本-開[朝の連続小説 バス太郎孤軍奮闘記]本-開

<出会い〜発展〜挫折〜復活〜失敗〜失意〜色即是空の悟りの境地編>

<<この小説はフィクションであり、登場人物は実在の人とは関係ありません>>

「バス太郎の誓い」幼少期・中学・高校・大学・留学編・帰国活動編バックナンバー

「バス弾きに指揮者が多い訳」No.18

コントラバス奏者が指揮者になるケースは珍しくありません。例えばコントラバスのパガニーニと称されるボッテシーニは歴史的な人です。ベルディーの代表的オペラ「アイーダ」の初演の指揮をボッテシーニが担当してるのですから・・・。

また、ロシアからアメリカに亡命したクーゼビスキーのコントラバス協奏曲はコンバスの学生なら必ず試験で弾くことになるでしょう。彼はボストン交響楽団の名誉指揮者として一躍このオーケストラの演奏水準を国際的レベルに持ち上げ、その後、この楽団に小澤征爾が音楽監督兼指揮者として就任した為、日本にもなじみ深い楽団の一つとなりました。

現在活躍してる指揮者でもコントラバス奏者だったり、副科で学んだ者が多いのは、何故なのでしょう。それは、この楽器に与えられた管弦楽の作品で、その演奏の仕事が指揮者に準ずるからです。以下に箇条書きにすると、

(1)小節の頭打ちがほとんどで、テンポ感を伝えオケを引っ張っていく役目がある。

(2)クレッシェンドやディミニエンドなど感動的な効果を低音から仕掛ける。

(3)アッチェレやリットと言った早くなったり遅くするテンポを率先して引っ張る。

(4)ffからppまで、またsffzなどダイナミックス全体を低音から効果をだす。

(5)高い椅子に座って弾くためオーケストラ全体を見渡せる。

(6)弦楽器と管楽器の双方から頼りにされ、仕事の次元が違うので双方と仲良しになれる。

(7)主音を担当するので、それに積み重ねる和声の音程を想定しながら音程の基盤の役目を果たす。

(8)オケ作品では、体力のいる力仕事ではあるが、ヴァイオリンや旋律楽器に比べると演奏レベルではパッセージは難しくなく暇である。

(9)楽器の性格上、これを究めた奏者には、信頼される人格者が多く指揮者にならなくとも組合委員長やオケを動かす事務局長に成る者も多い。

(10)楽器の性格上おおらかで細かい事は気にしなく、公平な気配りが出来て人気者が多い。

以上の項目からもお解りのように、指揮者としての大事な要素がプロオケの首席奏者には既に備わり、あとは音楽的センスと、その気さえあればいつでも指揮者に転向できるのです。前置きが長くなったので、バス太郎の指揮者デビューからの公演談は明日からにしましょう。

「バス太郎マエストロ誕生」No.19

最初は指揮をすることなどに興味はなかったのですが、全国のプロオケからアマオケまで客演が続く中、この人の棒なら、素人の自分が指揮したほうが、何倍もいい音楽が作れると、非音楽的解釈の演奏会で弾かされる苦痛から密かに胸に抱くようになっていました。

しかし、自分から何でも役職や様々な会の長をやりたいと言い出す事は決してしない性格のバス太郎ですから、望まれて始めて指揮をしたのは子供の弦楽オーケストラでした。ある日、その楽団の代表者や指導者が来訪され、

「私達は南ドイツ地方のオーデンバルト地区と交流を続け、神戸市が支援する弦楽ジュニア合奏団なんですけど、2年後に一ヶ月ホームステイしながら南ドイツを巡回公演がきまったんです。先生、なんとか国際文化交流の為に、子供達を指導してアンサンブルのレベルを高めて頂けませんか?お願いします!!」

バス太郎は困惑したのですが、頼まれお願いされると、後に引けなく一生懸命尽くすタイプですから

「解りました。先ず子供達の練習時間を定期的に決め、必ず全員が集合してアンサンブル練習が出来るようにしてくださるなら、お引き受けしましょう!」

と、答えてしまったので、大変です。

自分で自分の首を絞めるとはこのことです。この頃、客演でほとんど家に帰れない程の忙しさだったので、子供達との練習時間を調整するのは大変でした。しかし、そうでもしなければ、自分が音楽監督で指揮者に成る以上、子供の合奏だからと言って音楽に妥協したくなかったのです。かといって、無理難題を強要するのではなく、可能性のある限り努力して、より高い水準へ皆が心を一つにして向かっていく姿勢をバス太郎は子供の楽団や指導者、そして父兄に求めたのです。

バス太郎の音楽に対する純粋な気持ちは父兄にまで伝わり、練習の回数を重ねる毎にジュニア合奏団の演奏レベルが向上してきました。そして、教化合宿には、このジュニア合奏団出身の現役音大生から、音大に進学しないで国公立大学のオーケストラ部で弾いてる青年男女が加わり、また、足りないパートには音大生やフリーで活躍するプロも加わり、人前で演奏させても苦に絶えないレベルとなったのです。

いよいよ神戸から音楽親善使節団としてドイツ巡回に出発です。エキストラの大学生やOL、プロのエキストラ、父兄も数名世話役として参加されるので、ドイツへ向かう途中、バス太郎第2の故郷ウィーンへ一行をまず案内しました。バス太郎の交流で訪ねてくるウィーンフィル団員や音大の教授と一緒に食事も出来たり、市内音楽名所観光も案内したので皆感謝してくれました。そのお陰で、一ヶ月に及ぶドイツ巡回公演では皆が心を一つにして一生懸命演奏に集中してくれたのでした。

そのお陰で、どの公演場所の開場でも、各地その地方新聞やテレビで前触れ宣伝効果もあってか満席となり、一生懸命指揮をするバス太郎と、精一杯それに答える小学校3年生から30歳までの合奏団員はドイツ各地で絶賛されたのでした。

そんな指揮者デビューをしたものだから「うーん。指揮者も悪くないなー」と思ってしまったのです。そして帰国後は次々に指揮者として、今まで共演したソリストからオケ仲間を集め調子に乗って迷惑をかける時期がやがてやってくるのでした。

「東洋と西洋の融合を試みた作曲」No.20

指揮者活動も忙しくなり始めた頃、作曲にまで手を出してしまいました。帰国リサイタルで仏教の師匠である父の随筆から抜粋した朗読に合わせた楽劇「教信沙彌の生涯」の作品が最初でしたが、次に、手がけたのが、子供達が毎晩寝るときに「まんまんちゃんアン」しようとお経を読み始めたのですが、難しすぎると思い、経文を易しい和文にしてメロディーをつけはじめたのです。これが重なり佛教聖歌として一冊の楽譜として出来上がり、ご縁を頂戴した本山の高僧の推薦で比叡山梺の最澄が誕生された生源寺で佛教聖歌の初演となり、その後はハワイ大学ホールで環太平洋地域の仏教系文化交流フェスティヴァルにも合唱団と弦楽合奏団の一行が招かれ公演しました。

またまたその、噂がひろがり、西の比叡山と称される書写山圓教寺が平成の大復興が終わったので落慶法要を音楽法要にしたいと申し出があり、その年に、本山からも京都国際会議場で「一隅を照らす運動中央大会」をオーケストラで盛り上げて欲しいと連続して頼まれてしまいました。

どちらも、二部構成で、二部は良く演奏される管弦楽の名曲をプログラムしたので問題はないのですが、一部は法要とのからみもあり、他の誰にも作曲できない仏教式典での流れの中での演奏です。当然、声明とお経に合う雅楽はあっても洋楽のオーケストラ作品はありません。バス太郎は儀式の声明や経典にも比叡山修行時代に興味を持って修得したので、この全く違う二つの魂を融合させる曲を自ら作曲しようと思い立ったのです。

しかし、家にいると来客や電話の応対、さまざまな野暮用で作曲中アイデアが出てきても中断され忘れてしまうので、なかなか進みません。「これじゃ、間に合わない!」

バス太郎は、一ヶ月間の予定を全てキャンセルして急遽一人ウィーンへ飛び立ちました。

街の中心にある教会シュテファンス寺院の近くにある長期滞在型の常宿アパートを借りて作曲に専念しました。ところが、いつのまにかバス太郎がウィーンに来てると留学中時代の友人や仲間に広がり、またまた、毎日のように来客が途切れず「うーん。日本にいるのと変わらないなー」と、思いつつも、それでも声明と管弦楽の為の作品そして読経と管弦楽の作品は大曲になりました。

音大で一年間管弦楽法と和声を勉強した以外に、別に作曲を専門的に学んだことのないバス太郎です。しかし中学生の頃からオーケストラのレコードを聴きながらスコアを読み、コントラバスで様々な管弦楽作品を演奏し、オペラ劇場に毎晩通い、世界のオケの生演奏を聴いた経験から、頭に浮かぶ音を楽譜にすることが出来たのでした。

作曲が完成して、帰国後、始めてのリハーサルで音だしは緊張しました。上手くお経と合うかのかな?写譜ミスや作曲ミスがないかな??

ところが、主催者や観客、オーケストラの団員からも喝采を頂いたのです。その音楽は圓教寺の三つのお堂にこだまして、実に荘厳に、また幽玄に響いたのです。また、京都国際会議場でも満席のお客様より感動の拍手を頂戴して、バス太郎がイメージした音楽が伝わったと確信し、喜びに溢れ、その反響に逆に感動して、その夜は酔いつぶれたのでした。。。。

「恐るべし国際コンバスセミナーの出会い」No.21

ウィーンフィルの来日公演以外にソロ活動としてシュトライヒャー教授が三度来日されました。その三回ともバス太郎は接待に徹したのですが、二回目の来日公演の最後にバス太郎は自分が作ったホールで演奏して欲しいとお願いしていたのです。3回とも東京の音楽事務所が招聘したのですが、一回目は、ほとんどの国内の主要オケで門下が活躍していた為、札響・読響・N響・シティーフィル・新日フィル・大フィルとの協奏曲が中心でした。都内で4つのオケが同時に同じソリストを選んだのは後にも先にもこの時のシュトライヒャー先生だけでした。そして2回目の時、ソロリサイタル中心でオケとの協演もありました。最後の公演が九響でなんとバス太郎と大学時代の恩師の中先生と共に客演に呼ばれ、そのソリストが留学時代の恩師という何とも恐ろしい奇遇になったのです。

「ひえ〜〜、あの怖い大学時代と留学時代の恩師二人の接待せなあかん・・・・。」

バス太郎は必死でした。その状況を見ていた九響の団友達が

「バス太郎、あんたいつも九響に仕事に来ながら休暇に来てる様な殿様あつかいされて、優雅にしてるのに、今日は別人の様にみえたわ!細かい気配りできるんやんか!」

「そっりゃ〜〜、生涯もっとも尊敬する恩師が二人も一度に共演させてもらってるんやもん。それにこのご縁を頂戴した九響に伝えきれない感謝の念もあるから、せめて、恩師お二人がが機嫌良く、素晴らしい演奏をお客様に届けられる様に気配りを務めたいだけやってば!」

その努力のかいがあってか、この日の練習からリハーサル・本番まで笑いの絶えない自然体でオケも客演者のソリストも指揮者も素晴らしい音楽が出来たのです。

そして、いよいよバス太郎の郷里へ案内する事になりました。お寺で一泊ゆっくりしてもらって、翌日は公開レッスンに始まり、休憩後に演奏していただく予定でした。音楽月刊誌に連載中のバス太郎は全国紙上でも案内してたので、公開レッスンが始まる頃から既に超満員のお客様です。無事、有意義な公開レッスンが終わり、いよいよリサイタルの案内をした、その時ピアノ伴奏のアストリート女史がいきなり慌て楽屋口で言うのです。

「バス太郎!!伴奏の楽譜を手荷物に入れたつもりだったのにトランクに入れて九州出発の時にマネジャーに渡してしまったから、もう伴奏譜もウィーンに戻ってしまってる!!!」

「え〜〜〜〜!!!えーーー!!超満員のお客様はわざわざ日本全国から集まって来て下さってるのに・・・・。どっどどないしよう!!僕がレッスンしてもらった楽譜は今から探すけど・・、「あるコントラバス奏者の悪夢」って新曲はまだレッスンしてもらってないから楽譜持ってないよ・・・!!!!」

と真っ青な顔で、本番10分前に慌ててるところへ、シュトライヒャー先生が来て

「アストリート!君なら暗譜で弾けるだろう!大丈夫!一緒に楽しんでみよう!」

と、なんとか音楽の館定期サロン演奏会が10分遅れで始まりました。

弾き始めは、まだ慌てた事が尾を引いてる感じもしましたが、曲が進むに連れ、一糸乱れぬアンサンブルとなり、シュトライヒャー先生も東京や大阪から駆けつけた愛弟子達の拍手喝采に乗せられ是又素晴らしい演奏で興奮の渦に巻き込んでいったのです。そしてそのプラス要因は、なんとピアノ伴奏を最後まで集中力途切れず暗譜の名演奏でやり遂げさせたのです。

プログラムが終了しいつまでも拍手が鳴りやまない光景の中、バス太郎は感動の涙が溢れる顔で〆の挨拶もろくに出来なかった程、これ以上に喜びは無いと感無量の中

「自分が作ったホールで、今世紀最高の奏者が熱演して下さった!もう何もいらない!こんな幸せな事がこの世で体験できるなんて、もうこのまま死んでも悔いは無い!」と感動と興奮の中、感極まり思ったのでした。

これを期に、仲間の専任講師もそれぞれの師匠が来日するたびにバス太郎の元へ連れてきました。それは世界的にも類を見ない顔ぶれとなりました。ベルリンフィル首席でベルリン国立音大教授のライナー・チェパリッツ教授。イタリアよりサンタチェチリア音楽院教授のフランコ・ペトラッキ教授。イギリスよりイギリス王立音楽院教授のダンカン・マックティア教授。ウィーン・フィルで国立音大助教授のミラン・サガト氏を始め国内外の頂点を究めたコントラバス奏者が講師として顔を連ねた国際コントラバス・セミナーJAPAN in Kakogawaが世界的な広がりを見せ、ここで出会った講師同士、ジャズ奏者とクラシック奏者、ブラスバンド奏者、マンドリンオケ奏者、さまざまな芸大・音大・音高・受験生の参加者学生同士の交流はプロ奏者や主婦となった現在も深く続き、なかには何組も出会いが結婚に結びついた者まで総勢2000名を越えるプロとアマのバス奏者の出会いの広場となったのです。

「阪神淡路大震災と募金活動」No.22

震源の断層とは反対方向になるバス太郎の家でも阪神淡路大震災の揺れは相当のモノでした。

境内の霊園墓地の墓石は全て倒れ、古い構造の本堂や諸堂、庫裡も倒壊はしませんでしたが、ねじれ現象が生じました。バス太郎は丁度コタツの中にもぐって寝ていたので、棚から落ちてきた大辞典や美術大図鑑の直撃に免れたのですが、なによりもショックだったのは、ホールに立て掛けていた買ったばかりのイタリアの名器「フィオリーニ」の横板に、ぶら下げて飾ってたギターのヘッドが当たり穴が空いてしまったのです。

欧州リサイタル旅行が春に決まっていたので、慌てて二日後に寸断された阪神高速を避けて大きく丹波摂津経由の北回りで、バス太郎の楽器の主治医である大阪の弦楽器店の元へ丸一日がかりで修理に運んだのでした。不思議だったのはあんなに悲惨な状況の神戸に比べ、大阪では何事もなかったかのように平然と日常の生活をしていることでした。

その四月、神戸のホールは壊滅状態なので加古川市民会館で、復興に少しでも役立てて貰い、また関係者に希望と勇気をもって頂きたいとチャリーティー演奏会を商工会議所と一緒に計画しました。バス太郎は震災後に演奏仲間の安否の情報を収集をしていたので、体育館や疎開先で避難生活を送る演奏者自身も少なくないオーケストラを編成する為に

「夢と希望を与えなければならない音楽家が沈んでたらあかん!我々に出来る事は演奏しかないでしょ!頑張ろうよ!」

と、安否の連絡取る意味もあったのですが、仲間になんとか連絡をとりながら説得しては集結させたのです。地元商工会との共催で募金活動の演奏会をしたところ、なんと、その金額は400万円以上も寄せられたのです。勿論、地元の神戸新聞社にそのまま全額寄付されました。オケの出演者の中には

「家も失い、楽器も下敷きになって命だけは助かったけど、自分も被災者だからその募金をこっちへ援助してくれ〜〜!」

と冗談で言う人もいたのですが、同じ安いギャラで我慢してもらいました。それは、あの時、皆同じ気持ちで「命があって演奏も出来て、その日の食事が出来ればそれだけで本当に幸せで何も余計なモノはいらない!」と感じてたからです。

その昼のマチネー・チャリティー公演が終わっも、続いて先程ピアコンを弾いてくれた迫昭嘉のピアノ伴奏でバス太郎は自宅のホールで渡欧リサイタルのプログラムをそのまま練習のつもりで定期演奏会として開きました。共演はDuoBowsの秋津智承。オケ仲間の出演者が庭で打上バーベキューで先に盛り上がってるを横目に、指揮者・ソリスト・首席奏者と、最もしんどいオケ仕事をした3名が、続いて室内楽の震災チャリティー演奏をし、体力と精神の限界に挑むように、ここでもチャリティー募金を勧簿したのでした。

その日の夜は、もうクタクタになりながらも打上で深夜まで接待し、明け方より、なんと翌朝出国する、欧州へリサイタル公演の渡航の為のトランク荷造りで徹夜をして、いよいよ海外初リサイタルに向けて身心共々ボロボロで出発となったのです。

「いっで、ぎま〜〜ず。もう、あがん!早く搭乗手続き済ませて機内で寝たい〜〜!」

「ウィーン・ベルリン公演」No.23

コンバス担いで欧州演奏旅行だから手荷物は少なくしようとしたのに、カメラやビデオなど趣味の世界の準備で徹夜したせいか、機内で離陸も覚えてない時間に熟睡して、あっと言う間にウィーンに到着しました。

留学時代に聴いた数々の名演奏の中でも、いつまでも鮮明な記憶に残る、あのシュトライヒャー先生のリサイタルで素晴らしい伴奏をされたノーマン・シェトラー教授にバス太郎もお世話になるので、翌日、リハーサルとご挨拶を兼ねて家へ伺いしました。

「バス太郎よくきてくれたね!さあさあ、こっちが妻、これが息子、これが家の猫のタコ、それから、このコレクションの飾り棚は全て日本の古美術で、人間国宝の○○さん作の△△焼きの抹茶茶碗で、これが○○さんの登り窯で焼いた素焼きの花瓶、これが曼陀羅図でこれが・・・・・」と、あっと言う間に2時間以上たちました。

「あの〜〜、リハーサルをしにきたんですが・・・、後日にしますか???」

「ああ、そうだったね!一回弾いとくか?!」

とプログラムを一回通して、リハーサルは終わりでした。しかし、不安を残しつつも全体的には音楽に溢れてる感じだったので。

「まあ、いっか!」と思い本番を迎えたのです。

前半が終わって、いつもになく緊張してるバス太郎をDuo Bowsのチェリストが心配して休憩時間に

「どうされたんですが?いつも楽しく本番されて、緊張されることなんか見たこと無いのに・・・」

「だって、お客さんの顔みたら、ウィーン・フィルやウィーン交響楽団のバス奏者が来てるし、大学の教授陣も来てるし・・、なんか弾いてる時に、えらいことしてしまったな〜って、恐縮してしまったんだ!」

ピアノ伴奏のシェトラーも会話に加わり

「大丈夫ですよ!私が魔法の絨毯に乗せて、音楽しますから!!」

「はい」

バス太郎は、その魔法の絨毯に乗せられ本番を終演しました。すると、大勢の人が列をなして楽屋に訪ねて来られサインやCDないのかと求められたのです。

「ひえ〜!夢にまで見た音楽の都で、ぼぼぼぼくが、リサイタルして、しかも、世界一、耳の肥えたウィーンのお客様に拍手喝采頂いてアンコールを2曲もさせていただいた!やっぱ夢かな????」

ワインケラーでの打上も大勢の人々に温かく迎えられ大盛況のうちに、まだ夢か幻か解らないままウィーンを後にして、ベルリンへ移動したのです。

ベルリンからブルガリア巡回公演最後までピアニストが変わりました。

以前、日本初来日公演で世話したピアニストで、日本でのマネージメントと接待に感動してドイツとブルガリアに呼んでくれたのです。彼はブルガリア出身で、ベルリンフィルの指揮者でもあった偉大なる父をもつ二世です。

しかし、偉大な音楽家の二世はどの世界でもそうですが、伸び悩む器のようです。ウィーンでの魔法の絨毯に乗せられ、こちらの意思もテレパシーで音楽を察して瞬時に答えてくれるピアノに比べると、1から10まで打ち合わせを何度も練習しないとアンサンブルが出来ないタイプの人でした。ソロの曲は素晴らしく弾けるのですが経験の少ないアンサンブルは苦手な典型的なピアノ科でした。

お陰で、バス太郎は本番前日まで、あまりしたことない個人練習に付き合ったせか、いままで雰囲気で弾いていた箇所までカッチリと弾くようになり、それが、また響き過ぎる欧州のコンサートホールではクリアーに発音して良かったのか、ここでもブラボーと拍手喝采を頂き、ブルガリアへ飛び立ったのです。

「ブルガリア公演珍道中」No.24

コントラバス独奏で演奏旅行は悲惨です。特に海外公演では飛行機を利用するため、自分で楽器を運び管理し搭乗手続きや乗り換えなど演奏以上に問題解決にエネルギーを必要とされるからです。バス太郎は今回の欧州で始めてのソロリサイタルに高価なゲバ社のコンバスのハードケースを買って用意周到に準備して機内に持ち込まず荷物室に預けることにしたのです。

ところが、いざベルリンからブルガリアのソフィア国際空港に飛び立つときです、ベルリン発の飛行機が小型だった為入口が狭く、ハードケースに入れたまま楽器が飛行機に乗らなかったのです。

「ミスターコントラバス様。誠に申し訳座いませんが、貴方様の楽器はお持ちになれません!」

「えー!だって、楽器がなければ明日からの演奏できないやんか!」

「リサイタルで演奏旅行ですね!少々お待ち下さい。機長と相談してきます。」

と、美人揃いで有名なブルガリア女性のスチュワーデスが笑顔で戻ってきました。

「機長がソフトケースのままなら機内ファーストクラスに乗るでしょうから、命の次に大事な楽器と一緒に機内にご搭乗下さい。」

「えー、ブルガリア国内移動もソフトケースにままだと心配なのに・・・・・!!」バス太郎がだだっ子になると、彼女がすかさず

「大丈夫です!次の便が大きなマシーンですから、ハードケースは次に便でお届けします。ご安心下さい!」

と、言うことでエコノミークラスだったのにファーストクラスでソフィアに飛び立ったのです。

機内でつくづく「やっぱり音楽の歴史がちがう欧州では、どの苦にでも、楽器と演奏者を大事にしてくれるんだな〜〜〜!ありがたいな〜〜!」と眼下に見えるドナウ川の雄大な蛇行を眺めながら思ったのでした。

ブルガリアはピアノ伴奏者の故郷で、特にお父さんが日本で言えば滝廉太郎とか山田耕筰のような国民的名家の子孫なので特別待遇で迎えられました。と、いってもまだまだ自由世界の西欧から見れば、不便な東欧ですし、公共事業も予算が足りなく整備が遅れていました。貧困の格差も大きいようです。高速道路で公演する街を移動したのですが、高速道路の車道からいきなり測道や路肩を走るので吃驚しました。

「なぜ、路肩を走るんですか?」と案内するマネージャーに聴くと、

「あはは、日本や欧米と違って、この国は貧乏なんです。ヒットラーが作ったこのアウトバーンも、長い年月によって道路の真ん中に穴が開いて、大型トラックが走るたびに大きくなるんですよ!ほら、こんな穴に突っ込んだら大事故になって即死するでしょ!」と、ジグザグに高速道路を飛ばす移動マイクロバスに酔いそうになりました。

しかも、まったく日本や欧米の感覚で演奏会に望んでいては几帳面なチェロの共演者が胃潰瘍になるほどでした。

「さあ、本日公演の開場近くまで着きましたよ!本番前に腹ごしらえしましょう!」マネージャーがレストランへ案内しようとするのです。

「いや、知らない開場での始めての公演だから、少しで良いですからリハーサルできませんか?」

「ああ、開場はまだ開いてません。準備できるまで食事してください!」

しかたなくレストランに入ったのが本番開演1時間前なのにも吃驚でしたが、前菜から酒をすすめられ、食事時間もゆっくり料理が出てくる為、もう開演時間5分前になったのです。

「きょう、本当に演奏会するんですか?こんな状況じゃ演奏できませんよ!」とチェリストが切れ始めました。バス太郎も不安でしたが、何となくこの国の体質を察知したので

「主催者のマネージャーがこうやって接待してるんだから、郷にいれば郷に従え!でしょ!頭の切替しないとやってけないみたいだよ!」と、もうどうにでもなれとディナーを終え、30分も遅れて開場に向かうと、お客さんが帰ろうとしてるのでした。するとマネージャーが、

「いまから、始まるよ〜〜〜!もどったもどった!!」と会場前広場で叫びだし、バス太郎達は楽屋で着替えもしないでそのまま楽器を出して演奏はじめたのです。

流石のバス太郎も、この暢気な雰囲気には閉口してしまいました。

しかし、ブルガリア地方の素朴な人々や、山や森林が美しい自然、美味しい空気と水に包まれた田畑を牛が耕し、鶏や羊が放し飼いの酪農田園風景が、なんだか昔懐かしい日本の良き時代を見るようで新鮮な気持ちで演奏旅行が出来たのです。公演の度に、たちよる街のレストランでの料理は素材の味が本物ですし、なによりも、やっぱりヨーグルトは毎回食べても感動するブルガリアヨーグルトだったので、いつしかDuoBousチェリストも郷にいれば郷に従えとなり、演奏旅行を楽しんだのでした。

次読みたい〜

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