本-開[朝の連続小説 バス太郎の誓い]本-開

<<この小説はフィクションであり、登場人物は実在の人とは関係ありません>>

 「始めての鬼のレッスン」No.8

入学オリエンテーションも終わり、希望の新生活が始まりました。新入生歓迎会では体育会系のブラスの先輩が友達になった管楽器の一年男子を近くの遊園地へ連れて行き、そこで丼鉢で日本酒を飲ませ、ジェットコースターに乗せたものだから、急性アルコール中毒で救急車で運ばれる事件がありました。バス太郎は、或程度高校時代から料亭で美味しい酒の飲み方を師匠から教えて頂いていたので、勿体ない飲み方をさせるのは良くないなと内心先輩達を批判しました。そんな桜の花に浮かれ終わった頃、始めてのレッスンが、去年廃止になった夜間二部の校舎でレッスンするから来るようにと連絡を受けました。玉川上水から国立へ行くと薄暗い古びた校舎で、指定されたレッスン室辺りへ歩いていくと大きな怒鳴り声が聞こえてきました。

「あんたね、バスがバスらしい音を出さないで、うわっつらで弾くんじゃないよ!此処はこういう風に弾くんだよ!」「ゴーーーウ!」地響きするような音がドアから波動と共に出てきて廊下一杯に響きわたりました。前の時間帯で受講されてる先輩のレッスンでした。もう、こわくて教室に入れなく立ちすくんでいると「誰?入って!」

心臓破裂しそうで顔面蒼白で足がガクガクしながら「バ・・・ス・・太郎・・・です・」と、震えた声で答えました。教室の中では涙一杯の先輩らしき男性がいて、テレビで見ていた憧れの燕尾服の紳士だと思っていた人が、季節労働者の様な格好で仁王立ちしています。(うわ〜〜、こんな所にくるんじゃなかった)バス太郎は既にここに入学したことを、あまりの恐怖心で後悔してしまいました。

すると、さっきまでとは別人のように優しい声で「おお、バス太郎君、入学おめでとう!」と言われるで、呆気にとられました。先生は続けて「コントラバス協奏曲を弾いてここに入学したのは君が初めてだよ!いや全国の国公立大学でも始めてかもな!しかも、しっかりした音で正確に弾けてたな!君の高校時代の先生は立派な先生だな。ちゃんとバスの弾き方を教えられてるね!感心したよ!」と、高校時代の師匠を誉めてくださったので嬉しくなり、単純なバス太郎は(この師匠の門を叩いてよかった)と思ったのでした。

「始めての仕事」No.9

こうして大学のレッスンは新旧校舎や先生の自宅へ通うなど不定期に始まりました。飛ばして試験で弾いただけの31エチュードを第1番から始めたのですが、最初の二分音符二つ弾いただけで中断。重みを駒の近くで乗せて弾く為に腕を伸ばしす事を徹底されて半年が過ぎていくのです。兎に角、厳しいレッスンでしたが、一つの音に対してのプロ意識と、当たり前の音楽を当たり前に弾くためには、とんでもない精進がまだまだ必要なんだと思い知らされたのです。

そのせいか、大学では1.2年生中心のBオケと、3.4年生のAオケ、そして国内トップレベルの選抜ブラスオルケスター、室内楽、などなど学内でオケの授業以外のアンサンブルに頼まれて大忙しでした。それは、こんなおだてられに乗せられた事から後に引けなくなったのです「バス太郎の音は大音響の中でもかき消されることなく、本当にしっかり低音が支えてくれるよなー!また、頼むで!」と、先輩や卒業生に重宝がられたのです。でも、それって本当はすごく体力と精魂を使い果たす心身共に疲れる本当にしんどい将にビル建設と同じで、大きく高ければそれだけ地下に深く大きな礎石が必要な「人目に見えない隠れた縁の下の力持ち」の土方仕事の始まりだったのです。

そんなまあ一言で言えば芸風が学内の噂から都内全域に噂されるようになり、都内のプロオケ・アマオケ・寄せ集めオケ・室内オケ・教会アンサンブルなど、引っ張りだこになり、殆ど学校のオケとレッスン以外は都心へ仕事に出かける毎日が始まったのです。

大学の授業は落としても自分だけの責任だけですが、仕事では、演奏して生活してる人たちの集まりなのですから、絶対に迷惑かけられません。良く演奏される殆どの作品は中学時代にレコードがすり減るまで聞いて曲想は解っていたので、実際に現場でどんな奏法が適切か、どこのパッセージが難しいか、どこのテンポの変わり目が重要かなど、仕事に行く前は、不安を解消するまで夜はスコアリーディング、日中は部分練習と大音響でステレオを鳴らして曲の通し練習を夢中で準備して仕事に挑みました。

仕事場では学生らしい謙虚な態度で年輩の旁々の話を笑顔で聞き、いざ演奏となればピタッと首席の人に合わせつつも、その先のチェロやコンサートマスターにも追従しては、瞬時に彼らの要求に応えられる音を選び反応する瞬発力と順応性が鍛えられ、それが演奏仲間や指揮者や主催者に徐々に信頼されたのです。しかし別にそれを狙ってとった態度でなく、責任重大な現場で即戦力の弾き方を実践で確認できる喜びと、その都度の新しい発見や自分たちの出した音が壮大な音楽に発展していくことに感動し、その生きた音楽に忠実だった為に不思議に自然に出来ていたのです。そうなると楽しくて、もう学校は殆ど行かないで、地方演奏旅行や、地方のプロオケにまでエキストラ客演に招かれ続け、お陰で親からの仕送り以外に小遣いが毎回もらえるものですから当時のサラリーマンより裕福になり、仕事が終わると夜の繁華街で毎回豪遊する未成年が誕生してしまったのです。(これは教育上良くない告白でした)しかし、プロのオケマンに混じって、そんなことが未成年の学生に出来たのは、やはり師匠の徹底した実践的教育の賜だったと(勿論、外で演奏して稼いでることは怖い師匠には内緒でしたが)深く感謝しつつ酔いつぶれては、翌日も勉強を重ねる大学一年生でした。

 

「卒業演奏」No.10

今朝は時間的な話がちょっと30年ほど飛びます。バス太郎はウィーン留学で師匠に出会うまでは、コントラバスのソロ楽器としての可能性を高く見ることが出来きていませんでした。この楽器はオケの中で生きていく楽器だから、オケパートに出てくる音域やパッセージをしっかり弾き、メロディー楽器を助け乗せてあげればいい陰の役者である。だからヴァイオリン子やチェロ美、ピアノ男や歌姫が一般大学での卒業論文に匹敵する音校や音大での卒業演奏に選ばれるのであって、自分は関係なく(ヴァイオリン子やピアノ男が3、4歳で始めるのに太刀打ちできない)と当時思っていたのです。しかし世界最高のコントラバスソリストの称号を誰もが認める師匠のもとで独奏楽器としての研鑽を積んで帰国後演奏活動の傍ら30年にも及ぶ音大での指導は、ヴァイオリンやピアノと同じ音楽を奏でる楽器として独奏楽器としての可能性も伝授してきました。その教育の中でヴァイオリンやピアノと同じ土俵で何人かの卒業演奏に選ばれる弟子達に出会えたのです。また直接指導した弟子からコントラバスセミナーに参加してくれた学生達からは、様々な国内外のコンクールやオーディションに好成績を残し、コントラバスでも表現力豊かな楽器として世間の認識を高めるにまで至った事は嬉しい限りだとバス太郎の老後の想い出になっています。しかし、決して彼らはオケの中のバスの役目をないがしろにしてはいないと信じます。オケパートがまともに弾けないで独奏にばかり目を向けるのは楽器の役目を本当に理解せず仕事にならないからです。世界広しと雖もコントラバスの独奏だけで生活してる人は居ないからです。普段オケの首席奏者であったり大学の教授であったりしながら、時折独奏者としてこの楽器の可能性を追求してるからです。

実は昨夜、今年の卒業生が卒業試験で独奏楽器よりも音楽的な演奏だったと教授会で選ばれ、久し振りに、しかも卒業演奏会最後に演奏する「トリ」に出演したのです。僅か10分の演奏の弟子の晴れ姿を応援する為に往復560キロ走ってきました。それだけ弟子の成長は嬉しい限りなのです。

バス太郎は、高校・大学・留学時代の師匠に可愛がられ懇切丁寧に手取り足取り教わっただけでなく、食事をご馳走になり、酒の飲み方も教わり、個人レッスンの日には駅まで出迎えて楽器を車で運んでくださったり、様々な楽器の大家を紹介してくださったり、将に人生そのものを伝授して下さったのです。当時この楽器をやる人口が少なかったコンバスは、何十人も分単位でレッスンをこなしてるピアノやバイオリンと違い、こうしてとんでもないお世話になってきた裏話が山ほどあるのです。だからバス太郎もその立場になった時には直接恩師に恩返しするのは恥ずかしいので、こうして恩師への感謝を自分の弟子達に恩返しをしたいとずっと思っていたのかもしれません。そんなコンバスの世界こそが、地球の裏側であっても何処に行っても時空を越えて意気投合できるのです。それが世界中仲間のコントラバスファミリーたる由縁なのですかね。

(卒演を終えた楽屋で)

「兵士の物語」No.11

話は大学2年の頃に戻ります。別門下のコンバス4年生に「ブラスは嫌いだからバス太郎君、変わって出て!」と言われて、授業単位関係ないのですが目上の人に頼まれたらなんでも引き受けるDNAから断ることも出きず、学内外の演奏会に出演させて頂いたお陰でバス太郎の低音の魅力は急上昇、知人や顔なじみが止めどもなく増え続けました。そして無事2年に進級してまもなく、そうして仲良くなった管楽器の先輩から一つの演奏依頼を受けました。(先輩と言っても6・7・8年生中心です。当時この大学の管楽器は自分で働き授業料を納めながら学ぶ学生が多く、入学する一年前まで夜間の第二部があったのですが、夜の演奏で稼ぐ人が多かったので廃止されました。夜の演奏とはクラシックのオケからビッグバンド・ジャス・オケ、またナイト・ダンスクラブやジャズクラブでピアノトリオからクインテットの生演奏をしたり、テレビ局やスタジオ録音で歌謡曲の生伴奏やレコーディングなど、当時のサラリーマンより高収入を得る者から、新聞や牛乳配達する苦学生まで様々でした。管楽器の先輩達はそう言った仕事のために留年するのが当たり前で、高校から一年先輩だった親友はバス太郎が4年になった時、学年は2年後輩になってるほどでした。しかし管楽器の人達にとっての留年は、それだけ仕事が出来る実力があると言う勲章のようなものだったのです)

東京・倉敷・松山公演でストラビンスキーの最小管弦打楽器楽団作品「兵士の物語」がメインです。弦楽器はヴァイオリンとコントラバスそれぞれ1本で、その少し前に毎日コンクール1位入賞してセンセーショナルを巻き起こした芸大3年だった古沢英子さん(現在はスイスの名門チューリッヒ・トーンハレの史上初めての日本人女性コンサートマスターとして20年も就任して活躍)が招かれバス太郎は感動の共演でした。ですから最年少のバス太郎は皆に迷惑をかけてはならぬと練習に励みました。しかし譜読みは変拍子の連続で苦手な算数の様なもので脳味噌パーン状態です。そこでストラビンスキー自身が自作指揮自演で録音したレコードをすり減るまで何度も合わせて練習してると、アンサンブルの要である責任の重大さを痛感しながらも格好いいパッセージも算数から音楽的になって弾けるようになり、おもしろくなってきたのです。そして先輩達に大変お世話になりながら、夏休みを利用した珍道中の演奏旅行が始まり楽しい貴重な経験と中四国地方の冒険旅行をさせてもらいました。その後、別のグループからも「兵士の物語」を依頼されて東京・小倉・博多・長崎の公演だったので、ついでに九州観光周遊旅行も家族を巻き込んでやっちゃったのでした。しかしそのドライブは東京名古屋間しか高速道路が無い時代でしたから、東京から長崎までの往復運転は、ストラビンスキーの変拍子の難曲より、はるかに苦難の道のりでした。しかしそんな全国各地のオーケストラ客演や室内楽演奏旅行に明け暮れた大学生活も4年生になった頃、一変するのです。そのお話しはまた後日。

 

「公開レッスンで大恥」No.12

旧東ドイツの名門ライプチッチ・ゲバントハウス管弦楽団首席のコンラード・ジーバッハ教授の公開レッスンに芸大・国立・洗足から2名ずつ推薦され、その中の一人に入れてもらったときのことです。会場に行くとN響始め都内のプロオケ奏者から都内のコンバス学生が殆ど聴講に集合していました。実はこの頃、全国のオケ仕事にも慣れ、団員やエキストラのベテランに混じって練習もしないで有頂天になり同じように遊んでしまっていたのです。そんないいかげんな状況で公開レッスンを受けたものですから、ガチガチになる悪い弾き方になってしまい教授に「そんな力任せの弾き方じゃ近い将来身体が故障して楽器を弾き続けることは出来ないよ!」「ビブラートも力が入りすぎて痙攣してる!」などとレッスン中も、直後の聴講生からの質疑応答でも再び皆の前で指摘されたのです。いろんな失敗を繰り返し、また社会的ルール違反による処分まで受けてきましたが、波瀾万丈の失敗だらけの青春時代の中でも平気だったのが、専門の事での失態!この時ほどショックで挫折したバス太郎は初めてでした。「自分を指導してくださり推薦してくださった師匠に恥をかかせてしまった!恩を仇で返してしまった!自分の甘さや天狗になった有頂天から、師匠に申し訳ないことをしてしまった・・。」と、師匠の期待に応えられずに迷惑をかけてしまった事に落ち込み反省したのです。それ以後、自分自身への甘えに劣等感に陥りながら長いスランプ状態になりました。漸く学業に復活しつつ真剣に仕事にも取り組みはじめたのもこの頃からです。それは、この失敗がもたらした結果だったのかもしれません。

「ここまで日本中に恥をさらしたのだから汚名挽回をいつかなくては師匠に申し訳ない!」この時、密かに心の奥底に刻んだのです。しかし、開放的楽天的な性格は直ぐに治らず、何度も失敗を繰り返す度に、あの時の密かに刻んだ誓いを思い出す人生を送りはじめました。後になって、一緒に受講した人たちの顔と名前が一致しました。そして現在ではその時の受講者全員が今日の日本の楽壇を支える存在になって活躍しています。

失敗しない人など存在しない。しかし、自分への甘えから、何度も繰り返す人と、徐々に戒め失敗の回数を減らす努力をする人に人生の差が出てきます。バス太郎は前者のタイプで何度も失敗を繰り返して来ました。決して悪い人ではないのですが、精進を怠ると人生への甘さが表に出てくる怠け者です。そして調子者だから良いときと悪いときの力の発揮が極端なのです。若いバス太郎にはまだまだその解決の方法など実践できるはずが無くただ寝て忘れるしかない、どうしょうもない愚か者の一面があったのです。

しかし、失敗から学ぶなんて事は、そう簡単なことではありません。浮き草の様に世間に流されながら皆同じ失敗を繰り返します。少なくとも同じ失敗は繰り返さない努力を怠ってはいけないとは解っているのですが忘れてしまう。だから、最大の開拓は、いつまでもぬるま湯につかってないで、一生懸命頑張ってるグループに身を置き環境を変えて、より上を目差す事だと、その時、気持ちが湧き出てきたのです。ところがあるていど頑張って目標達成してそこに慣れてしまうとまた失敗が起こります。結局、人生は失敗の繰り返しで、誰もが将来のことは不安で、受験も就職も結婚も家庭も失敗しないで送れる人間はいないし、自分という人間を磨かないで表面的な結果を求めても得られない!成功者に見える人も、社会人も先生も皆それぞれの世界で苦しみながら我慢して頑張ってるんだ!でも、本当の成功者は解き放たれた心で純粋に精進した人がなせる技だ!そう思ったとき、バス太郎は少し救われた感じがしました。

それは親父からもらった本に書いてある言葉を見たときでした。般若心経の色即是空の「空の心」を簡単に説いた薬師寺官長高田好胤の心の書でした。

空の心とは

(1.かたよらない心)

(2.こだわらない心)

(3.とらわれない心)

この三つをT.P.Oに忘れないでいつも備われば、失敗を繰り返す根本から自分を救ってくれるはずだと、その時バス太郎は強く思ったのです。

 

「大学卒業」No.13

1.2.3年と授業にでないで仕事で全国各地の演奏旅行に飛び回っていた為、朝9時から夜7時半まで一週間昼休みもなく履修届を出すことになりました。4年になって2年生と一緒にドイツ語の授業に出たり、3年で落とした教職課程も総て授業を取ったのです。マンモス校なので一般教科は学友に代返も頼んだりの協力を得ましたが、なんと総ての教科の試験に合格して卒業出来ることになったのです。本人は勿論、同級生から後輩まで誰一人バス太郎が卒業できるとは思っていませんでした。当然の様に大学に残るものだと思っていたのですから驚かれ、また、バス太郎は卒業後の事で悩む羽目に陥りました。なんだか急に大学に出て行けと卒業させられると、仲間とも別れないと行けないし、仕事も決めなくては、約束の比叡山に籠もる修行が急に現実となってくるし「やばいな〜〜!!」と思っていると、高校時代の恩師から「エリザベト音大は市内で通勤できるけど作陽音大は津山なので遠いから、君が帰ってきて後を見てくれないかな、ついでに広島交響楽団に入団してくれないかな」と連絡を頂きました。有難いお誘いでしたがバス太郎は「青二才の私が大学の先生にはまだまだ早くておこがましいし、仕事をし過ぎて、自分の勉強不足を卒業時に反省し、もう一度本気で勉強したいとの思いが強く、地方に帰る就職は、まだ考えられません。有難く存じましたがこの度は遠慮させてください。すみません」と丁重にお断りしたのです。それは安定収入の仕事も大事だけど決してそれが一番の目的ではなく、限られた人生で男が如何に生きるかが大事だとの幼少の頃からの胸の内に理想があったのです。しかも、まだその生き方すら解らないまでも、毎回毎回、目前に迫る山を乗り越え、より魅力ある遠くにそびえる高い山の頂上を目指す事に迷いは無かったのです。そして、密かに願っていたウィーン留学の決意を師匠に相談し、その後、両親にお願いに帰郷しました。

「本来なら比叡山で修行しないといけないのに、高校・大学とも勝手な好きな音楽へ進ませて頂き有り難う御座いました。ご支援のお陰で無事大学も卒業出来ましたが、益々頂点への研究をしたい思いがこみ上げて、押さえられません。最後に、本当にこれが最後ですから、ウィーン国立音楽大学で世界最高のコントラバス奏者が教授でおられると知り、なんとしても門を叩いてご師事を仰ぎたく願っています。是非ウィーンへ行かせてください。世界中のプロが受験するレベルの高い難関の受験ですから、僕は、必ず落ちると思います。そうすれば諦めもついて比叡山に籠もることも出来るから、受験だけさせて下さい!お願いします!」と突拍子事もないことを、深々と神妙に頭を下げて両親にお願いするものですから「え〜〜〜!へー!ウィーン?もう、しゃあないなー!ああ、最後の約束やで!」とあきれられてOK頂いたのです。

それからバス太郎は取り合えずこれで日本(と言うより寺)から脱出できると、語学の勉強から秋の受験に向けてまた猛突進で準備を始めたのです。

 

「旅立ち」No.14

バス太郎いよいよウィーンへ出発の日が近づいてきました。卒業後3ヶ月でドイツ語会話をマスターしなしたが、一人旅が不安でなりません。しかも受験までの滞在や受験の事など色々考えると何からどう準備すればいいのか解らないまま、一つ一つ問題を解決していくしかありませんでした。そして渡航はと言えばまだまだ今日のような簡単に直接ウィーンに飛行機が乗り入れませんから、羽田→アンカレッジ→フランクフルト→ウィーンと乗り換えなければならないのです。取り合えず向こうの大学の寮が夏休みの間一般に開放されるので8月の滞在を予約し、7月に出国することにしました。

羽田国際空港に向かうために立川駅まで手荷物とトランクそして大きなコントラバスを担いで出てきたところで「日本でこれだけの荷物を持って移動するだけで、すでに疲れ果ててるのに、知らない海外まで行けるはず無い!もうやめようかな〜〜!」なんて悪魔の囁きがする程、楽器やトランクの重さ以上に足取りは重くなりました。しかし、一方では「実家の寺を手伝うために厳しい比叡山の修行へ行く事も大事だけど、音楽の道は中途半端な今のまま終わっても一生悔いはないの?」との音楽の女神の声を聞き、決意を新たに汗だくになりながら羽田に到着しました。

空港に着くと同期の親友やコンバスの後輩、そして、まさか留学するとは考えもしてなかった2年の時に落としたドイツ語の授業に、4年になって2年生と一緒に受講したお陰で巡り会った天使の様な彼女ヴァイオリン美が見送りに来てくれました。

別れを惜しんで搭乗手続きを済ませ、飛行機が離陸して眼下に宝石を散りばめた様な東京の夜景が見えたとき「さよなら日本!さよなら大事な友人や仲間達!さよなら愛しのヴァイオリン美ごめんなさい!さよなら両親!立身するまでは二度と日本に帰らない覚悟です!」と飛行機の窓に映し出される涙を浮かべる自分の顔と、遠くに消えていく夜景をいつまでも眺めているのでした。

この誓いから、次の段階に大きくステップアップする本当のバス太郎のコントラバス修行が始まったのかもしれません。

(留学編その1へ続く

教信寺貫主:長谷川慶悟=音楽家:長谷川悟

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