一昨年まで速度無制限のアウトバーンを自由自在に走ってたバス太郎は、帰国後も広島往復を200km位近いスピードで、つい飛ばしてしまい、日本の道路法規にそぐわず一発免許取り消し処分になってしまいました。そして1年間免許取り消しの間、新幹線で頻繁に通い始めた二ヶ月後のある日の事です。
新幹線出口から在来線架橋を歩いてると、コンバスを持った一行が目に飛び込んできました。側に近づくと不安そうに地図を見ながら相談してる外人3人です。ウィーンから郊外へ出かけて道に不安がってるとよく声をかけられ親切に案内してもらった時のありがたさを思い出し、思い切ってドイツ語と英語で「なにかお困りですか?」とコンバスを持ってる親近感から声をかけて吃驚しました。どこかで見たことのある顔だな〜〜。。もしかして、始めて東京時代に秋葉原の専門店で買ったコンバスのレコードのジャケットの人???えええ、ゲーリー・カー?!?!「わおー、もしかして、あのゲーリー・カーさんですか?突然思いがけずお目にかかれて光栄です、私もコンバス奏者で一昨年シュトライヒャー教授のもとから帰国して当地の音大で教えながら広島のオケで弾いてるバス太郎と申します。いまからリハーサルなんです!」と握手して時計を見ました、あと20分で練習が始まろうとしています。英語は得意ではなく、意思の疎通が時間との戦いでした。端的に片言で話してると、マネージャーの米国人が片言の日本語で会話に加わりました。「昨日、宇部で演奏会をして今日始めて広島観光に着いた所なんです。何処かお薦めのいい観光名所ありますか?」バス太郎は案内してあげようと思いましたが、リハーサルの時間が迫っていたので「平和公園・原爆ドーム、広島城、時間が有れば宮島」などと地図で指さし、足場やに立ち去ろうとすると「リハーサルは何時に終わりますか?夕食一緒にできませんか?」とマネジャーの声が背中からしました。立ち戻り「5時に終わります。喜んで広島の料亭を案内しますよ。」と約束して別れ、練習後、夢だったような半信半疑な気持ちで待ち合わせた場所に行くと本当に3人が待っていたのです。
料亭に向ったメンバーはゲーリー・カー、伴奏者のハーモン・ルイス、そしてマネージャーだと思ってた人は麻布のアメリカ大使館職員でした。会食中の歓談で「来年も来日予定があるけど広島で一緒にコンバス二重奏をしませんか?」「パッショーネ・アモローゾ」て曲、演奏されたことありますか?」と誘われたのです。夢のような突然の誘いに吃驚しながら頭の中がぐるぐる回転始めました。丁度、帰国前にウィーンのドブリンガー楽譜店や東欧でめぼしいコンバス関係作品を買いあさって来た中にそれらしき名前のモノがあっったと思い出しましたが「まだ弾いたことも聞いたこともありません。」と正直に答えると、「とても良い曲だから是非貴方と広島で公演したいですね!」とつぶらな眼で見つめられ、また誘われたので「っはい、喜んで!」と、翌年の初夏に決定しました。(そしてこの公演のパッショーネ・アモローゾが日本初演となったのです。翌日、卒業生や在校生の弟子を集め音大で公開レッスンをゲーリーにしていただき、これ以後コンバス・セミナーを正式に毎年始める事になりました)
会食の後、最終新幹線まで夜の街を案内して興奮の内に車中で夢が広がり、また、ふとした親切心がこんな素敵な想像を絶する形で帰ってくるとは「まるで幼少の頃、母から毎晩読み聞かされた仏教童話の逸話の現実版のようだったな〜〜。。。」と、感動と酒の酔いで心臓が高鳴ったまま帰宅したのでした。
広響時代、定期や特別コンサートの度に東京から来るエキストラ達の中に大学の先輩がいました。彼とは入学と卒業の入れ替わりで在学中面識のないチェリストでした。しかしチェロのエキストラは最後列に座るため、バス太郎のすぐ前で弾くのですぐに仲良くなりました。彼が来ると麻雀グループが揃い後輩のコンバスの家に集合して徹マンしたり、懲りずに誰か負けたモノは必ずリベンジを呼びかけゲネプロが早く終われば本番までに市内の雀荘で熱戦がはじまるのでした。
その彼がある日、「音楽事務所を立ち上げて今度ベルリン弦楽四重奏団を日本に招聘する事になったんだけど鱒を弾いてくれないかなー?」と言い出したのです。
「日本各地でピアニストがベルリン弦楽四重奏団と共演するんだけど鱒のリクエストがあったんだ、日本公演ツアー全て弾いてくれる?」バス太郎は「いままで負けた麻雀の倍のギャラくれるなら弾いてもええで!」と、簡単に契約成立してしまいました。
しかし、バス太郎は学生時代からシューベルトの鱒には特別の思い入れがあり、学内でもアンサンブルを誘われましたが全て断り続けてきたので、まだ一度も弾いたことがなかったのです。生まれて初めて弾く相手がベルリン四重奏団とは、光栄極まりないけどやばいなー勉強しなくては!!オケよりも室内楽に憧れていたバス太郎は2年でオケを辞めてフリーで演奏活動をする事に、これを切っ掛けに決意したのです。
当時スィトナー率いるベルリン国立歌劇場管弦楽団の首席奏者達で構成される四重奏団は名手カール・ズスケ退団後、若いバッツドルフがコンマスに就任し、第2バイオリンが燻銀のベテランのペーターさん、団長のビオラのドムスさん、音楽的にリードするチェロのプフェンダーさんです、この四人は、各地で鱒を公演する度に本番で上達するバス太郎に好感を持ち、音楽的信頼関係と友好が深まったのです。それ以後、彼らが日本来日で鱒の演奏依頼を受けるたびにバス太郎を指命してくれるようになり、一回の公演でオケの一ヶ月の給料以上のギャラを頂けるようになったのです。麻雀で負けてて良かった「負けるが勝ちとはこのことかな?!」と、別にお金には執着がないバス太郎も質の高いアンサンブルが出来る喜びに溢れつつ思ったのでした。
バス太郎が帰国した頃から、世界中の楽団やオペラ劇場の引越公演が増え始めました。イスラエル・フィルのジム・ラポートは音楽監督のズビン・メーター(メーターは学生時代ウィーン国立音大でコントラバスも専攻して学んだのでバス太郎の先輩でした)に進められてウィーン国立音大にオケを休団してシュトライヒャー門下とった一人です。ジムはオケパート集団レッスンの一件以来、プロのオケマンでもないバス太郎を敬愛し、帰国したバス太郎に会いにやってきてバス太郎の家に暫く滞在してたのです。バス太郎は帰国2年目より広島大学教育学部の非常勤講師(広大より専任になるよう進められたのですが束縛されるのが困るバス太郎は非常勤を希望しました)に就任した為、広島の音大生と一緒に夏休みを利用して合同のコンバスセミナーの前進のような事を始めていた所へ丁度来たので、最初のセミナーゲスト講師として手伝ってもらい参加した学生達は国際交流が出来て大喜びでした。
その秋にはウィーン・フィルの来日公演がありました。シュトライヒャー・クラスのアシスタント・プロフェッサーを務めてたミラン・サガトもバス太郎の先輩であり、帰国寸前にはサガトの家でオケパートのレッスンを受けていたのです。サガトはスロバキアからウィーンに来た外人です。当初ウィーンには馴染めなかったナイーブな人だったのでしょう毎週バス太郎と会ってる内に師弟関係から、やがて友達のようになりました。ニューイヤーコンサートの団員家族招待券をバス太郎は毎年頂きました、大指揮者が毎回登場する定期演奏会の招待券も貰いました。また、彼が収集した貴重なコントラバスを帰国の挨拶しに伺った時に交渉してバス太郎は日本へ持ち帰ってしまったのです。(それ以後ウィーンへ行く度にサガトから毎回楽器を日本へ持ち帰り、今では日本全国のオケで10本以上弾かれてる程になってしまいました。そしてバス太郎が愛用する名器フィオリーニもニューヨーク・フィルがウィーンへ持ってきたその時に、サガトがイタリアの健康な名器を手に入れ喜んだのも束の間の一週間後、バス太郎は無理矢理奪い取り日本へ持ち帰ったのです。ごめんなさい!)そんな、ウィーンで大変世話になり迷惑かけたミランが寺に泊まりに来たので大歓待をし、日本観光名所へ案内したのです。また、広島の音大でもゲーリーに続き公開レッスンをしていただきました。音大ではウィーンフィルが来てくれると大騒ぎになり、当時の学長に大変感謝されたバス太郎は、「別に感謝されるほどの事でもないのに・・・、ただ学生達や、地方の音楽文化が少しでも向上する切っ掛けになればいいと思って連れ来ただけで音大の為ではないのに・・・。」
翌年はウィーン交響楽団が来日しました。かなり年上ですが同期のアンドリュー・アッカーマンが入団して弾いています。彼は同時にウィーン市立音大の教授にも就任したアルゼンチンの人です。ラテン系にしては辛気くさい性格で真面目だったので一緒に遊ぶことは無かったのですが、レッスンではお互い意識していた仲なので、やはり来日公演では連絡をしてきました。アッッカーマンは時間の余裕がなく寺までは泊まりに来れなかったので、大阪のフェスティバルホールで面会し食事をしました。彼ともバス太郎は交流が続き、20年後、彼がシマンデル教則本の写真にあるシマンデル愛用のアマティーを購入したため、アッカーマンが愛用していたグランチーノを譲り受けたのです。
人との出会いも、楽器との出会いも、不思議なご縁、自分を向上させて精進すればするほど、もっともっと素晴らしい人たちに出会え、楽器にも巡り会え恋人を奪い取る様な程の情熱的出会いになるんだな〜と、バス太郎は強引に楽器を持ち帰った事を反省しつつも、出会いに感謝しながら国内メジャーオケは元より世界中のオケに散布した同門の親友を敬愛敬慕するのでした。
帰国後、中国地方での公演回数が重なるにつれ西日本でのバス太郎の名声は広がり城下町山口県萩市の名士にも届いたようでした。その人は作曲科を卒業した東京時代の先輩で確かバス太郎が一年の頃、副科でコンバスのレッスンを受けていたとかすかに記憶しています。そう言えば、近年世界的に大ブームを巻き起こした宮崎駿監督のトトロを始め千と千尋まで全ての音楽を作曲自演した久石譲も副科コンバスでした。
「久し振り!ウィーンに留学してたのは知ってたけど帰ってきたんだね!君は海外のオケに入ってもう日本には戻らないのかと思ってたよ!広島まで来てるなら、萩まで来てくれませんか?美味しい地酒と海の幸をご馳走しますよ!」と、急に電話で誘われ、二つ返事で引き受けました。是が将に酒の魚で釣られた仕事の始まりでした。
何の曲を演奏するとか、どんな編成とか知らないまま、練習初日時間と集合場所だけの情報でコンバスを助手席に寝かせて、今回は二枚目の免許を取得した直後なので法定速度を守りギリギリ練習開始5分前に無事到着しました。
編成は4.4.3.1.1の弦と管楽器による室内オケのアンサンブルでした。しかしチェロとバスは一人ずつでしたが、実に心地よい低音パートだったのです。「このチェロなかなかたいしたもんだな〜!」と初見で弾きながら思いました。練習後の料理旅館での宴会、2次会、そして部屋に集合して3次会と東京から来た若いヴァイオリン数名とチェロ・バスが最後まで残り盛り上がったのです。女の子達を笑わす為に奇人変人大会になり立派なチェロを弾く彼はビールを飲み干したガラスコップを丸ごと口にくわえたりする隠し芸も持っていました。サービス精神ではバス太郎も負けてはいません。深夜まで二人はバイオリンの女の子に呆れられ各自の部屋に帰られてしまうほど隠し芸のオンパレード競争をして、いつしか初対面にも拘わらずチェロバスの二人は意気投合してしまったのです。明け方二人の身の上話で自己紹介がやっと始まり驚きました。なんとバス太郎と同じ境遇で長男で寺の跡取りだと言うのですから、一夜にして同じ様な先の運命の中「今は音楽に生きる喜びと、今しか自由に音楽出来ないかもしれないんだと言う危機感」を口にはしませんでしたが、同じ境遇でしか解らない何かを共有共感できたのが二人には嬉しい出会いだったのです。
翌日の練習は二日酔いでしたが、本番頃には再び絶好調でした。プログラム前半は各楽器の独奏でバス太郎の前にチェロが美しい「白鳥」を演奏しました。司会者が「次は大きな楽器コントラバスが像を演奏します」と紹介され舞台袖の階段角に立て掛けてたコンバスを持ったその時、糸巻きに引っ掛けてた高級な弓が真っ逆様に地面に激突して二つに割れてしまったのです。「うわ〜〜〜〜っ!どどどうしよう!!」バス太郎の声が客席にまで響き渡りました。そこへ白鳥を演奏終わったチェロが階段を下りてきたので「ちょっと悪いけど、そのチェロの弓貸して!」「えええ?いいですけど・・・・、コンバスの松ヤニだけは着けないで下さいよ!」「うん、わかった!」とチェロの弓を持ってステージに何事もなかった様に上がりサンサーンスの像を弾いたのでした。 演奏会終演後、住所連絡先を交換して足早に別れてから数年後、バス太郎が自坊に室内楽ホールを完成させた「こけら落とし」のメインプログラム鱒のチェロは絶対彼にしようと心に硬く決めたのでした。。
その後、弓の事を英語でBow、チェロとコントラバス二人だけの二重奏楽団結成だから、弓も2本の複数となるので('s)をつけてDuo Bow's漢字では「坊主二重奏団」と名付けて、日本は元よりウィーン・ベルリン・ブルガリア各都市まで演奏旅行に出かける深い縁になろうとは、この時は思いもよらないVcソリスト秋津智承との印象深い出会いだったのです。 つづく
バス太郎が僅か2年でオケを退団してフリーになった為、高校・大学・留学時代に知り合った先輩や友人が、自分たちのオケに客演してくれと誘ってくれました。オーケストラ曲が嫌で退団したのでなく、むしろ中学生の頃から欧州の名演奏のレコードを聴きあさり、留学中は毎晩オペラ劇場のオケピットから聞こえるウィーン・フィルの普段のサウンドが心地よく、ウィーン芸術週間のムジークフェラインザールで競い合う世界の名指揮者率いる名門オーケストラの重厚なオーケストラの響きが身にしみこみ、帰国後まもないバス太郎は理想と現実の狭間に絶えかね一旦オケから離れたのです。ところが各地のオケで活躍する先輩や同僚に客演を依頼され始めると、そこで活躍する名物団員との新しい出会いが楽しくなり、それぞれのオケにも音の特長やシステムの違い、また地方の名物料理や巡回公演での温泉旅館も格別の喜びになりました。そんな、ある日、N響を定年退職した師匠とあるオケでなんと同じプルトで客演として弾かせて頂く恵まれた機会もあったのです。
最初は広島で第九、次に出会ったのは九響でブラームスの交響曲1番でした。N響を定年まで首席奏者として引っ張ってきたパワーは健在で、その音の存在感はチェロバスに留まらず100名のオーケストラや5000人の合唱団に埋もれることなく響き渡るのです。別にイタリアの名器の楽器ではなく、オケで弦高が高く弾きにくくて倉庫に埃をかぶったボロ楽器が鳴り響くのです。バス太郎は東京時代のレッスンを思い出しました。
「世間ではプロになって少々金回りがよくなったバス奏者が、イタリアの名器だとか、どこそこのオールドだとか、ましてや親のすねかじりの学生までもが何百万もする楽器を買い求めるが、はたしてその楽器や、それどころか、いままで弾いてた楽器をちゃんと弾きこなせて音楽の役目をはたす仕事に徹していたかと言えば、そうでない者が多いね!バス太郎君、あんたは今弾いてる目の前にある楽器の能力をフルに引き出してやれる奏者になりなさい!」「はっはい!」
そんな会話をレッスンでして頂いたことを思い出しながら、師弟で弾くプルトからは壮大なffやsffz、盛り上がってくるクレッシェンド、テンポを伝えるスピッッカートが一丸となって奏でられたのです。
すると反対側の舞台奥にいるバイオリンのエキストラや煩い管楽器の団員から本番後「いつも聞こえないバスラインが今日はすごく聞こえてきて頼りになったよ!流石〜〜!」と楽屋で喜んでくれたのです。「いや〜、今日は緊張したよ、先生の横で弾かせて頂き、なんだか久し振りに暗黙のレッスンを受けたようだったもん!でも、一緒に仕事が出来るなんて、幸せこの上なかったよ。本当に呼んでくれてありがとございました!」と直接客演依頼してくれた先輩や仲間に感謝の意を汗を拭きながら着替え中の楽屋で、他の団員にも聞こえるようにお礼を述べたのです。こうやって、しばらくバス太郎は、退団後、特にご縁の深い大フィル・新日フィル・九響を中心に日本全国津々浦々のオケまで客演依頼を受けるようになり、芸術シーズンの月には2.3泊、洗濯物を持って帰るという放浪の演奏旅行の時期を過ごすのでした。しかし、その全国のオケ客演で出会ったコンサートマスターや首席名物奏者との交流は、やがてバス太郎がオーケストラを立ち上げるときに日本全国から有給休暇を申請してまで応援に駆けつけてくれるよになるとは、思いもよらない、この頃は、本番後毎晩打上で馬鹿騒ぎをして楽しい演奏活動をしている無欲無心なバス太郎だったのでした。
スペインからギタリストのメイヤード・テホンを招き、日本で無名のギタリストなのに郷土の名士の両親や地元でも人気の出てきたバス太郎の人脈をいかして市民会館の少ホールを満席にして当地のギター同好会の皆さんにたいそう驚かれました。何故彼を招いたかと言うと、バス太郎の通う音大の当時の学長の甥と言うことで、楽長から頼まれてしまったのです。宣伝効果がよかったのか沢山の聴衆に来てもらえた本人も楽長も打上パーティーで喜ばれました。そしてバス太郎の明るい人柄に魅せられ打上に集まった顔触れをみると、神父や牧師、宮司に宮総代、天台や浄土真宗の住職と、まさに世界で最初の宗教サミットの幕開けでもあったのです。
ギリシャのキプロス島から来たピアニストのニコラス・エコノムは天才肌の奇人でした。クラシックもジャズも弾けたクラシック畑出身の彼は、ドイツで活躍しミュンヘン・ピアノの夏の主宰でもあったのです。マルタ・アルゲリッチと連弾をしたり、チック・コリアやキース・ジャレットとのDuoのレコードは世界で絶賛を浴びたのです。しかし、彼も初来日と言うことで日本では演奏会を主催する市町村や音楽事務所がなかったので東京と名古屋2公演とバス太郎の郷土の市民会館での演奏会のあと、帰国まで初対面だったにも拘わらずバス太郎の家に一週間以上も滞在し、夜明けまで毎晩二人でワインや日本酒の瓶を空にしたのです。宿泊代や飲食費はまだましですが、電話魔だった彼は毎晩ドイツやギリシャに国際長電話をしたのです。また丁度北海道に来ていたチック・コリアが同じマネージャーから聞いたのかバス太郎の家に電話してきました。バス太郎は変な外人がエコノムに電話してきたと取り次ぎましたが、後でチックだと解り感動したのです。バス太郎は普段、車やオーディオルームで聴くのは決まってジャズでチックコリアも大好きだったからです。
長電話でチック・コリアもバス太郎の家に行きたいと盛り上がったのですがスケジュール調整が急に出来るはずもなく、毎晩の長電話(当時は携帯メールもPCメールも無い時代)で、翌月の電話代を見てびっくりしたのでした。日本の音楽文化向上に貢献したのでなく第2電電KDDと日本電電公社NTTに多大なる貢献したバス太郎でした。
(その後、二回目の日本ツアーは忙しくなりバス太郎の家にまで来る時間が無かったのですが、相変わらず夜な夜な電話で話をしましたが、それが彼との最後の会話になってしまいました。帰国後、交通事故で即死してしまったのです。バス太郎は悲しみに朝の鐘突境内参拝で冥福を祈ったのでした)
スイスの名門チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の首席奏者で構成される六重奏団が日本ツアーでバス太郎に共演を求めて連絡してきました。このオケのコンサートマスターに日本人女性としては欧州で始めて就任してる古澤英子でした。彼女はバス太郎が東京の音大2年生の頃、管楽器の先輩達が毎コンで優勝して演奏も美人で容姿も素晴らしいと話題になっていたのでゲストに招かれ、ストラビンスキーの「兵士の物語」を先輩から同じく依頼された若いバス太郎と共演して以来の再会でした。
欧州では管弦楽団のホームグランドとしての大ホールに必ず室内楽専用の小ホールがいくつか付随しています。バス太郎はウィーン時代にウィーン・フィルの本拠地ムジーク・フェライン・ザールにある小ホールのブラームスザール、ウィーン交響楽団の本拠地コンチェルトハウスにあるシューベルトザールなどで師匠のリサイタルを始め、世界中からやって来るソリストや弦楽四重奏団の歴史的名演奏を、その響きの美しい室内楽専用ホールで聴いてきました。
「トーンハレと言えばウィーンムジークフェラインザールと肩を並べる世界の名ホールの一つやのに、日本では室内楽専用のホールがないな〜〜。」と、当時の日本、特に地方行政の芸術文化から室内楽への関心すら無い実体に嘆かわしく思っていました。
ちょうどその頃、郷里に室内楽に適したホールをもつ総合文化センターが完成したと知り、早速一番乗りで予約に行ったのです。大きさはバス太郎の理想に近いホールでしたが、音の響きは理想からかけ離れていたのです。天上は高くないし床はカーペット、やはり日本全国どこにも或るマイクを使う事を考慮した会議室か、街の音楽教室の発表会でも辛い感じの名前だけの音楽室でした。しかし、他に適当な大きさのホールがないので、ここで演奏をしたのです。
超満員となり大盛況でしたが、六重奏の団員は口々に「これやったら、入口玄関のロビーの方が音楽専用ホールとして良い響きの名門になるな〜〜〜」と皮肉を言われ「スイスの名門ホールのオケマンがお墨付きで、ここの玄関ロビーが音響最高だと言ってるので演奏させてもらえませんか?」と館長に嘆願したのですが「此処は音楽室でなくロビーですから、決まったことを変えることは出来ません」とお役所らしく断られてしまいました。
バス太郎は肩を落とし「日本の公共事業とは納税者の生活文化向上のためでなく、工事関係者ゼネコンの為にやてるんちゃうやろか?!そして行政の人間は庶民の苦情を押さえ込み大手企業を優遇するための手先なんだな〜!!」と、郷土を愛し誇りに思い、同じように住民にも地元を誇りに思って貰いたい一心で「これまで市民会館や文化センターを使って超一流演奏家を地元に招いて紹介してきたけどソロ室内楽の演奏場所が皆無や!」この日以来、バス太郎は室内楽専用ホール建設に熱い思いが込み上げてきて、いよいよ「日本と郷土の音楽文化発展の為に、なんとかしなくては!」と奮い立つのでした。 (次回からは音楽の館奏楽堂で繰り広げられた出演者のエピソードや名演奏紹介シリーズです。お楽しみに!)