本-開[朝の連続小説 バス太郎の誓い]本-開

<<この小説はフィクションであり、登場人物は実在の人とは関係ありません>>

 「ウィーンでも初仕事」No.28

復活祭が終わり順調にレッスンも充実してきました。火曜日は午後から教則本に添った基礎と応用の奏法研究。金曜日はピアノ伴奏の教授が1時から4時頃までレッスンに付き添って、卒業クラスや優秀な生徒一人一人に毎週贅沢にも伴奏をして下さるのです。しかも長年シュトライヒャー教授の伴奏もしてこられたのでどんなコントラバスの曲でも音楽的に伴奏して下さるので演奏に集中できます。しかし、練習不足で完成度が低いと途中でも一言二言助言されて退室させられ、また、下手くそだと聴講してるギャラリーも退室してしまいます。ですから卒業クラスで弾かされる生徒達は、必死に1週間で一つの楽章を完成させて最後まで弾ききりギャラリーが帰らないで聴いてくれるように頑張ってくるのです。伴奏の先生が帰られると、教授は、また最初に弾いた人から順番に先程の演奏での反省点を個別指導レッスンをして下さり、最後の人が終わると、卒業クラス全員でオケパートをトッティーで弾かされます。ベルリン放送響やトロント響、イスラエル・フィルやバルセロナ響、デンマークやアルゼンチンなど世界中から集まったプロ奏者達に混じって一番若い学生のバス太郎は必死でした。しかし、ある日、先生が

「バス太郎だけ休み、他の皆だけで、ベートーベンの第九番を弾きなさい!」とレッスン途中に言われたのです。

バス太郎は「こんなに一生懸命弾いてるのに、学生の僕は皆の邪魔になってるんだ・・・・」と悔しくて泣きそうになりながら、皆が弾いてるのを弓を止めて聴いていました。すると教授が、

「ほらね。バス太郎が弾かないと皆バラバラでバスパートの音になってないだろ!こんな貧弱な音でプロのバス奏者やってたら給料泥棒だよ!バス太郎の様に一生懸命バスの仕事に専念する事を忘れたらダメだよ!」と世界のプロ奏者を一喝され、バス太郎の頭を撫でられたのです。(プロ達を奮起させるために学生のバス太郎が当て馬にされたんだと、帰国後教える立場になってから理解できる様になりましたが、この時は単純に喜んでいました)

「え・え・え、僕は下手くそで外されたんじゃなくて、誉められてたんか・・・・。」と、さっき泣いてた子が笑顔一杯になるガキ子のバス太郎がそこにいました。(決して妥協されない教授に誉められたのは、後にも先にもこの時一回きりでした。)そんなオケパート事件以後、学友達からも慕われ始めた為、意地でも卒業クラスで毎週曲を完成させるには、本当に一週間の練習は必死でしていました。

それでも、長い夏休みに入る前頃、マリア・テレージア女帝の離宮シェーンブルーン宮殿にあるオペラ劇場での仕事を頼まれました。モーツアルト以前の古いバロック時代のオペラで、まったく知らない曲でしたが、選ぶほどの奏法が実践で使える程基礎能力を増やせた事や、本場の演奏会に毎日のように通ったお陰で曲のイメージも豊になった為か難無く弾きこなしました。すると、一緒に弾いた卒業生でインペクのビオラの先輩やチェンバロ奏者に声をかけられて、彼らのシュバイツァー室内合奏団と称するアンサンブルのバス奏者に選ばれてしまったのです。ウィーン市内の教会で開く定期演奏会や各地での公演に度々出演するようになりました(この時共演したチェンバロ奏者は卒業後同大学の教授になり、十数年後、日本への公演の度にバス太郎の家に泊まり込む付き合いに発展しました)こうして、安定したアンサンブルを支える通奏低音の評判は教会で祈りを捧げながら聞いて下さる多くのウィーンの聴衆にも受け入れられ、バス太郎はウィーンでも名前が少し知られてきましたが、そんな次元で自己満足したり有頂天になるどころか、まだまだ先の見えない天職を見つけ、密かに頂点を目指す向上心と、不安と広がる夢が同居する見えない将来に、浮き草の様に揺れ迷うバス太郎でも、謙虚に学ぶ姿勢だけは、変わろうはずがありませんでした。

「名車ボルボ・アマゾンで夏休み」No.29

1年目後期のゼメスターも終わる頃、ORF(オーストリア放送交響楽団)で演奏してる日本人コンバス奏者から古い車を譲り受けることになりました。既に15年以上年月が経ち走行距離も10万キロ走っています。しかし、大学の頃からカローラを義兄弟から譲り受けて日本中の演奏旅行に楽器を乗せて走っていたので、ウィーンでも車が欲しく、丈夫で長持ちのボルボに乗ることにしました。ベージュ色で丸みを帯びたスタイルは映画に出てくるクラシックカーです。

夏休みに入ると、ザルツブルグ近郊の湖ザルツカンマーグート周辺にドライブを楽しみました。勿論、奉仕の精神が旺盛で当時は好青年だったバス太郎は、浅く広く交際をしている沢山の彼女を毎回助手席に乗せていました。アメリカン・シアターのミュージカルでピアノを弾いてるナイーブなアメリカ人、モデルの様なウィーンの銀行のOL、ザルツから来てるウィーン大学で日本語をマスターしてからウィーン音楽大学に来たお嬢様、フランスやイタリアから留学してきてドイツ語のクラスで知り合った娘達、そして日本から留学してきたり、旅行でやってきた後輩の市内観光にまで夏休みは車が大活躍しました。

飛行機や電車では通り過ぎて立ち寄ることが不可能な秘境や文化遺跡も、車だと頻繁に訪れることが出来ます。好んでドライブしたのはドナウ川沿いの田舎の避暑地です。シューベルトやブラームスが滞在して作曲した別荘があります。美しい自然と人間が調和共生しながら暮らす文化がバス太郎には新鮮でした。街道を進めば、どんな小さな集落でも、街の中心は遠くからも見える教会のとんがった塔。アウトバーンで1時間半で着く地方都市リンツはブルックナーの生誕地。南に下った街アイゼンシュタットはハイドン生誕の家。ウィーンの森が始まるブドウ畑と歴史的重要なカーレンベルクの丘に登るハイリゲンシュタットからグリンチングへ向かう道沿いにはベートーベン・ハウスがあり耳が聞こえなくなったベートーベンが遺書を書いた有名な場所です。また、この田園近辺を散策して書かれたのが交響曲第6番でした。

ある時は国外のまだ東ヨーロッパで入出国が厳しいブタペストへもアメリカから留学してきたピアノ子と始めてドライブしました。二人の目的は楽譜を買うためです。西側と東側では通貨の価値が十倍も差があり、東ドイツで出版されてるペータース版が西ドイツで出版されてるものと同じモノでも十分の一の値段なのです。またハンガリー語のタイトルは読めませんがページを開いて読譜すると曲が解り、また専門のコントラバスの楽譜も、興味深いものばかりでした。第一次大戦まではウィーンのハプスブルク家の領土であった東欧の文化圏も音楽文化が発展してるのです。ハンガリーは東洋の血と西洋の文化が混じり合い、ジプシー民謡をクラリネット、ヴァイオリン、ビオラ、コントラバス、チンバロンで聴かせるレストランの楽団はエキサイティングでエキゾチックでした。異常とも思える程鳴り響くボヘミアンのコントラバスに興味を持ったのもこの頃からでした。(帰国後も約一年ごとに私用から客員教授や公演に訪れた欧州でボヘミアンのコントラバスを10本以上日本に持ち帰りました。)

「欧州の音楽文化圏の広がりと歴史は、国の風土や国民性によって、音楽作品も演奏も楽器も異文化交流の賜で皆こんなに個性的なんだー!」と、バス太郎は、日本から漠然としたヨーロッパのクラシック音楽をイメージしてたのですが、実際に土地に住んで、土地の臭いをかぐと、各国地方に独自の文化があり、奥が深く興味深いことに一々感動しながら異文化交流にはまっていくのでした。バス太郎は、各国の人々との付き合いから生まれた人間関係や、各地へ訪問滞在することでその土地の空気を五感で味わい、エキスを肌に感じとる貴重な経験を遊びの中から身体一杯にこの時期、吸収していくのでした。

帰国後の音楽的開花はこの経験に大きくゆだねられていたこととは気付くことなく、こうして毎回各国の彼女をエスコートする事に夢中になって長い夏休みを過ごしたお陰で、バス太郎は、もうドイツ語会話を日常生活は勿論、様々な行政機関の手続きまで、普通に困らない程度までにマスターしていたのです。 

「1年は10年の旧知の友」No.30

ウィーン郊外の避暑地へドライブして過ごした長い夏休みも終わり、新学期が始まりました。長い夏休みは学生だけでなく、オペラ劇場、ウィーン・フィル、オペレッタ劇場、演劇など楽団・劇団も、サラリーマンも夏休みの間、一ヶ月以上、南の海の見える国へ家族で大移動して過ごしているのです。ウィーンの街は観光客と観光客を相手にする商売人と寸劇ミュージカルやオペレッタしか無く、通常の公演レベルとは雲泥の差なので、耳が肥えすぎたバス太郎には聴くに堪えられなかったのです。それよりも、田舎の美しい自然に流れる河の音や、野山での小鳥のさえずり、森を吹き抜ける風の音が、素晴らしい音楽に聞こえたのです。

しかし、ちょっぴり優雅に暢気に過ごしすぎた夏休みの為に、レッスンまでの身体の調整に焦りました。もう一度、基礎から始めて状態を少しずつ戻し作らなければなりません。欧州の音楽家と同じ様に楽器をまったく弾かない日を何日も過ごした事を反省しました。ところが、これがバス太郎にあっていました。こうした夏休みの見聞も音楽のイメージに補充されるだけでなく、指にタコが無くなった為に、楽器を弾く能力が低下したのと同じく悪い癖も低下してるため、自然体で正しい奏法を注入することが出来たので、無駄な力が抜けて楽器がより響くように思えたのです。

いよいよ新学期始めてのレッスンに教室に入りますと、知らない顔の人が増えています。レッスン中に隣り合わせた2人の日本人男性と軽く会釈をしました。レッスン中の一人が終わったとたん、廊下の喫煙所に3人が揃って出ました。一人は大フィルの首席奏者で文化庁から派遣された2回目の留学、もう一人は新日フィルの首席で、やはり2回目の留学でした。お互い名前だけは聞いたことがあったのですが、二人がそれぞれバス太郎をその人だと間違えてレッスン中に会釈したことが、タバコを吸いながらの自己紹介で判明して大笑いしました。バス太郎と同期にバイオリン奏者の婦人と娘連れの家族で入学したもう一人の大フィル奏者が夏休みに帰国したので寂しい思いをしていましたが、今季も、なんだか楽しくなりそうな予感でバス太郎は嬉しくなりました。先に帰った同期の桜も、今回出会った二人も名門のプロ奏者であり若いバス太郎が日本に居たらなかなか仲良く付き合える相手では無かったのですが、ウィーンは不思議な所であり、20世紀歴史史上最高のコントラバス奏者の元では、どんなに世界の一流オケの奏者でも、世界の大学教授でも、ここの教室に入れば純朴な一生徒であり、それ以外それ以上も以下も無いのです。それは教授の純心で真っ正面から分け隔てなく接する人間性と、身体から溢れる音楽に、皆同じ立場として学べるからなのです。こうして、たった半年でも1年でも、志同じく、支え合い共に助け合いながら過ごした留学生同士は、自国で過ごす10年以上の親友や先輩後輩となり、その深い心の絆は生涯続いていくのでした。

「記憶喪失」No.31

充実した二年目を迎え、ドイツ語も既に各種手続きも得意になったバス太郎は、生まれつきの奉仕の精神で新たに留学してきた同門、先輩や後輩、知人や頼ってきた人達すべての世話をしてあげられる様になっていました。その為に、同姓は勿論、女性にも頼られ、複数の女性とオペラの様な情熱的な恋愛に次々に発展してしまいました。そんなややっこしい時期に、日本に残していた彼女が卒業式前の休みにウィーンとパリのツアー旅行でやってきてしまいました。遠く離れた国との2年の歳月は心中は変わって無くても環境が違い過ぎ、嘘がつけない馬鹿バス太郎は、その彼女が参加したツアーのオーストリア最後の観光地ザルツブルグ駅で別れるはずが言い出せなく、一行のパリ行きの国際列車に飛び乗ってしまいました。

ザルツまで送った車を駅前に置いたまま、帰りの電車代ぐらいしか財布に入っていないのに、電車が発車した瞬間後を追いかけて飛び乗ってしまったのです。始めてのパリで安宿を探し、ドゴール空港から帰国する彼女を見送る前日に二人の運命が無理矢理引き裂かれる事を自覚して別れを告げました。その後一人でルーブル美術館に二日通い美術を鑑賞しても美術の教科書の題材としか思えず。ウィーンの女帝マリア・テレージアの娘を政略結婚で嫁いだルイ14世のベルサイユ宮殿に訪れては、革命の中悲劇の幕を閉じるマリー・アントワネットと先程日本へ飛び立った本当は愛し合ってるのに別れを告げた彼女を重ねてしまい、豪華な黄金の宮殿も白黒写真にしか見えず。凱旋門から華やかなシャンジェリゼ大通りを歩いても何の感動も無く。モンマルトルの丘のサクレクルー寺院、セーヌ川沿いのノートルダム寺院へ彼女への懺悔の気持ちを捧げても、空虚を満たすことは出来きません。3日目には小遣いも底をついたので、飲まず食わずで夜行普通列車に16時間揺られてザルツブルクまで戻り、再び車を走らせウィーンまで不眠不食で帰り着く無謀な旅をしてきました。

帰ってからも、多くの人を一度に傷つけ、その事への苦しみに絶えきれない自業自得の地獄の中から脱却できないでいるある日、運命の悪戯で婚約することになった彼女と、家族5人で留学してきたバス弾き一家の車二台で冬のドナウ川沿いの古都メルクまでドライブに出かけました。3人の子供の世話役兼遊び相手をバス太郎はしていたので、子供達はバス太郎を慕い、行きの車にも乗り込み、いつも離れません。久し振りに童心に返り、子供達と広大なスケート場の様になっているドナウ川の氷上を普段の靴のままスケートをしたのです。新しい靴が買えないで履きつぶした靴底は良く滑り、スピードがでました。と、その時、滑って転んだのです。バック転のように一旦空中に浮いて後頭部から硬い氷に落ちたのです。笑いながら子供達が「大丈夫?」と声をかけてもバス太郎は「此処は何処?」「君たち誰?」「何してるの?」と、訳の分からないことを言うモノだから、子供達が川岸にいた親たちに叫んだのです。

「大変やー!バス太郎がアホになった〜〜〜!」

遠くから親が「そりゃ、いつものことやーー!」

それでも子供達は必死に異常事態を伝えたのです「ちがう!いつもの冗談とちがう〜〜!ほんまにアホになった〜〜〜!!」

バス太郎に降り注いだ運命の悪夢を、忘れたいと思っていた半年間の記憶を失う健忘症的記憶喪失になったのです。今すぐの現時点の事は平然とこなせるのですが、1秒過ぎると記憶が無くなります。さかのぼれば現在の1秒後から継続して半年前までの記憶に障害ができたのです。

今瞬間の事は出来ても何をしてるのかの判断になる記憶が残りません。それでも車を運転してウィーンに帰らなくては大きな病院もありません。助手席に座る知らない人(例えフィアンセでも記憶障害の半年間に出会った人は記憶から無くなってる)から「ウィーンに帰るの」「ウィーンの病院へ行くの」と言われ続けられ、何度も時計を見ては納得してまた1秒後に忘れて時計を見るので腕時計を外され、なんとか100キロの距離を無事故でウィーンまで戻ってきました。緊急連絡で待ちかまえていたウィーン大学日本文学科卒で大統領秘書官になった友人が国立総合病院へ入院させてくれました。が、それも記憶に残っていません。しかし、バス太郎はいつも以上に医師や看護婦の質問にドイツ語で的確に喋り、周りの人たちを吃驚させてしまいました。

頭の打ち所が悪くて記憶喪失になったのですが、この日から頭の回転が一時期非常に高く天才的な一面も現れたのです。馬鹿と天才は紙一重と言いますが、この記憶喪失になった一時は、そんな病状で2週間入院し、あとは自宅療養で回復を待ったのです。

多くの友達が見舞いに来てくれるのですが、半年以内に出会った人の全ての記憶がないので、初対面の様に名前を聞く始末です。が、三週間も経つと、ジュワーっと、ちょっとした切欠で映像が浮かび上がり色々なことをその都度、思い出せるようになりましたが、その時はまだ頭痛を伴う為、無理に記憶をたどることを止めました。そして1ヶ月。記憶もほぼ回復した頃に見舞いに来た一人の悪友が「おーい!おまえに貸してた5000シリング覚えているか?」借りたのは500シリングなのに相手が記憶喪失を知って冗談で騙してきました。その事をしっかり思い出すほどバス太郎の記憶は既に正常になってきたのですが、バス太郎も負けずに「いやー何にも記憶に残ってないな〜〜!ごめんなさい!お金借りたっけ???」と、答えられるほど2ヶ月で頭痛からは完全に回復したのです。

しかし、一方と恋愛すれば一方が失恋する、どうすることも出来ない悲しい事件の心の痛みと、頭を打った瞬間の痛みは未だに記憶障害のままでした。人間とは本当に都合よく出来てる動物だと神に懺悔と感謝をし、救ってくださる阿弥陀如来の慈悲にすがるしかない!それからレッスンや買い物で街にでる毎に教会へ足を運び懺悔を続けるようになり、好意から深入りしすぎ、不本意な優しさや融通不断で代えって人を傷つけ悲しませた事に反省したバス太郎は、楽器だけに集中する時期に再び突入しました。

その後も、いくら戒めても、成功と挫折と、喜びと悲しみの天秤の皿に重みがかかり、バランスを保てない、同じあやまちを繰り返す中で、少しづつ人間社会の心の葛藤と行動の制御にぎこちなくも経験を重ねて復活する人生を送ることになるのですが、初老になったバス太郎は、本当の出家をするか、そんな人生に早く終止符を打ち、苦しみも悲しみも何も無いあの世へ行きたいと、ふと思うのでした。

「比叡山籠山〜バス太郎の誓い」No.32(最終回)

別れと懺悔の波乱から1ヶ月、先に帰国したピアノ子から、大会社社長の親が彼女を政略結婚に利用され断れなかったと便りが届きました。その手紙と一緒にバス太郎は指輪をドナウ川に投げ捨て、雪解け水で茶色激流に全ては流されました。

バス太郎の目標は、毎週のレッスンで一曲仕上げては次の師匠のレパートリーの曲を貰い、一曲でも多く楽譜をコピーさせて頂きフィンガリングやその曲独特の奏法をマスターする事に必死になりました。それは、異常なほどの集中力を発揮した結果膨大な曲数になり、日本では出版されていない楽譜や師匠直筆の手書きの貴重な楽譜を日本へ持ち帰り、その後、バス太郎が収集した楽譜を無償で弟子や仲間に分け与えたので日本全体のコントラバス界の発展にも大きく貢献することになったのです。

想えば異国で独り寂しく暮らす多くの留学生が過ごした時間は、いつしか目標を見失い、挫折し、中には大病をしたり、自ら命を絶ったり、癌や難病に冒され、中にはドイツ・バッハゾリステンに就職が決まった希望に満ちたバス奏者が準備の為に一時帰国した実家への沿道でポックリ病で倒れ、そのまま帰らぬ人となったり、華々しい経歴に箔が付く人ばかりでなく、普通でない正夢と悪夢の人生の、ほんの一瞬なのかもしれません・・・・。

バス太郎も激動の2年を過ごし、普通でなくなっていたのです。そんな風に思えていたところへ、父から一通の手紙が届きました。「夏休みを利用して帰国しなさい。しかし実家に帰るのでは無く、比叡山に籠もって二ヶ月の行をしなさい!」とその夜、威厳を持った大きな身体の父が再び目前に現れた夢を見ました。

寺が嫌で音楽に逃げ、海外へ逃亡してきたバス太郎が素直に比叡山に登ろうと思えたのは、亡くなった知人や友人の供養や、パリで別れて悲しませたヴァイオリン美への懺悔や、結局ドナウ川に指輪を捨てることになった騒動への戒めや、もう一度、精神修行からやり直して自分の音楽をより深いモノに高めたいと思う複雑な心境に変わっていたのです。

朝2時に仏前に供える山の湧き水を汲みに修行僧の寮を出発、帰ってから冷水を浴び、一日が就寝まで休息もなく分単位で学問と作務、務めと法儀作法などスケジュールがぎっしりの修業です。ただ、厳しい修行でも、日本食に餓えていたバス太郎には、朝粥、精進料理の野菜の味が身体に染み渡り、その感謝と懺悔だけで60日間の修行を満行することが出来たのです。修行後半には禁酒禁煙と精進料理、そして規則正しい生活と精神修行のお陰で、記憶喪失以来偏頭痛に悩まされていたのが治り、不摂生で荒れていた顔や肌はツルツルになるほど心身共に仏に仕える綺麗な身体になった様な気になったのです。

山を降りて三日間実家に戻り、またウィーンへ飛びました。僅か2ヶ月前まで過ごしたウィーンとなんだか違って見えました。ウィーンから日本を軽蔑視していた自分の心が違ったのです。比叡山で実際に声に唱えた声明は、グレゴリア聖歌にそっくりでした。「二千年以上も時間が経ってもいまだに欧州の文化と日本の文化は、中央アジアで発生した古代文明がアレキサンダー大王の遠征や経済交流、風土と宗教が影響しあい、文化が融合して同じ時期に再び東西に別れて発展しても、どこかでつながってる!」「そして日本の文化は西洋文化よりはるか昔に発展し洗練された高度な文化が保存されている宝庫なんだ!」「しかも物質的建造物よりも豊かな精神的文化が残されていた!」日本人に生まれた自覚と誇りに満ちあふれて、益々、日の丸を背中に背負って3年目の留学生活に入りました。と、今までのもやが晴れたような心境の変化が次第にハッキリと自覚できるようになってきました。

「僕は、何か使命を全うするために此処に存在してるんだ!」「何となく漠然と見えてた夢と現実から逃げてきたようだけど、それも必要不可欠な回り道だったんだ!」と比叡山の修行のお陰で考えられるようになったのです。

「よし!僕の修行は一生かけて自分のためでなく、歴史に生きたペンの先の一点の滴かもしれないけど、今共に生きてる同胞や未来の人達のために、先生や師匠や先人から学んだ事を生かして、他の誰にも出来ない、自分にしかできない境遇を逆に利用して、騙されても騙されても人に利用される価値のある人間になったるでー!」と悟りを開いたのです。

バス太郎はそれから半年後ウィーンを引き上げ、東京のオケに誘われ戻りました。しかし、東京は人が多過ぎ、学生時代の印象と帰国後の印象がまるで違って見えました。「仕事には便利だけど、東京には住めない!」「まだ、何をするか、何が出来るか解らないけど、実家に帰ろう!」「もう、人々のポジション争いや、金権や見栄の為にうごめく欲望と金儲けの渦の中に飲み込まれて自分を見失わないで、貧乏でも心を自然体に保ちたい!」と、田舎の実家に本拠地を中学校卒業以来戻したのです。

バス太郎はコンクールや各種オーディションに出ても本気でやればいつでも希望のタイトルを取得できる技術や方法が身に付いてるとも自負していましたが、その努力には程遠いことも知っています。しかし、誰かが一位になれば誰かが涙を見る事になるコンクールやオーディションはスポーツの世界だけで十分で、音楽の世界では不自然だととの信念も持ち合わせていたのです。負け惜しみと言われないように、メダリスト達との共演で彼らより音楽的に演奏して証明したいとも思っていました。帰国後は精力的にお呼びがかかればプロアマ問わず全国津々浦々公演に出かけました。自分の帰国リサイタルに自坊の関係する約1200年前の聖僧をモチーフにした楽劇音楽を作曲してプラグラム初演に挿入しました。

「逃げ回るのを止め、寺に帰ってきたと言うことは、何時か来る寺から一歩も外に出られない住職になると言うことだから、兎に角、住職である父が現役で居てくださる期間しか、活動は自由に出来ないから、今出来ること、この世界で突っ走るしかないんだ!」

バス太郎は、何か大きな時間のお化けに追われるように、夢に描いた事を一つ一つ現実に開花させる人生を駆け出しました。それは、決して自分だけの夢ではなく、その夢は、いつも基本は誰かに感動を与え心の笑顔を開かせる為の自分との戦いでした。必要とされる人間になり、世界から公演に呼んでもらい、自宅を開放してのサロンコンサートからセミナー合宿でも、そんな活動に出会う人々は皆が良き協力者として、また感動を分かち合う同朋として輪が地球規模で世界に広がり続けて行くのでした。

「どの道を通っても、すべては修行の道、どんな道を通っても、最後にたどり着く精神的目的地は同じ!通る道は違っても、皆それぞれの足跡はいつしか風雨に消えても、大事なのは自分の足で、自分で選んだ道を、自分の歩くスピードで、前に進み続け、いくつもの山を乗り越えても、まだ霞がかかる先に見えるより高い山を乗り越え、例え失敗して谷底に落ちても、またはい上がり歩き始める、その目指す道のりに大きな意味があるんだよ!決して自分勝手な結果や足跡に執着してこだわり囚われてはならないで、花鳥風月を共に鑑賞しながら、存在する全ての生命にも慈愛を注げる大きな心を養いながら、人間の誰かを助けることが出来る様に歩け!」と仏道の師匠でありる父から中学の頃聴いた言葉が、住職交代して7回忌を迎えた今日も耳に残り、また、心の奥底には4年前に本当の神になったコントラバスの神様の師匠から受けた感銘のバスの響きも、高校・大学時代の偉大なる恩師の音がいつまでの鳴りやまないまま、今、初老になったバス太郎の音楽的使命がまもなく終わろうとしてるのでした。

「バス太郎」の皆様ご存じの帰国後の活動から再開するか、あるいは「音楽住職の仏道修行と研究」が、次回始まるかどうか今は決まっていませんが、あるとすれば今年の12月の31日間です。ご愛読有り難う御座いました。

2006年3月31日脱稿。現在まだ開花してない今年の教信寺境内の桜は4月8日の花祭り頃が五分咲きぐらいになりそうです。

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帰国後の出会いと奮闘記へ続く

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