本-開[朝の連続小説 バス太郎孤軍奮闘記]本-開

<<この小説はフィクションであり、登場人物は実在の人とは関係ありません>>

「バス太郎の誓い」幼少期・中学・高校・大学・留学編バックナンバー

「バス太郎再開のご案内」No.1

おはようございます。今年も、はや今日から師走になりました。そして、連続小説「バス太郎奮闘記」再開です。お久しゅう御座います。お元気でお過ごしでしたか?

初老になった現在のバス太郎は法務寺務に追われて普段は楽器を弾くことがありません。それでも、毎年芸術の秋シーズンには数カ所より公演を依頼され、いきなり集中的に弾きました。ところが、やはりリハーサルやゲネプロを予定していても、いつも枕経や通夜、葬式が入り、アンサンブル練習の途中で抜けたり、まったく練習できなかったりで、本番を迎えるのです。しかも普段まったく弾いていないので、指先はフニャフニャで本番終わる頃には痛くてお茶碗も箸も持てないほどになるのです。

それがかえって、人十倍パワーを持つ腕は健在でしかも練習していないので脱力できている為、以外と音色は説得力があり良かったようで、お客様には大好評でした。もちろん強力な共演者の奉仕の精神のお陰で助けてもらったからですが・・・・。

 しかし今思えば、学生の頃からコントラバスの日本の草分け的存在の高校時代の師匠、現役で日本をリードするN響首席の大学時代の師匠、世界中のコンバス奏者が憧れ手本としたウィーン・フィル首席退団後20世紀最高のソリストとして活躍された師匠、いつの時代も勿体なくも弟子に迎え入れてくださった素晴らしい師匠の元で研鑽させて頂き、学生から社会に出た現役時代は多くのベテランプロ仲間に入れていただいて実践指導賜り、そこから発展して世界的ソリストの音楽家と共演させて頂くなど恵まれたチャンスのお陰で、シーズンだけでも、こうしていま音楽を心から楽しく弾かせて頂けたのだと痛感しています。

 バス太郎は今、究極のアマチュアだと自負しています。毎日公演していた現役時代から比べると比較にならないささやかな室内楽演奏会でも、演奏してるときに、共演者、作曲者や時代背景の世情、作られた曲のハートを感じる事が出来るようになり、そして、なによりも、お客様の反応を感じながら、楽しく嬉しい一瞬に舞い戻って来られ、まだ喜びが溢れる自分に驚きながらステージに立つ事が出来たからです。そんな喜び溢れてた、2006秋のあっちこっちの公演よりランダムに抜粋した1枚のCDを作りました。晩秋の紅葉が映える教信寺や音楽の館へ直接とりに来られる先着10名様に「音楽の喜び」を差し上げます。では、明日からの帰国後日本で多くの素晴らしき仲間と出会うバス太郎奮闘記をご期待下さい。  合掌

「帰国後も続く時差ボケ感覚ボケ寝ボケ」No.2

ウィーンより帰国しても、すぐに郷里に戻らず、ぼーっと東京に2ヶ月近く滞在していました。留学中に懇意になった都内の某オケの副指揮者の家に潜伏したのです。その間、先に帰国した多くの友人や大学時代の旧友、都内のオケで出会ったオケマン達と毎日のように宴会をしながら、今後の日本での生活不安や将来設計を誤魔化していたのかもしれません。

勿論、広島の高校時代からの恩師から音大講師を引き継いで欲しいと手紙を頂戴して帰国したのですが、24歳の多感で有為なバス太郎は地方に引っ込む決心がついていなかったのです。ところが音大生時代に4年間東京に暮らしていながら、ウィーンから帰国してから見る東京は全く別の視点から、あまり魅力を感じないと気が付いたのです。首都と言っても欧州の国では東京の様な人口密度はなく、首都中心部から2時間も歩けばすぐ郊外になるような規模が普通です。東京では、あらためて人混みに圧倒され「四季折々の自然を感じられないし、空気は汚いし、騒音だらけだし、ごちゃごちゃしてるし、やっぱ東京は住む場所でないな〜!仕事をするには様々な選択も出来、頑張れば希望が叶い安定収入もあるかもしれないけど・・・・。」事実、都内のいくつかのメジャー・オケからも入団を誘われたのですが、ついにバス太郎は決意して郷里に戻ったのです。

家族は温かく迎えてくれました。境内の桜もまもなく開花です。やっぱり郷里はいい!変わらない普遍の美がそこには普通に溢れていました。そして一週間後リクルートスーツに身を包みさっそうと広島の音大入学式出席が初出勤になりました。新任の先生ということで、ホールのステージに座らされ長い入学式典に参列したのですが、まだ時差ボケの生活習慣が残っていた為に、ステージの上で居眠りをして一瞬だったと思うのだけど船をこいでしまったのです。オリエンテーションで専門の学生3人と作曲科や教育学部の副科8人ほどを担当することになりました。翌週、始めてのレッスンで副科を履修した新入生の女学生から「先生、入学式で寝てらしたでしょ!先生一人目立ってましたよ!でも寝顔が可愛いって新入生全員が噂してましたよ!」と聞かされ顔を赤くしたのです。これ以後、大学の入学式も卒業式も式典には出席しないようになった、まだまだ純情な24歳青年先生の誕生ではありました。しかし、深いご縁をもった広島から日本中を台風の渦に巻き込む波瀾万丈の活動が始まろうとしている運命に気付くはずあろうもないバス太郎の初々しい社会人デビューだったのです。 つづく。

「貧乏暇有り躁鬱病生活」No.3

毎週一回広島へ通うだけの予定と、広響の希な定期と、偶に都内のオケが西日本巡回公演をする時にエキストラとして客演演奏旅行する以外、帰国直後までは関西に縁が無かった為、暇でした。ウィーンから広島へ呼び戻したと言う気配りからか、当初、音大も広響も交通費にグリーン車を上乗せしてくれていました。当然新幹線は自由席で行き、毎週学生達の飲食代に使いました。専門と副科の生徒だけだったのに、どんどん慕う学生が増え、半年後には毎週繁華街でコンパ宴会となり大赤字に成る始末ですから、仕事に出かける度にこっそり親父に小遣いをもらわなくては財布は空っぽだったのです。

そんな華やかな週に一度の豪遊と、家に帰れば、六畳一間の離れ別棟で小僧の生活に戻ります。と言っても、母は毎朝暗闇の4時頃から境内掃除をして庫裡の掃除、朝日が東の空を染める頃、落ち葉を燃やした煙の隙間から後光を差す様に日の出となり、玄関・座敷・トイレに至るまで生け花が飾られて朝食の準備がされています。また、父は朝六時の鐘突きの後、書斎で研究や執筆をされているので、小僧の仕事は年間行事の法要と葬式の手伝いしか寺に帰っても何もしないで、暗い引き籠もり生活だったのです。

「なんかせな、躁鬱病みたいになる!なにしたらええんや???」若いエネルギーをもてあますバス太郎は悩みました。「帰国したものの本当にしたいことは何なんだ?収入はどうやって得ればいいんだ?安定収入がないと自立できないし・・・、かといって今更一般就職活動もする気にならないし・・・・。」毎晩一人で悩み苦しむのでした。

しかし、楽天的で、しかも人を蹴落としてまで仕事やポジションを奪う発想が元々無かったので、暇なときは楽器を弾いていたのです。ウィーンの恩師から頂いたまだ日本では演奏されたことのない多くのソロ作品や、レッスンでご指導をしていただいた曲をもう一度復習する日々が続くある日、大観衆に喝采を浴びてステージに立つ自分の姿を夢にみたのです。翌朝「そや、帰国リサイタルを開こう!」自分が頑張れば来場してくださったお客様が喜んで拍手をして下さる!」そう思い立つと、さっそく地元の市民会館と音大に新設されたたばかりのホールを予約しました。後半年までにどんな曲をプログラムに入れよう??演奏曲目をあれこれ考えても、いまいち自分らしさがなく、折角のデビューリサイタルなんだから自分にしか出来ないプログラムにしたいし、わざわざ足を運んでくださったお客様にも満足してもらいたい。そう思い詰めてると、またまた不思議な夢を見たのです。お坊さんとコントラバスが同じステージに立ってワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の荘厳なオペラの様な暗いシンプルな舞台で演奏をしているのです。「目覚めてから変な夢見たな〜、ウィーンを離れると決めて、もう本場のオペラを鑑賞できないと思い、毎日オペラ劇場に通い詰めたから、こんな夢みたのかな・・・・。」「いや、そうか、自分が生まれ育った寺の開祖の「教信上人」を題材にしたオペラやったんや!!」

その日から、五線紙に夢の記憶をたどり、作曲を生まれて初めて始めたのです。パトロンも財産もないバス太郎は、予算的にとてもオーケストラとオペラ歌手を調達できません。イメージは楽劇で演奏は室内楽、でもスケールは大きく!と考え抜いた末、コントラバスとティンパニーから木魚まで洋楽と寺院の打楽器30種類、これにピアノを加えて、父が執筆された郷土史シリーズの「松のみどり」より抜粋したナレーションに添った四楽章形式の構成に決め、昼夜を問わず思いつくままに作曲を始めたのです。「うん!これなら、応援してくれた父を始め、壇信徒から郷土の名士の皆さんに喜んでもらえるかも・・・。これは、僕にしか出来ない仕事や!!」夢がぱっと開いた気持ちになったのです。

この時期、夢を現実に具現化する作業は、自分の頭の中だけで想像され、将に夢中になって部屋に籠もりっぱなしです。しかも、風呂も入らず部屋の掃除もしなかったので、猫が落とした蚤と竹藪から来襲する蚊の大群に献血しながら、それでも夏休みを挟んだ半年間、中学卒業以来10年振りに実家で過ごしたバス太郎は母の手料理が食べれて幸せだったのです。  つづく

「満員御礼大成功」No.4

バス太郎の帰国デビューリサイタルは郷里の市民会館と音大のホールでした。郷里では当時はウィーン留学も珍しく、楽劇「教信沙彌の生涯」を作曲中に各新聞社に取り上げられセンセーショナルを起こしていた為、市民会館開館以来クラシックでは異例の開場前から長蛇の列をなし満席となったのです。また、広島公演も毎回音大レッスンの後コンパをして学生達に人気が高かったせいか、殆どの現役大学生や出身音高の先輩後輩、またオケの同僚達が応援に駆けつけ広島も満席に近い状況でした。

「ありがたいな〜!自分の力だけではこんなに満席にはならないし自分はそんな価値のある人間じゃ無いのに、郷里では両親関係や兄弟知人そして留学時代を共に過ごした大フィルのコンバス首席奏者達、広島では師弟関係や広響の仲間の多くの方が動員してくださったんや〜〜、この御恩は演奏でしか、今はお返しすることが出来ないな〜〜!えらいこっちゃ〜〜頑張らねば〜!!」

プレッシャーを感じながらも、それ以上に感謝とご来場して下さった多くの皆様への奉仕の精神が怠け者のバス太郎を奮い立たせ、どちらの公演も大成功を修めたのでした。その反響はあとからヒシヒシと感じ入ったのです。それは公演直後から三月ほどの間に会う街ゆく人々全てが聞きに来てくださったのかと思えるほど、皆が笑顔で迎えてくれる錯覚に陥るほどでした。そして、それは現実的に仕事の依頼が増え、そこからまた様々な出会いが始まる日本での演奏家の道が開ける切っ掛けとなったのです。

公演記録テープを各時代の日本の師匠に送り感想ご指導を仰ぎ、ウィーン・フィルの親友にも「やったぜー!」と軽い気持ちで贈りました。ところがウィーンでは公演テープが回されて噂が広がり、やがて面識のない元、ウィーン・フィル首席で名著「コントラバスの歴史」の筆者でもあるプラニアスキー教授の元にもチラシが保管されていた事を十数年後のウィーン・リサイタルで対面して知ることになるのほど世界中に広がるとは想像も出来なかった一生懸命バス太郎帰国リサイタル一件落着でした。 つづく

「始めての卒業生」No.5

一年目でもう卒業生を出すことになりました。一般科目のように大勢の学生と向かい合うのでなく音大での専門の授業は個人レッスンが中心です。卒業生は21歳、先生は満25歳になっても学生達と同年代で、しかも在校生の中には他の大学を卒業して来た者も就学していて先生より先輩が数名いたのです。

兎に角、レッスンではこれまでバス太郎が師事した三人の先生の指導法を取り入れながら、バス太郎の教育活動は先生と言うよりは同じ道を目指す先輩や兄のような接し方で、一緒に悩み、一緒に練習し、一緒に苦しみ、一緒に楽しみを分かち合ってきました。その為、師弟関係は家族同然のつながりとなり、また他の楽器に比べ世界中どこでもコントラバスのレッスンを受ける弟子達は、自然と学ぶ態度は謙虚で礼儀正しく、また楽器の性格上包容力があり穏和でもありながら、向上心や志は立派な人格を形成する修行者だと信じていました。

また、バス太郎の場合、日本古来の考え方も兼ね備えていました。決して男女差別では無く、男は飯が食えて食べさせるだけの能力を身につけ、厳しい社会の現実にも対応できる強さと柔軟な姿勢を持った実力派になるように示唆していき、女性は真面目に取り組んだ専門の道が、様々な社会や結婚後の家庭にも生かされる様な音楽の美しさと厳しさを素直に感じ、いつか赤ちゃんを産んだとき優しく子守歌を歌ってあげたり、弾いてあげたり出来る優しい女性に楽器を通して、それぞれが持ってる個性的魅力を引き出したかったのです。

始めての卒業生は男子だったので地元のプロオケの入団試験を受けさせました。(実は音楽監督にバス太郎も首席に誘われたのですが、師弟で一緒に入団試験を受けるのも変だと思い辞退したのです)勿論、卒業生は見事一発合格でした。

その後も、多くの卒業生を楽壇に送り出すのですが、殆どの男子はプロオケ入団か公務員教師として安定収入を得、どの女学生も演奏技術は東京の学生以上にレベルが向上しプロオケに入団出来る実力を持っていましたが、卒業した女学生が様々な楽団や音楽界で活躍したあと幸せな結婚生活に入り、優しく子供を育てている報告を聞くと、「本物の音楽を間違いなく伝える事が出来た!」と初老になった今日のバス太郎は心から喜び安堵するのでした。

生きるために音楽を仕事に選ぶ事がプロの道。しかし、理想と現実は違い日本のプロオケでは、難無く回数こなしの演奏会をしている現実に身を置き、そこにポジション争いや対人関係が悪化して純粋な音楽をいつしか忘れてさせられてしまう事もしばしあるのも事実です。そう言った自分が我慢できなくなった実力ある奏者は退団し、また、その争いに敗れた者も退団します。しかし一般社会に適応できない或る意味ツブシが利かない音楽の道を目指してプロになった者は、生活の為その世界にしがみついてる自分を見失わない様に様々なアプローチをしないではいられません。気のあった仲間で室内楽をしたり、他のオケに客演に行ったり、利害関係なく同朋で集まりオーケストラを立ち上げたり、中には退団後ソリストになったりする凄い奏者もいます。それがバス太郎の師匠の元N響首席の中先生だったり、元ウィーン・フィル首席のシュトライヒャー教授だったのです。その偉大なる師匠から熱い音楽を伝えられた若いバス太郎は、自分の弟子にも感動した普遍の熱い音楽を伝えたい思い一心で24歳から52歳になるまで演奏しながらも教育現場にいられたのでしょう。(そして、この熱い思いは後に世界的なセンセーショナルを巻き起こすコンバスセミナーへと発展するので乞うご期待)しかし、今は人生の運命として、益々住職の法務が忙しく、学校に通う時間が無くなり生徒に迷惑をかけてしまってるので、来春最後の卒業生を送り出してから退職しようと密かに準備をしてる初老のバス太郎でした。 つづく

「オケのお勤め」No.6

そして翌年、要望されてオケに入団したバス太郎は、様々な経験をしました。オケの音楽監督が高校時代の師匠、常任指揮者が音大の次期学長、団員はまだ市民オケやNHK放送楽団のメンバーが中心でしたが、プロ発足後、広島カープと同じように文化面でも地域発展させる為に、優秀な人材を広島に呼び始めたこの時期、まだまだ苦しい財政でしたが、希望と活力に溢れ飛躍的に向上した地方のオケの一つとなりつつあったのです。

当初バス太郎は定期演奏会に客演する指揮者やソリストを接待する音楽監督に誘われ毎回高級料亭でご馳走になっていましたが、やがて特別扱いされていては一般団員との亀裂が生じると思いトップ会食は辞退し、セクションや団員、東京からのエキストラらを自ら誘い、練習や公演の後の打上でオケ内部の円滑なまとめ役をも果たしながら、客演首席奏者として毎回公演では大汗をかくほど一生懸命に肉体労働を惜しまない演奏に徹したのです。その熱演の甲斐あってか、少なかったオケの定期会員も増え始め、客席動員も徐々に広がってきました。

どの世界でも、どの団体でも、会社でも、存続している組織から給料や謝礼を頂く時、人はやがて不平不満を言い始めます。勿論それによって向上する事は個人生活にとっては悪いことではありません。しかし、バス太郎の場合は、厳格な父の影響が大きく、生涯、先ず親に口答えする事は無かったし、師事した師匠は絶対的存在で決してありえない事でした。また、先輩を敬い、後輩を労る事も自然と無意識のうちに出来ていたようです。ですから広島にプロのオケを誕生させ軌道に乗せるまで私財をなげうって築いた音楽監督の志や、常任指揮者やその時代の団員にも深い敬意を持って接する事ができたのです。

兎角、中途半端な若い技術を習得した世代の人達の中には、定年前の人たちを軽視したりするのを見かけます。例えば楽団では演奏技術は当然若い人たちの方が勝ってるかもしれませんが、今、自分たちが給料をもらえるのは、そう言った先達者の苦労の上に成り立ってる感謝の気持ちを忘れては成らないと言う信条の様なモノがバス太郎にはあったようです。先ず与えられた楽譜のパートで責任を果たす仕事をして、その上で、口でなく腕で即戦力となって黙々と一生懸命汗を流せば良いことなのです。

それは、あまりにも次元が違うウィーン・フィルを間近に見ていた為、洋楽では歴史の浅い日本のオケ事情を客観的に比較していたのかもしれません。ウィーン・フィルはベテラン奏者達や特にセクション責任持って団員皆で温かく新入団員を育て、伝統の奏法を教えていくのです。何と言っても毎晩ちがう長いオペラを演奏するのがウィーン・フィルの本来の仕事ですから、細かいタイミングや暗黙の了解にまで成ってる作品の曲想に適した奏法などは楽譜を一人練習していても解らないからです。

いま、日本のオケや様々な職場に求められる最善は、それぞれの特長をそこなわず、長い伝統を築く一瞬の一コマに個々の今現在いる自分が命をかけることかもしれません。と、今思えばその時は、そんなに偉そうなことは強く思わず、ただただ楽しく演奏してるバス太郎のオケ生活が始まったのでした。  つづく

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