本-開[朝の連続小説 バス太郎孤軍奮闘記]本-開

<出会い〜発展〜挫折〜復活〜失敗〜失意〜色即是空の悟りの境地編>

<<この小説はフィクションであり、登場人物は実在の人とは関係ありません>>

「バス太郎の誓い」幼少期・中学・高校・大学・留学編・帰国活動編バックナンバー

「バウツェン音楽祭マスタークラス教授に」No.25

 シューベルト生誕200年を記念して各国で様々な催し物がされました。シューベルトに恩恵を受けるバス太郎にもその催し物への誘いがあったのです。

「バス太郎〜!元気?来年の春休み何してる?シューベルトのお誕生会を旧東ドイツのバウツェンと言う街でやるから来れないか?鱒やろう!それからマスタークラスも担当して欲しいんだ!!」

ウィーンでの初リサイタルで名伴奏をしてくれたシェトラー教授からのお誘いでした。

「え〜〜!そんな嬉しいこと・・・・、ちょっとまって、来年のスケジュール見てくる。」うーん、予定は若干入ってるけど、自分が主催する室内オケの本番だから、なんとか代役たてれるかな「大丈夫、行きます。行きます!」

と、バス太郎は嬉しくて二つ返事でOKの返事をしてしまいました。

ところでバウツェンって何処?欧州の地図で探してみると、ドレスデンより西に向かって、ほとんどポーランドの国境に近い田舎街のようでした。その後ドイツの事務局より参加申込用紙やパンフレットが送られてきたので、弟子達にも誘いました。古城が街の中心にある中世からの歴史或る街の写真を見て感激しました。「こんな素敵な古都でマスタークラス客員教授によばれたんだ」と、自分でも吃驚です。すぐさまウィーンに留学中の弟子にも連絡し、日本から参加する弟子達と合流してくれました。行ってみるとチェコスロバキアや西ドイツからも受講生がいて十数名が申し込まれたようでした。

コントラバスを運ぶためにウィーンでレンタカーを借りてくれた親友のウィーン国立音大チェンバロのライナー教授が、なんと800キロもの距離を運転してバウツェンまで送ってくれたのです。それは共通の目的もあったからでもあります。北イタリアのクレモナに並ぶドイツの弦楽器製造の街へ立ち寄る計画でした。楽器や弓のマイスター工房が建ち並ぶ東ドイツの弦楽器の拠点マルクノイキルヘンの街に寄り感激しました。なんとバス太郎が始めて楽器を持ったときに一緒に買った弓の制作者、ホイヤー氏の工房や、何本も自分や弟子の為に買った事があるプレッチナー氏の工房へも立ち寄り、マイスターに会えたのです。特にホイヤー氏には

「僕はコントラバスを始めた時、貴方の作られた弓を偶然もってウィーン留学中まで10年近く弾き続けたバス太郎と言います!」と自己紹介すると。

「ああ、貴方ですね、バウツェン音楽祭でコントラバスのマスタークラスされる日本人の教授は!!!」と、名前を覚えていて下さったので、嬉しくなり、

「最初持った弓はもう腰が弱ってしまったのでもう使えません、私のために強い弓を譲ってもらえませんか?」と、訪ねると、

「これがいいでしょう!」と、ホイヤー氏が直々にバス太郎の体格や腕の強さを確認して一本の弓を差し出してくれたのでした。

その弓を持ってマスタークラスが始まる前に企画されていたピアノ五重奏「鱒」をバウツェンの古い教会やチッタウと言う東ドイツ国境の街の大聖堂で公演したのです。ヴァイオリンとヴィオラそしてチェロは元、ドレスデンフィルのコンマスや首席奏者で結成されたドイツ・トリオの皆さんで初顔合わせです。本番では東ドイツ独特の重厚で厳格なアンサンブルとバス太郎が何度もレコードで中学生の頃聴いて目標と目指した超本格派のドイツ伝統のトリオの音はバス太郎を幸せにしてくれたのです。もう、バス太郎も彼らの音楽に反応して、昔ベルリン弦楽四重奏団と共演した鱒を思い出しながら雄大にのびのびと演奏したのです。すると大聖堂の教会に集まった大観衆に鳴りやまぬ拍手喝采を受け、興奮して楽屋まで訪ねてこられた人々にバス太郎は取り囲まれ身動きできない状態になってしまいました。

「あなたは本当に日本人ですか?」

「生粋の日本人ですよ!」

「几帳面で確実な技術で繊細に演奏すると定評あるドイツのオケで活躍する日本人は知っていますが、貴方のような大陸的なスケールの大きな演奏される日本人は見たことも聴いたこともありません。私達ドイツ人が求める緊密な正確さと心地よい低音のビート、そして何よりも迫力或るパワーがドイツ魂の神髄として、目と耳と頭と心の体中に響いてきたから本当に驚き感動しました。」「日本人にも凄い人がいるんですね!」「元気をもらいました!」「楽しかったです!」「素晴らしいシューベルトでした!」

次々と口々に演奏後の感想を聞かせて下さり、また共演したドイツ・トリオのメンバーも最初の顔合わせの態度と全く違って尊敬の目で見てくれたのです。なによりも嬉しかったのは、招聘して下さったシェトラー教授が

「いままで欧米で鱒を弾いたり聴いたりしたけど、バス太郎のコンバスは、今までの誰よりも理想的なバスだったよ!素晴らしかった!」と、勿体ないお褒めの言葉を頂戴したのですから、かえってバス太郎は吃驚仰天して開場の教会を出るとき自分の幸運に感謝の祈りを神に捧げてしまう程でした。

そして、後から知ったのですが、古くなった教会を復興するチャリティー公演でもありドレスデン銀行の頭取や市長など、この地域の名士が一堂に聴きに来られていたことと、募金がかなり集まり、演奏した中世の教会が修復復興される決定が、このコンサートを期にされた事でした。

「音楽の力はすごい!市民の心の拠となってる教会を復興させる切っ掛けにもなれたし、国際交流も出来る!なんて素晴らしいんだろう!」バス太郎は夢見心地でまるで別世界の別人の様に2週間の旧東ドイツ滞在を過ごしたのでした。

「2回目のウィーンリサイタル」No.26

既に音楽の館の定期演奏会も130回を過ぎた頃、これまでウィーンを中心に欧州から日本全国へ来日公演される音楽家の常宿となり、彼らをお世話続けた事が、時差が8時間もある距離なのに欧州と太いパイプで繋がれ、また、ウィーンの日本贔屓芸術家達の話題の中心にバス太郎の郷里の寺がとりだたされていたのです。

そんな話題で繋がったウィーン在住の芸術家達が

「いつも日本でお世話になりっぱなしだから、その御恩返しにバス太郎をウィーンに招聘しよう!」と盛り上がった様です。

ウィーン国立音大の教授でピアノのシェトラー教授、チェンバロのライナー教授、ヴィオラのフュールリンガー教授、古楽器のバスケス教授、ウィーン・フィルのサガト氏、ウィーン交響楽団のアッマーマン氏、ウィーン金管五重奏団、そしてウィーンの在住の音楽家の日本人会の皆さんが中心になってバス太郎のリサイタルを準備してくださったのです。

なんとも勿体ない話ですが、その上、日本のプロオケに移籍在団していた頃より演奏会共演で知り合いになった、元、スロバキアフィルのコンマスやチェリストがブラチスラバでも企画しようと言って下さったのです。

スロバキアへは、音楽の館でちょうどジュニア合奏団が発足して直接指導はしないで代表の名前だけのバス太郎でしたが、その子供達にも本場の空気を見せてあげたくなりジュニア合奏団と父兄、そして姉たちが指導してる合唱団にもチャンスを与えたく、スロバキアの子供達との交歓演奏会に変更したのです。

そんなわけで、バス太郎のウィーンリサイタルは大所帯のツアー団体となり修学旅行を引率する先生と旅行会社添乗員の役までバス太郎は自分の練習や準備を犠牲にしてまで団体旅行を決行したのです。

演奏会場はハプスブルク家時代の宮殿を残し現在はANA全日空ホテルが買い取った舞踏会の演奏会場です。シェトラー氏の伴奏でフュールリンガー教授が共演してくださりディッタースドルフのヴィオラとコントラバスの為のコンチャルタンテを優雅な響きで演奏してくださり前半のプログラムを終了、後半はボッテシーニの難曲を並べて演奏しました。すると、なんと、開場に今世紀最高のボッテシーニ奏者と世界が認めるシュトライヒャー師匠がご夫婦でお座りになってる姿が目に飛び込んできました。

「やばい!!まさか聴きに出てくるなんて事など絶対ない!と安心してたのに!!!!」

冷や汗がどっと体中に流れました。しかし演奏を止めるわけにもいかず、緊張しながら、驚愕を誤魔化すために曲間にドイツ語で曲目解説をバス太郎は始めたのです。それはシュトライヒャー先生のリサイタルではいつも唐突に話し出し開場を爆笑の渦にしてサービス精神旺盛な演奏スタイルを思い出したからです。

バス太郎の訳の分からないドイツ語でのしゃべりも、文法の間違いか、内容の笑いか解らないままに開場に爆笑がおこり雰囲気が和やかになりました。

後で考えれば、それもそのはず。半分以上のお客様が一回目のリサイタルでファンになって下さった聴衆の旁々や、バス太郎の知り合いだったり、発起人達の家族や友人を誘ってくださったりして、好意的なお客様だったのですから大盛会に演奏会を終演できたのです。

終演後すぐさま客席のシュトライヒャー先生のもとへバス太郎は走っていきました。

「先生!ごめんなさい!下手くそな演奏して先生のお顔に泥をかけてしまいました」

「いや、そうでもない。よかったよ!ただしアンコールは気に入らない!」

「ははー!」

「あれはトロンボーンの曲でコンバスの曲じゃないやろ!あほボケまぬけ!」

と笑いながら怒られてしまいました。

その後、ウィーン金管五重奏のトロンボーン奏者が楽屋に飛び込んできて、

「バス太郎!!ありがとう!」

「はあ?」

「アンコールにトロンボーンの曲を弾いてくれて嬉しかったよ!!」

う〜〜ん。コンサートの選曲は日本での様に思いつきでやってたらあかんな・・・、なんたって音楽の都ウィーンで2回目のリサイタルさせて頂いたんだからな・・・・。

と、打上で大酒飲んでバス太郎ウィーンリサイタル実行委員会発起人の旧知の仲間と感動と感激の素晴らしい夜を過ごした後、一人ベットで反省しつつ、翌日はジュニア弦楽合奏団と合唱団を連れてブラチスラバ公演に出発しました。

日本から連れてきた子供達も父兄も合唱団も昨夜のバス太郎のステージで感動して下さった様子で、これまで、ウィーンまでの旅行の添乗員かマネージャー下働きのおっさん扱いしてた皆が、目にハートマークが映るほどの眼差しで見てくれたのです。

ですから、ブラチスラバ到着後の練習も気合いが入り子供達の弦楽合奏も大人の合唱団も精一杯の力を出し切り立派な演奏をしてくれたため現地のジュニア合奏団との交歓会も最高に盛り上がったのでした。

「覚悟はしていたつもりでも・・・」No.27

死刑執行が決まった日までの最後の足掻きの様に、バス太郎が東西奔走し世界中へ国際交流の友好の輪を広げつつ独奏・室内楽・オーケストラでのコンバス演奏、室内楽団やオーケストラの設立から音楽監督兼指揮活動、音高・音大・夏期大学・音楽祭での非常勤から客演教授から国際コントラバスセミナーの毎年の開催での後進の育成、作曲・編曲・音楽月刊誌連載などの執筆活動、音楽の館定期演奏会の月例会継続などで音楽家を海外から招聘する音楽事務所活動、などなど日本音楽文化発展を担ってなどと意識するとしないに拘わらず、急いで一気に駆け抜けた半生は、活動期限をなんとなく悟っていたからでした。

そしてついに、その日が来たのです。寺の壇信徒総代と役員が訪れ

「バス太郎さん、住職がご老体となり、いよいよ体調良くなく、前回の葬式の導師されても、非常に辛そうでした。もう、お父さんに任せられるのは無理でしょう?!貴方が住職に就任してください。これは、壇信徒一同の願いです!お願いします!」

「はっ、解りました!普山式の準備の手続きをさせていただきます。」

覚悟はしていたものの、ついにその日が来てしまったと、心を入れ替え自らを厳しく鞭を入れながら法務局や本山への住職交代手続きを一人まだまだ複雑な心境で孤独に始めたのです。

父であり偉大な師匠である住職を継ぐ事は、バス太郎にとって別世界の仕事であり、そのプレッシャーはリサイタル本番の比ではありませんでした。

だから、高校より音楽の道に進み、寺を逃げて捨てる覚悟でもあったのです。ところがウィーン留学中に一時帰国して比叡山に60日籠山して修行をして以来、心境に変化が起こり自分に与えられた使命を感じ始めていたので、この日が来る事への心の準備は或る程度していたつもりでした。その上で残された時間を突っ走ったのでした。

もう一つ、理由もありました。それは、先代住職から子供の頃聞かされていた言葉が心に残っていたからです。

「バス太郎、別に寺を継がなくてもいいんだよ!社会に貢献できて社会から必要な人となるならどんな仕事でもいい!好きなことをやればいいんだよ!」と、言う言葉を頂戴していたことと、

「住職というのは、自分がやりたいと言って手をあげるのではない!寺は住職個人の持ち物でも財産でもない!壇信徒や地域の有形無形の財産なんだ!それを管理するのが住職の仕事であり、壇家や地域社会に布教実践する場所なんだよ!だから壇家から望まれた人が住職としてその寺に迎え入れるのが本道なんだよ!本山からでも、弟子からでもいい!別に世襲制でなくていいんだよ!」

と、言われたことが記憶に残っていたのです。しかし、今回、その言われた条件を満たし、壇信徒総代が頼みに来られたのですから責任を果たすべき決断を行動を速やかに執り行ったのです。

普山式には全壇信徒がお祝いに参列され、関係の寺院住職、本山や別格本山からも参列してくださいました。また、式典の寺院から開場をプラザホテルに移しての祝賀会には3つの宴会場を1つにぶち抜く大広間いっぱいに、関係住職、親族関係、壇信徒、政財界、文化人、そして音楽関係の付き合いの仲間まで参列する大宴会になったのです。

ここまでしていただいては、後には引けません。バス太郎の音楽にかけた情熱を寺院復興に切り替えたのです。ただ、音楽の世界では国際的にも教える立場にまで上り詰めましたが、お寺の事となると小学生以下です。いまから総てを学ばなくてはと、父の書斎に籠り寝る暇を惜しんで慣れない勉強机に座り猛勉強を始めたのです。

「父の遷化、母の脳梗塞、師匠の訃報」No.28

住職就任したバス太郎は右も左も解らない事だらけでした。病臥に伏し自宅療養中の父の枕元で様々なアドバイスを受けながら、父の悲願であった寺院復興に奔走したのです。阪神大震災の被害を受け、どのような形で復興するか、バス太郎が住職に就任するまで既に60回以上の復興委員会の会議がなあされていましたが、何度も計画が倒れ前に進んでいませんでした。ちょうど、その頃に地元のから世界的シェアを持つ企業に一代でなされた社長が震災復興委員長に就任され、その補佐に市会議員が就任して下さったのです。住職としては若く新参者のバス太郎でしたが、持ち前の誠実で一生懸命尽くす奉仕の精神、そして音楽武者修行の世界でいつのまにか養った、偉大な人たちからファンまでの心と心を通じ合わせた自信から、4億円にのぼる寄付金を集め三つのお堂・山門・境内石畳参道・参詣者駐車場などを復興完成させたのです。ところが、その大復興期間中に、バス太郎がもっとも心の支えとして尊敬していた師僧の父が正月を共に祝ったその6日後、即身成仏の様に大往生されてしまったのです。

「おやじ〜〜〜!まだ、行ったらあかん・・・・!まだ、震災復興終わっていない!」

「師匠が幼少の頃の御遠忌大法会で25菩薩来迎練り供養を見て以来、途絶えたままの25菩薩を今年の落慶法要で83年振りに復活させて、もう一度この世で見ていただく為に身を粉にして一生懸命頑張ったんだよ!!お願いだから、まだ行かないで!」

「お願いだから〜〜〜、完全復興した境内伽藍と落慶法要の晴れ姿と25菩薩来迎練り供養を見てよ!見てよ・・・、み・て・よ・・。」いくら叫んでも父はもう返事をしてくれませんでした。

比叡山より座主猊下が葬儀の導師を務めるために山から来て下さり、地域県下はもとより全国から弔問に訪れられた数は8000人を越える葬儀となり、改めて「父を偲んでいたのは家族だけでなく、父の人生に出会い感銘を受けた一人一人が、この弔問に来られてるんだ。それぞれが崇敬され、御恩を感じておられたんだな・・・、すごい父だったな〜〜」と枯れた涙のなかつくづく思ったのでした。

そして、まるで父を亡くした悲しみを忘れるように震災復興の為に寝る暇を惜しんで、プライベートな事などは総て犠牲にして一心に働き、一周忌を終えた初夏に漸く寺領すべてを復興完成させたのです。1200年の歴史の中、幾度と無く盛衰を繰り返した寺ですが、歴史の一瞬でもある平成の落慶法要の準備を整えたバス太郎が、光栄にも落慶法要の大導師に選ばれたのです。しかし、4億円にもなる寄付金の事務的な処理から、落慶当日のタイムテーブルまで、一人で徹夜を続けていたため、立ってる事すら朦朧とした霧の中にいる状況でした。そんな、激動の日々の中、心配した母も連日サポート裏方に徹してくださったのですが、落慶を迎える2日前に限界を超え脳梗塞で倒れ救急車で即入院と言う災難にもあわれてしまったのです。しかも、一番助けて欲しいこの時期にバス太郎の一身上の都合で、愛する家族は相次ぐ非常事態に寺を出て別居してしまいました。もう、孤軍奮闘ながらも責任を全うしなければ父の師匠やご先祖様の歴代住職にも申し訳が立たないと「私」を殺し「公」を表に四面楚歌な状況をなんとか心身共にボロボロになってやり遂げはしたものの、一番復興を望んでた父は浄土から、母は入院先の病棟で、家族は離散状態で結局身内は誰もいない孤独な中、公の立場を貫き通したバス太郎は、唯、重大な歴史的責任を全うする為に多くを失ったのです。将に私事から出家したバス太郎は、釈尊はどんな心境だったのだろう、教信上人は、親鸞上人は、一遍上人は、と偉大なる先達者の心境のほんの片隅だけでも感じた気にもなったのでした。

「己を忘れて他を利する」精神で協力してくださった多くの壇信徒総代様や地域事業所社長様、そして復興委員会会長を始めとする委員会の皆さんの多大なる協力のお陰で、平成の落慶は成功裏に終え、地域は勿論、全国的にも大反響を得たのです。それは、落慶後の団体参詣者の大型バスの数の多さでも証明されました。行楽シーズンは勿論、四季を通して土日祭日には全国から観光バスを連ねてお参りに来て下さるようになったのです。

バス太郎はこの事だけでも、死ぬ思いをして落慶まで漕ぎ着けた苦労を報われたきがして束の間の安堵をしていたのですが、今度はウィーンの師匠が亡くなられたとの訃報が飛び込んできたのです。

「100歳までは現役でコントラバスを弾き続けられると信じていたのに・・・・!20世紀最高のコントラバス奏者でありながらも、政略的な余計なことは一切しないで、その演奏一つで世界を制した偉大なる師匠!人間的に素朴で総ての人に音楽の愛を与え、親が子供を育てるように弟子に接してくださった、僕のもう一人のお父さん!まってて!今すぐウィーンに行く!!」

と、願っても住職就任前から5年間にも及ぶ募金活動と工事関係から代表住職主任しての落慶法要まで、宗教法人管轄としての県庁に収支決算報告の期限が迫っていたのです。

「いまウィーンに飛び立つことは出来ない!葬儀に参列して冥福を祈り感謝を捧げたい!」

でも、多くの旁々に寄附を頂戴して復興させた責任者として、席を外せるはずもなく、取り合えず日本中の門下生やご縁のあったバス奏者に連絡を取り、日本の弟子一同から葬儀に大きな花輪を献花する呼びかけをしました。

「バス太郎!連絡してくれて有り難う!献花させていただきます!」

と、N響、読響、新日フィル、札響、大フィル、神フィル、九響、他多くのプロオケで活躍する弟子や大学で教える弟子、ともに学び笑ったコンバスセミナー関係者から一斉に献花お供えが集まり、葬儀に参列した先輩に託して花輪を準備していただきました。なんとその日本の弟子からの花輪が葬儀のウィーンの教会でもっとも大きく、

「まるで花達が弟子達の気持ちを代弁して先生に感謝を陳べているようだったよ!気持ちが届いたよ!これもバス太郎のお陰だよ!」

と、後日報告され、なんとか葬儀参列できなかった情けない気持ちだけは落ち着いたのでした。

「40度の熱に入院」No.29

偉大なる父を亡くしたショックと、その後に次々と覆い被さった難題を解決するエネルギーと精神力は人生始まって以来のプレッシャーでした。しかし、一周忌を迎えるまではあまりの忙しさに病気をする暇もなかったのですが、住職の仕事にも慣れて漸く要領がつかめてきた頃になって、バス太郎は原因不明の高熱に冒されたのです。

先代住職も教職を兼務しなければ生活に不安定な寺院経営を強いられていたので、バス太郎も、住職を兼務しながら、講義時間を急遽変更できる大学などでの教育活動や、いつ葬式が出来ても帰れる様に行動半径を縮小した演奏活動での副収入を続けていました。ある日、近県でのオーケストラ公演の時に異変を感じたのです。オーケストラの作品は殆ど弾きつくしたので、オケの本番で弾くことは、仕事と言うより、むしろ寺の仕事からリフレッシュできる休暇のようなものなのに、本番中に何故か冷や汗が止まらなくなったのです。隣で弾いてる仲間にあまりに汗が出るので

「この開場、夏なのに冷房きいてないのかな??熱くない???」

「いいえ、僕は冷房が効きすぎて寒いぐらいですが、バス太郎さんすごい汗ですね、熱でもあるのではないですか?」

と、心配されて、自分だけが大汗かいてるのに気が付きました。しかし、毎回リサイタルや分厚い音を要求される交響曲では熱演して当たり前に汗をかいていたので、言われるまで気が付かなかったのです。確かにいま弾いてる曲は汗をかいて弾くほどの大曲でも情熱的な曲でもない楽な曲だったのです。

本番後、宿泊ホテルへ帰ると、今度は寒くて震えが止まらないのです。隣の部屋に泊まってる仲間に

「このホテルのクーラー効きすぎてないか??」と、電話すると、部屋まで来てくれました。

「バス太郎さん、この部屋は自分が泊まってる部屋に比べるとサウナのように熱いですよ!その震えはクーラーのせいじゃないですよ!」

翌日の本番を震えながら弾いて、すぐに帰宅しました。布団に入って、初夏なのに毛布を出して布団にもぐり込んでも震えが止まらず頭痛に苦しんだのです。病院に縁のなかったバス太郎も、今回だけは我慢できずに、しかしまあ風邪だろうから適切な薬を処方してもらえばいいやと病院へ診察に出向いたのです。ところが、先生に診察されて

「いつから、こんな状態ですか?ほかにどんな症状がありますか?」と聞かれたもんだから

「はい、一週間ほどまえから頭が割れるように痛くなり、目の奥に鈍痛があり、急に汗をかいたり、急に震えが来て寒くなったりするんです。」

「そうかい、じゃあ、熱を計ってみよう!・・・・・おおおお42度もあるじゃないか!!あんた、死ぬよ!即入院しなさい!」

「はあ?入院??何ですか風邪じゃないんですか?病名は?」

「それが解るまで入院じゃ!だいたい一週間も40度以上の熱が続けば人は死ぬんだよ!」

と、脅かされ、大人しく入院したのです。ところが、一ヶ月入院しても症状は変わらず、一日に2回の周期で合計4回やってくる大汗をかく発熱と震えが止まらない悪寒に戦いながら、それでも、その周期の合間のいざなぎ状態の時に、食べれなく枕元に置いてあった食事をする気力だけは失せてなかったので命は長らえていたのです。

「バス太郎さん、すごい生命力ですよ!こんな長期間高熱に冒されながら、そんな食欲がある人なんて見たこと無いですよ!」と入れ替わり立ち替わる看護婦が言うのでした。

偏頭痛が原因だろうと言うので入院した病院が町医者の脳神経外科だったのですが、高熱の原因が特定できないまま一ヶ月過ぎました。その間に国立大学病院から派遣される先生が毎週診察に来ました。

「バス太郎さん、毎週来て見ても変化無く高熱が続いてますね!このままだと普通は死にます。大学病院へ移ってください!徹底的に原因を究明しましょう!」

「はい、お願いします。こんな汗をかいたり寒気がしては、着替えが大変ですから・・・・。大学病院では可愛い若い看護婦さんが着替えさせてくれますかね?」

生死をさまよう高熱にもまだ馬鹿な冗談を言う元気はありました。先生に笑われながらも、すぐさま硬い表情になって、救急車で大学病院へ移されたのでした。

大学病院の内科へ移され、担当医の教授回診から直接の担当医まで数名のグループで毎日検査が始まりました。期待していた看護婦はやはり皆さん若くて優秀でした。しかし、直接の毎日担当する主治医が大学院インターンを終えたばかりの新任で、しかもポニーテールの似合う女医さんだたのです。

「可愛い先生と看護婦さんに世話して貰って嬉しいけど、大丈夫なのかな????」と少し心配でした。そこへ、女医さんが来て

「バス太郎さん、おはようございます。採血しま〜す。腕だしてね!」

「はいどうぞ」「痛い、点滴が血管に入って無くてもれてるよ!」

「あら〜、ごめんなさい!私、血管注射初心者なんです。」

毎日の点滴注射の失敗が続き、腕は痣だらけになってしまいました。ですから条件反射で女医さんが「おはよーございます」と来ると腕が硬直するほどでした。ある日、女医さんが休みの日、看護婦が点滴に来ました。すると、何の痛みもない間に点滴注射針が入ってるのです。

「へー、上手ですね!流石ですね!」

「ありがとうございます。私達は毎日何百本も注射してますからね。それにしてもバス太郎さん我慢強いですね、新任の先生は痛いでしょうに・・・。」

それから翌日、再び出勤した、ポニーテールの注射が始まったのです、

「バス太郎さん、ごめんなさい!私まだまだ注射が下手なんです。痛い思いさせてごめんなさい!」と、看護婦に言われたのか涙ながらに誤るので

「いいよ、僕の腕で練習して!そのかわり、次に担当する患者さんに痛い思いさせないでね!」

こうしてバス太郎の腕で練習を重ねた女医さんとも身の上話をお互いにするほど仲良くなり、注射も上手になってくれたのですが、バス太郎の熱はまだ下がらなかったのです。こうして生死のちまたをさまよいながらも、二ヶ月目になってやがて総合的な検査の結果が解ったのです。骨髄炎から髄膜炎を引き起こし、骨盤から上、4つ目の背骨がウィルスによって侵食され骨の中が空っぽにされていたので高熱を発していたのです。大変危険な状態です。

「再び」No.30

奇跡的に快復したバス太郎は退院後の療養を終え再び活動を開始しました。それは生死をさまよったお陰で、むちゃくちゃな生活をしていた大病前とは人生観が変わり与えられた命の尊さや、長い伝統を受け継ぐ寺の住職としての使命を痛切に感じるようになっていました。

ところが、簡単には音楽を捨てきれないでいる自分に葛藤し、健康に回復しても精神的には苦しんでいたのです。演奏旅行中いつも携帯電話が鳴ると、葬式が出来たのではないかとハラハラしながら行動をしなくては成らないため、もう遠方での新しく入った仕事は総て断り続けました。しかし、入院前から予定が入ってた仕事もこなさなければなりません。その中には国内でなくザルツブルク近郊のシュラートミング夏期音楽大学の客員教授としてマスタークラス担当する国際的な活動も残っていたのです。

まさかの葬式の時のために近所の寺の住職に渡航中の代役をお願いし、壇信徒総代だけに2週間の留守を説明理解していただいて出発する準備を整えたのです。

「総代さん、村に葬式が出来ないことを祈って出かけます。まさかの時の段取りだけはしていますので、これだけは行かせてください!」と言うと

「ご住職様は、唯の住職さんでなく世界的に必要とされている方ですから、壇信徒も、むしろ誇りに思っています。どうぞ行ってきて下さい。葬式が出来たときは困りますが、私がなんとか説き伏せますから、ご安心を!」

感謝しながら関西国際空港から飛び立ち、国際線から国内線に乗り継ぎザルツブルクに到着しました。そこからスイスの国境方面のアルプス山脈の梺で冬は国際スキー大会でも有名なシュラートミングまで送迎バスでアウトバーンを飛びして約2時間、3000m級の山に囲まれた美しい街に日本から参加した弟子達一行と共に到着しました。

出迎えてくれたのは町長を始め音楽祭実行委員の皆さんでした

「ようこそシュラートミングへ、お待ちしていました!」

「初めまして、バス太郎です。今回はドイツのヴァイオリン教授・ウィーンのヴィオラ教授・イタリアのファゴット教授・ドイツのピアノ教授に、よく私を日本からお招き下さいました。感謝もうしあげます。コントラバスのマスタークラスは欧州でも珍しいでしょ?」

「そうですね、でも、このシュラートミング音楽祭ではウィーンの巨匠シュトライヒャー教授にお越し頂いたこともあるんですよ。」

「ええええ、シュトライヒャー教授は僕の師匠です。そんな巨匠の後に私が担当なんて光栄極まりないです。ありがとうございます」

こうして10日間毎日マスタークラスでのレッスンを始めました。夏休み中の中学校を開場に借りてのレッスン室にウィーン大学からお借りしたコントラバスが8本並んで準備されていました。受講者達もレッスン以外はこれで思う存分練習できます。

ところが、宿舎のホテルやペンションから通学する途中、絵に描いたような美しい街並みや遠くに聳え立つアルプスの山々、山から流れ落ちる渓谷、山麓の丘に放し飼いされて長閑に草を食べる牛や羊、素朴で優しい街の人々が経営するレストランの美味しい料理、レッスン室に籠もりっぱなしでは勿体ないと、教授権限でバス太郎は一日休講にしてザルツカンマーグート観光にしたのです。

ヴォルフガング湖の遊覧、妖精が住んでいそうなハルシュタット、ザルツブルグの大司教の別荘だった水遊び噴のバッサーシュピール城、ザルツブルグではモーツアルトの生家、素敵な商店街ゲトライデガッセ、大聖堂にホーエンザルツ城、映画サウンド・オブ・ミュージックの撮影名場面となった場所など、受講者を案内し

「この景色が、この自然が、この自然に溶け込む歴史的建造物が、そして、この空や山や湖や川が音楽なんだ、理屈や概念の遊戯でなく、技術や練習だけでもない、今日見た美しい景色をいつまでも忘れないで、今日見て感じた、この素晴らしい感動を演奏で伝える事が本当の音楽なんだよ!」

と、弟子達に一日を惜しみ帰る帰路のバスの中で話をすると、翌日から音色が一変に良くなったのです。そびえ立つ雄大なアルプスの山のような重低音、雪解け水が夏でも流れる渓谷の川の勢いのような躍動的テンポ感、長閑な田園ふうけいのレガートやスラー、山と谷の起伏溢れるダイナミックス、幻想的な静かな湖面のピアニシモ、なにもかもが音楽に繋がりました。

「これでいいんだ!これを伝えたかったんだ!思い切って休講にして観光した成果がこんなに早く表れるなんて!日本の大学の教育はなんか違った方向へいってるな・・・!先ずは教える立場のモノが時期教授や楽長のポジション争いから脱却して、現場で教える教師は、生徒に何を本当に伝えるべきかビジョンを持たなくては、教育とはいえないなー!カリキュラムのマニュアルだけの授業では生徒は何も得られず日本の教育現場は受験地獄と落ちこぼれを産むだけで可哀相だよ」

バス太郎はこの無理をして出国したマスタークラスのお陰で強くそう感じ、住職を兼務しながらも、もうしばらくセミナーや学校教育現場での活動も続ける覚悟をしたのでした。帰国後再びバス太郎は時間と場所の制約を受けながらも独自の活動を展開しはじめたのです。それは、住職の立場としても、お釈迦様の説かれた精神を布教する一つの方法であると考えたからです。

「出家〜旅立ち」No.31

音楽家から住職へ仕事の時間的配分を徐々に移行し、仏道修行者として孤独な出家生活が常となりました。日本全国に出没した演奏活動期は遠い過去の想い出となり、海外での活躍も寺を留守にすることが出来なくなり、あれだけ頻繁に海外出張を繰り返したのも記憶の片隅に残る程になりました。ただ、園児から小中学生に純粋な音楽の喜びや、音楽による美しい自然の情景の想像、人や動物、自然の恵みへの感謝や祈りを演奏を通じて伝えたく、半径300km以内での依頼には、葬式のない友引の日を指定して僅かに活動を残す程度で、自らコンサートホールのステージに立つことは無くなり、バス太郎としてコントラバスを持つことは希な事になったのでした。

住職就任以来、寺院の復興や法務、青少年や一般社会への宗教活動の一環としての活動へシフトした成果も出てきました。阪神大震災より寺院伽藍すべてを復興し、脳梗塞で自由に動けなくなり自宅介護中の母の為に、自坊の庫裡で生活区となる食堂調理場・風呂・トイレ・洗面所、介護寝室や宿直室、寺務所や図書館などの増改築までの交渉と手腕で、常に気配りと労りと奉仕の精神を貫いた姿勢は、多くの壇信徒から住職としての信頼も厚くなっていたのです。

音楽の世界で築いた人脈も、バス太郎の人に好かれる性格と一生懸命精進する姿勢でした。そのまま、仕事が一変しても、結局は人と人のつながりは心を許しあい尊敬しあいともに同じ方向を見る目標に向かって一生懸命精進することなのですから、住職になっても、徐々に信頼を得て、あらたな人脈も広がりを見せたのです。

平穏な初老の時期も半ば、やがて自分が寺に普山した懐かしい頃を思い出しながら、後継者の弟子が普山式で壇信徒から迎えられ、バス太郎は隠居生活に入ったある日のこと、

「あれ、親父!どうしたん!」一瞬姿が見えたのです。続いて

「ああああ!シュトライヒャー先生や!わー、お久しぶりです!!」その向こうに、

「わっ、クーゼビツキーさん?ボッテシーニーさん?」

「あれまあ、バンハルさんにディッタースドルフ!わああすごい!始めてお目にかかり光栄です。」そのまた向こうに

「おおおお!ヨハン・シュトラウス親子じゃないですか、貴方はブラームスさん?こっちはシューベルトさんにベートーベンさん、わあモーツアルトさんも・・・!」

楽しそうに笑いながらバス太郎を迎えてくれるのです、しかも、まだまだ沢山の憧れの人たちに出会え、皆が笑顔で仲間に入れてもらったのです。そのまたまた向こうには、

「これは教信上人様、お会いして本当に色々お話ししかったです!ああお釈迦様、わあキリスト様も、向こうに光ってるのは阿弥陀如来様まで〜〜〜、すごすぎる!!」もう、感動です。バス太郎は信じられない思いで近づいて行きました。その道すがら多くの懐かしい顔に出会いました。

「あれ、貴方は・・・、ごめんなさい昔ご迷惑をお掛けしていつも反省してました。ああ貴方も・・・あの時はお世話になりながら失礼しました・・・・。貴方には不本意ながらも辛い思いさせてしまって、ごめんなさい!ごめんなさい!」

バス太郎が迷惑をかけたと思いこんでた人々にも出会ったのですが、だれも怒った顔をしていません、皆、笑顔なのです。

「こんな夢みたいな天国とか極楽浄土と理想郷みたいな所が、あるんやな・・・!生きてよかった!ほんまにすごい!色々経験してきたけど、こんな感動始めてや〜!」

しかし、バス太郎が横たわるベットは冷たくなり、この世での命は誰にも気付かれなく既に終わっていたのです。唯、バス太郎が拾って愛情込めて育ててきた捨て猫達が10匹そろって冷たくなったバス太郎に寄り添い一生懸命何日も目覚めて貰うように身体を暖めていました。それどころか、腹を空かした猫達が舐めて起こしても、呼び続けても、決して恩を裏切らない猫達の必死の介抱にもバス太郎は動きません。もう冷たくなった身体は動くことはありませんでした。微笑んだ寝顔に頬ずりする猫に見守れた、それは晩年ついに求めても求められない究極の悟りを開いたバス太郎の静かな旅立ったのでした。それは、時にちょうど108歳の誕生日を迎えた日のことでした。  (2006年12月31日 脱稿)      合掌

 

長い間、誤拝読ありがとうございました。そして最後まで飽きずにお付き合い頂いた読者の皆さまに深く感謝もうしあげます。波瀾万丈の人生でお会いし、ご縁を頂いた貴方に、よりよき新年が迎えられますように心よりお祈り申し上げます。 

ありがとう!

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