでいて、作品の完成度からみて久女、ということにになったのだろう。
 しかし、私にはそうはおもえない。しづの女の作品も久女同様に完成していて、二つの違う姿の(内容の)自我の表出があった、とみているから、白虹説のように、並列し、比較した評価のほうに賛成するのである。
 山本謙吉の俳句作品評価には、氏の好悪感、ときには状況的配慮が根深く働いている場合が多かった。客観性に欠ける面があったわけだが、しづの女の評価にもそれがあるとおもう。
しづの女の久女評の一部を引用してみる。
〈氏(久女のこと・引用者注)は二タ言目にはプロ作家をふりまわさるる。
氏の筆にな随筆中にも随処にこのことは発見されるが、然し、氏がプロ作家を標傍するにも拘らず其作品にプロ的逸品が尠ないのは皮肉である。

寒風に葱ひくわれに絃歌やめ

足袋つぐやノラともならず教師妻

が秀句であるとしても、プロの真個のプロとは凡そ距離が遠い。。私は、氏は、やはり吾々と等しい中間インテリ層の悩みを体験する時代の最もキリスト的な一員だと思う。第二義的な生活者か、決して第一義的なものは生れぬという誰かの誰かの名言を思う事である。
久女に、〈妖艶な姿態美〉〈アカデミックな点、凛とした遒勁句風〉を見、〈元禄天明を通じて唯一のインテリ作家星布女に通い〉とし〈宇野千代を思わしめ、男性をしのぐ偉才は額田女王にも肖る)とまで褒め上げたあとに、この文が出てくるところに、しづの女の甘えを許さぬ意思の姿勢が覗く。
 吉岡禅寺洞が、〈竃を焚き大根を刻む中から俳句が生れなくては−−というのが、しづの女さんの一つの主義とするところでもあった(後略)〉と昭和五年(一九三〇)に書いていたことがおもいあわされるのである。

子といくは亡き夫といく月真澄      竹下しづの女

 同定本句文集所収。昭和十四年(一九三九)作。『成層圏』誌上で読んで、この「子」は長男の龍骨なのだろう、と単純におもったことが記憶の底にある。「子といくは」に、成長した長男を見る母の目を知るのは、むろん後のこと。定本句文集のなかの、香西照雄の鑑賞でも、〈句作当時農学部在学中の長男吉信(よしのぶ)氏(俳号龍骨)だろう。〉とあった。このとき龍骨二十五歳、しづの女五十三歳。夫は六年前に他界していて、以来、しづの女は福岡市立図書館の司書を勤めて、二男二女を育ててきた。龍骨はこの翌年九大農学部を卒茉して大学院に残るが、昭和十二年(一九三七)以来発行をつづけてきた『成層圏』(昭和十六年・一九四一休刊)にも力を尽していた。母にとっては頼もしい成長ぶりたったのだ。
 しかも、夫も農学を専攻して、亡くなったときは県立農学校の校長だった。龍骨の容姿に夫の姿を重ね合わせているしづの女の目が、よく晴れて、まんまるな月の、真澄のひかりのなかに見ひらかれているのだ。
 「月真澄」をそのままの景として受けとる。これを未亡人の貞潔に結びつける〈俗解〉があると香西は歎いていたが、同感である。ただそのままの景、成長した子と苦労して育てた母とが並んで歩いてゆく、月のなかの景。
 いま私は苦労して育てた母といったが、この時期の句だけでも、〈怒り)の句が多いのである。いくつかを拾ってみる。「我を怒らしめこの月まろからしむ」「埋火に怒りを握るこぶしあり」「悲憤あり吐きし西瓜の種黒く」「裂帛の怒りを恚り鵯ゆづらず」・・・などまだまだあるが。「我を怒らしめ」以外は感心する句はない。その〈怒り)と係わるように、「壁炉美し吾れ令色を敢えてなす」「壁炉眩し子故に推してかくは訪ふ」があり。また「鉄扉して図書と骸の歳と棲む」「花吹雪く窓をそがひに司書老いたり」「書にふれてううれしさのみにかじかめる」のような。歳を加えて司書の仕事を勤める自分への自嘲ととも自虐ともつかぬ作がある。あるいは、「悪妻の悪母の吾の年いそぐ」もある。
「女人高邁」と言い切る女人にしてこの句あり。とおもうわけだが。これがしづの女の〈実生活〉だったのだ。だから久女への目の厳しさがある。そして、成長した子と月真澄のひかりのなかゆくときなどは、救われような心情のの寛ぎを得ていあたのだ。ときとしって、昂然ととして、そして浩然ともなって「女人高邁」と自らを納得させることもあったのである。

 金色の尾を見られつゝ穴惑ふ      竹下しづの女

この句を何時どこで読んだのか、覚えてはいないが、やはり昭和十四年の作だから水戸の学生のころ読んだものに連いない。「女人高邁」一の句以来、私はしづの女の俳句を探すようにして読んでいた。『成層圏」だけでなく、『ホトトギス』までも覗くこともあった。
そうして読んだなかで、この作は分り難いものの一つだった。主観の表現をもとめるが故に、写生に大いに拘泥して、句作をしばらく止めていた時期もあるくらいだから、この人に描写の簡明を期待するのは間違っている。しかし、その主観の句といえども、じつは分り難いものは少ないのだ。それだけに、この句のなんともいえぬ分り難さが気になっていた。
「金色の尾」が、穴に入ろうとして惑っている蛇の尾そのものの、秋の光のなかの描写なのか。それにしては「金色」がいささか過剰措辞とおもえるが、そうなると、描写以上に何かの喩を含んでいるのに違いないとおもえてくる。勘繰れば、惑える秋の蛇の衿侍を表わそうとしたものなのか。しかし、金色のなかに秋の光を感じるとき、この衿侍に寂蓼が宿る。ああ、丈高く惑えるものよ、ということなのか。
 そんなぐあいに勘繰りながら私の頭に溜ったままでいたのだが、いま改めて鑑賞しようとしてみると、竹下しづの女の容姿が現われてきたのである。そして、「女人高邁」の衿持の「金色」。「見られつゝ」となったときの恥らいのような気持の翳。その翳が「穴惑ふ」と重なったときの、自画とも受けとれるほどの感応。それをどこかで労わろうとしているかに見える内面の綾。ーー複雑な印象が重複してきたのだ。
 苦労の日常を丈高く生き通そうとする女人の有り態が、この重複した印象のなかに見えてきた、といかえてもよい。有り態を暗示的に書いた句、と読みながら、私はますますしづの女俳句への親近をふかめていたわけである。