放任主義だけど愛情豊に見守ってきたバス太郎の3人の子供達が大きくなり、南向き日当たり最高だけど六畳の間一つに三段ベットと勉強机という窮屈さでした。
「よし!音楽の館のローン返済もまもなく終わるので引き続きローンを組んで子供部屋3つとレッスン室4つを増築しよう!」思い立ったら熱が入り集中して即行動するバス太郎は、いきなり敷地内の空き地面積から間取り図を何枚も書き始めたのです。
「う〜ん、今度は、一人に一室プライベートな子供部屋3室と書斎や主寝室も2階に配置して〜、1階はレッスン室を4つ増やして〜、待合いロビーや、サロンコンサートが出来る大広間を中心に配置して〜!!う〜ん!」夢は膨らみバス太郎会心の設計図が完成すると早速翌日音楽の館を建てた工務店社長を呼びだして説明したのです。
やがて基礎工事の為に、音楽の館の西側の竹藪伐採から始まりました。大きな楠も2本あったのですが、楠は伐採しないで、その楠の大きな枝に取り囲まれる様に増築場所を決めたのです。竹の根は張っていて重機で掘り起こした後、地均しされました。ある日演奏旅行から帰宅してみると竹藪だった頃には想像できなかった広い面積が出現したのです。
「竹藪はこんなにひろかったんや〜!この広さなら室内楽のホールができるやん!」と、またひらめいた瞬間、またしてもプライベートな部屋は消え去り、1階はステージと客席、2階は桟敷貴賓席と録音録画ミキサー室と楽屋になってしまったのでした。
思えば、幼少の頃から中学までバス太郎の部屋は無く、当然子供部屋など寺には無かったので、台所の片隅にミカン箱を勉強机にして宿題をしてたのです。そんな可哀相な子供時代を不満なく過ごせたのも、来訪者のために毎日夜明け前から庭掃除に始まり座敷に花を生けて、全室プライベートな物は置かないで奉仕する両親の姿を見て育った為、それが当たり前の事で、個人勝手な主張などの発想がもともと希薄だったかもしれません。
急に設計が変わり母親は反対したのですが、バス太郎は「いままでプライベートな生活はそれなりに出来たんだから、僕達は我慢して、もっと広く、多くの人に、楽しく精神的な安らぎとなり拠となる音楽の拠点をお寺のここに作れば、子供達は多くの偉大な音楽家にも出会え、なによりも毎月最高の生の演奏を部屋から歩いて10秒の場所で聞けるなんて、こんな究極の贅沢は世界中どこにもないよ!将来、きっと子供達にも、その恩恵が理解できて、3人の将来それぞれに、いつか幸せを運んでくる掛け替えのない心の財産になってるって!!目先の物で誤魔化し与えないで、遠い未来の為に最高の種を最高の土壌に耕してまけばいいんだよ!僕は親父の背中からそうやって気の長いスタンスを教えられた気がするよ!」と母親をなんとか説得して協力してもらい、ついに音楽の館にコンサートホール増築へと相成り申したのである。
さあ、工務店は大変です。兎に角、敷地面積そのままに、間取りすべて白紙に戻して設計をやり直すはめになったのですから。。。。。。。。
ついに大工棟梁とバス太郎自身が生演奏して音響や反響や外に音が漏れない防音のアイデアを出し合い、結局最後まで内装設計図の無いまま地面や壁に絵を描き完成させたのです。しかも最終チェックは、夏休み恒例のコントラバスセミナー客演教授で来てくださった大学時代の恩師がセミナー初日に、まだ階段が設置されず梯子の状態の中で演奏してくださったので、一階や二階客席でバス太郎は客観的にもホールトーンの確認が出来ました。
「うーん。こりゃ品のいい室内楽専用ホールができたで〜〜〜!これなら、いける!」
ステージはピアノ五重奏「鱒」が演奏できるスペースは最低確保したかったので、客席は電車の満員状態で110席。稼働椅子なので実際には75席ぐらいが無理なく座れる広さです。
すでに落慶に合わせて落慶記念定期演奏会のスケジュールは決め、これまでバス太郎が共演して素晴らしいと感じたソリストや全国プロオケのコンサートマスター、また海外からの来日公演の前に、一度日本で合わせ練習本番をしてから日本ツアーを始めるという要求にも具合良く、2.3日寺に滞在して時差を直し、体調を整えて初来日公演が「音楽の館奏楽堂」と言う名誉ある演奏会も少なくなかったのです。
そして、落慶記念演奏会当日、バス太郎が心に決めていた「鱒」をメインに開演したのです。なんと、その夜のNHKニュースに取り上げられ、地元新聞はもとより各メジャー全国紙に大きな写真入りで報道され、そのニュースを見た民放各テレビやラジオ局もそれぞれのゴールデンタイムのクイズ番組やバラエティー番組まで一斉に放送され、後日、週刊新潮が一週間バス太郎に密着取材を刊行しグラビアトップページを飾ったのです。
これらの反響はあまりにも大きく、バス太郎自身も吃驚してしまう取材攻勢と日本全国からの応援のメッセージ、また、バス太郎の寺の本山にあたる比叡山からも取材にこられるなど、時の人となって、めまぐるしい忙しさが始まったのです。
音楽の館のサロンから始まり、手狭になった時は市民会館や文化センター、ホテルの大宴会場貸し切りなどで帰国後さまざまな演奏会を作ってきました。そして、1988年秋の「こけら落とし公演」を通算20回の演奏会と数え始めて以来、奏楽堂だけの連続記録更新が2006年秋には147回目の公演を数えるに至ったのです。どの公演も印象深かったのですが、落慶当初に来演された旁々は特に印象的です。
スイス・ロマンド管弦楽団のコンサートマスターのロベルト・チマンスキーはスイスの前衛作曲科の作品の指示でフルサイズの楽器からいきなりポケットから16分の1スケールの分数ヴァイオリンを出して高度な演奏を披露したのです。打上でも再びその分数ヴァイオリンで居残ったお客様にヴァイオリンの名曲を演奏するサービスまでしてくれたのです。バス太郎も常日頃、演奏者はサービス精神がなければダメだと思ってたので彼の姿勢にとても共感できたのです。その後、演奏会が終わっても毎回打上で出演者との国際交流ができると噂され、誰も帰らないでそのまま打上パーティーが毎回サロンで催されることになったのです。
ウィーンでシュトライヒャー教授のリサイタルで名伴奏をして印象に深かったピアニストが来日されました。ペーター・シュライヤーやフィッシャー・ディスカウなど世界トップの歌手が大事なコンサートでは彼を指命する程の、知る人ぞ知るドイツリートのピアノ伴奏で世界的なノーマン・シェトラーです。なんと彼の伴奏で光栄にもバス太郎がリサイタルさせて頂くと言う輝かしい演奏当日の事です。大の日本の贔屓で陶器や古美術に精通してると知って、近くの古美術商へリハーサルまでの暇つぶしに案内しました。ところが、彼は「これは備前焼の何々壷ですか?」とか、「これは益子焼き」ですねとか、「この白磁は古い中国製ですね」とか、もうバス太郎も知らない世界まで研究していた彼は、古美術店から動かなくなってしまったのです。
「あのー、もうすぐリハのじかんなんですけど・・・・」バス太郎は遠慮ぎみに促すと
「もうちょっと、もうちょっと」とシェトラーは陶器を手にして目を輝かせて答えるのです。そうしている内に、本番の時間が迫ってきました。
「あのー、もうすぐ本番の時間なんですけど・・・・・」
「もうちょっと、もうちょっと、」
「いや、あのーあと30分で本番が始まる時間なんですけど・・・・」
「え!!もう、そんな時間?リハーサルはいいの?」
「ないいの?と言われても、もう陶磁器見てる間に時間は過ぎ去ったのですけど・・・」
「ああ、ごめんごめん!でも、大丈夫だよバス太郎君!君は日本のシュトライヒャーだと思ったから、本番で充分音楽できるでしょ!楽しみましょう!」
「いや、そう言う問題じゃなくて、お客さんを待たせる事になると申し訳ないし、スタッフもマネージャーもヤキモキして待ってると思いますよ」
「ええっ!!もうそっそんな時間なの?じゃ早く帰りましょう!」
やっと古美術商をでたのが本番20分前、開演直前に飛び込むお客様と一緒に、お互いに顔を見合わせながら出演者も音楽の館の着いたのです。毎回演奏会の前に住職の父が心に残る10分ミニ法話をして下さってたので、その間に慌てて着替えて、何事もなかったかの様に落ち着いてシェトラーはピアノの前に座り、前奏を弾き始めたのです。その瞬間、開場は彼の音色と音楽の魔術にかかったようになり、息切れをしていたバス太郎も、彼の音楽に乗せられて集中できたのでした。
その後も、来館される世界の頂点を究めた人たちは凄いな〜〜と、つくづく感じながらも、衣食住を共に過ごす私生活では、やはり同じ人間なんだと安心させられたりもして、益々国際的にも交流を深め、まるで音楽の都ウィーンも、日本の首都もバス太郎の住む田舎に移ってるんではないかと錯覚するほどでした。
オーストリア、東西ドイツ、フランス、イギリス、スペイン、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリア、アメリカ欧米各国から続々と来日するならバス太郎の寺へと世界の音楽界で噂になるほどだったのですから・・・・・・。
別府温泉から内陸には行った盆地に近年有名になった湯布院温泉があります。一時期、毎年のように九響の客演などで大分県巡業で通過するたびに、立ち寄って温泉に入っていました。その、湯布院では、少し昔にあった地震の後、客足が遠退き、そこで村興しで始まったのが、湯布院映画祭と湯布院音楽祭でした。音楽祭の音楽監督は日本のトップチェロ奏者を二分して輩出するルーツとなる東の斉藤秀雄、そして西の黒沼俊夫と言わしめた黒沼先生でした。先生はちょうど日本が世界に誇る室内楽団の先駆けとなった巖本真理弦楽四重奏団解散後、京芸とバス太郎の通う音大でも教え始められたのです。そんな交流から偉大なる黒沼先生と2回「鱒」の公演をさせて頂いたいきさつもあり、湯布院音楽祭にもバス太郎はゲストに招かれた時の事です。
音楽祭事務局から電話がかかってきました「私達の音楽祭は黒沼俊夫先生を音楽監督に迎えて以来、趣旨は一貫して、日頃お忙しい日本のソリスト達に静養がてら亀の井別荘に1週間滞在して頂き、ついでにあちこちの開場で湯治に来られてるお客様や町民、そして音楽ファンの皆様に、室内楽を演奏していただいています。音楽祭のお世話は町内官民全員ボランティアで運営しています。ですからお礼と言えるギャラをお出しできないんです。そのかわり旅費と食費、そして湯布院温泉旅館の別荘一軒を演奏者一人一人に提供しますので、ごゆっくりお過ごし下さり、思う存分温泉と音楽に浸って頂けます。長丁場ですが起こし頂けますか?」
バス太郎はその期間の予定が調整できるとスケジュール表を確認して「はい!行かせて頂きます」と二つ返事をしたのです。
そして湯布院に行ってみて吃驚の豪華な顔ぶれでした。帰国後広島の音大へ通い始めて同じ講師としてや室内楽共演で知り合ったヴァイオリンの岸辺百々夫先生、黒沼門下で現在は東京芸大教授で黒沼先生より音楽祭監督を引き継いでる河野文昭、同門のソリストで京芸教授の上村昇と、その伴奏で大音音楽院教授の岡原慎也、巖本真理弦楽四重奏から引き継いでる久合田緑弦楽四重奏団、バス太郎が学生時代にNHKの芸術劇場の番組で来日ソリストのピアノ伴奏で必ず登場して雲の上の人だと尊敬していた小林道夫、そして数々の国際コンクールに輝く漆原啓子などだったのです。
一週間も同じ旅館敷地内の別荘に滞在しながら、それぞれの本番後は一緒に夕食をするのでソリスト全員とすぐにバス太郎は仲良くなれました。またフィナーレコンサート本番後の打上パーティーで隣併せた音楽祭常連のお客様と話せばバス太郎住むの隣町から毎年湯布院音楽祭に聴きに来てるという人に偶然出会って懇意になるなど出会いのが嬉しい時期でした。最終日の出演者だけの二次会で、始めてバス太郎は室内楽専用のホールを自分で建てた事を話したのです。すると、参加してた日本を代表するソリスト達が
「ああ、テレビのニュースで見たことある!」
「それ理髪店の待合いで見た週刊誌で記憶がある!」
「あの話題になったお寺のホールバス太郎だったの?!じゃあバス太郎がお寺に建てたそのホールで弾いてみたい!」
と異口同音に酒の席で盛り上がり、それ以後、音楽の館定期演奏会に日本を代表するソリストの演奏会が立て続けに開催され、田舎の音楽ファンから絶大なる感動とまたまたセンセーショナルな渦が広がったのです。そして、例えば漆原啓子さんがピアノ伴奏に連れてきたまだイタリアに在住中の迫昭嘉が素晴らしく、「今度帰国された折りは独奏でお越し下さい」と約束するなど出会いが出会いを呼び音楽交流は益々広がり続けたのです。その後、バス太郎の音楽交流からオーケストラを編成して指揮者となった時に集合したメンバーはソリストや全国プロオケのコンサートマスターが中心となる派閥に囚われないスーパー・オーケストラになってしまいました。また主催者よりピアノ協奏曲のリクエストに応える公演では迫昭嘉が頻繁に登場する事に繋がるのでした。
こうして毎月来訪される世界的ソリストの定期演奏会の反響は、その当時は講演会なども兼ねる多目的ホールばかりであったのに、ついに近隣地域の市町村でも音楽専用ホールの建設構想が市議会でも取り上げられ、近隣の市町村の行政トップが音楽ホール建設の相談にバス太郎を訪ねてくることも多くなりました。
「なんか、すごい連鎖反応が生まれてきたな〜〜!」バス太郎はこの時期毎日驚きと感動の日々でした。
(初老になったバス太郎がなんでこんなに凄いことが出来たのかな〜??と回想したときも、よく解らないのでしたが、ただなんとなく言えることは、「人が何かを形にしたり、大事業を成功させる切っ掛けは、何事に於いても、自分の感動を大事にして、夢を忘れず、私利私欲を忘れて誰かにその感動を伝えたい!」と言う強い思いがいつまでも続き感謝することだったのかな・・・。そして、どんな手段でも、それが音楽でも、絵画でも、言葉でも、自分が受けた感動の恩恵を次の世代にお返ししたり、感動を忘れた多忙な現在社会人や児童に思い出させる切っ掛けを与えられればこれ以上の幸せは無いと無償でも働き、感謝される笑顔にまた奮い立ってしんどいことをやり続けたのかな・・・。と振り返る歳になったのかもしれません。)