本-開[朝の連続小説 バス太郎の誓い]本-開

<<この小説はフィクションであり、登場人物は実在の人とは関係ありません>>

「バス太郎誕生」No.1

昔むかし、バス太郎君が物心付く頃より母の弾く下手くそなオルガンで毎朝起こされ、琴の音色に寝かされ、父の作った真空管アンプが鳴らす78回転のSPレコードでクラシックの名曲を聴いて育ちました。歌うことが好きな純真な小学校時代はボーイソプラノの美声が学友や音楽の先生をウィーン少年合唱団みたいだと感動させ、クラスの皆が盛り上がってNHK歌合戦に出るように進められました。しかし、そんな商業ベースの世界は別世界だと、また臆病者だった田舎の素朴な少年は歌う事より会場まで行くのが怖くて辞退したのです。そんな美声もいつしか「おんさん声」に急にかわりました。変声期の自分の声が嫌いになり、姉が習い始めたピアノのお稽古を、真似していきなりピアノを弾き始めたり、市内の寺子屋に(今思えば変な塾)近所の同級生でガキ大将のオテンバ娘に誘われ、しかたなく1年通いました。それは、基礎から音大受験程度の音楽理論だけの塾でした。後にも先にも塾はこの1年だけでしたが、当時、この塾が何カ所か開校され毎週のテストで順位が張り出されるなど、今の進学塾では当たり前ですが、あの時代では異様な塾だったのです。(後に、お互いプロになって出会った同郷の友人と昔話したとき、自分も小学校の時に通っていたと言い、ほんまに変な塾があったもんだと笑った物です。まあ、お陰で音高・音大の受験勉強は何も学科は特別することもなく、皆が受験に苦しんでるとは知らずに、化学の実験で二酸化マンガンとオキシドールで酸素作っては爆発させ、迷い込んだ亀を助け、池の浅瀬で苦しむ朝鮮ナマズを救って持ち帰り裏庭に勝手に池を掘って介護飼育してあげたり、蓄音機やラジオを分解してはサラウンド音響設備構築し、学校の勉強も宿題もほっぽりだして、管弦楽曲のレコード全集の作品解説やスコアを覚えるほど毎日聴くなど、親父にそのつどきつく叱られながらも、なんでも興味津々に遊んで夢中になるタイプでした)

そして、中学になったバス太郎は、バスケット部やバレーボール部に入りたかったのですが、ヴァイオリンしてる綺麗なお姉さん先輩誘われ断れずに、これまた当時全国でまだ3校しかなかった珍しいオーケストラの器楽部に入部します。しかし、バス太郎は、トランペット・ホルン・ギター・太鼓・クラリネット・トロンボーンなど管楽器中心になんでもさせられ、3年間自分の専門の楽器が何か不明でした。ただ、親にねだって当時憧れのトランペットを買って貰い、境内に向かってニニ・ロッソの真似をして吹いていました。

中学校オーケストラ最後はホルン奏者で卒業したのですが、音楽高校受験は、持ってる楽器がトランペットだったので、アーバンの教則本からやりなおしトランペットで受験しました。入学後、またまた、変声した声がいいからバス歌手に、楽器があまってるからオーボエとか、そのままトランペットとか、ホルンとか、手が大きいからコントラバスにとか、それぞれの学校の先生方から進められました、紹介された専門先生旁々の中で、人格的に本当に素晴らしいと感じたのがコントラバスの先生で一目惚れしました。後で知ったのですが、日本で始めてコントラバス独奏をされた方で、広島交響楽団の創始者で音楽監督だったのが先生でした。てな訳で、融通不断でなんでも言われる通りの青年が、高校1年の夏休み前に、始めて自分で生涯の伴侶はこれだと決めた一途なバス太郎誕生となったのです。では、明日から波瀾万丈のバス太郎の経験記の始まりです。

 

「始めての劣等感」No.2

バス太郎は高校まで専門の基礎を勉強することなく色々な管楽器、ピアノ、ギターなど見様見真似の独学でなんでも楽しく弾きこなしていましたが、入学してから始めてコントラバスを専門として基礎のレッスンを受ける事になりました。楽器の持ち方から弓の持ち方、始めて音を出したのは4本の開放弦だけです。それから延々と夏休み前の実技試験までも4本の開放弦を長く鳴らして終わりました。直ぐに友達になった同級生のピアノ男やトランペット君、ヴァイオリン子やチェロ美、クラ子やフルートちゃんが格好いい曲を弾いてるのに自分は4つの音で試験が終わって、その時は流石に劣等感に陥りました。

「なんで曲を弾かせてくれへんのやろ??」と世間知らずのバス太郎はふてくされていました。音楽高校は学年に9人しか男がいない殆ど女子校の様ものだった為に普段からモテモテで、優しく純真で長身のバス太郎は、頼まれたり誘われると断ることが出来ない性格だった為に、毎週土日にクラスのみならず先輩からも市街の公園や近郊の野山へデートに連れ出され、彼女から手をつないできて歩くだけでドキドキするデートを繰り返すなどで、とても練習など出来ませんでした。

 

「始めての師匠からのお言葉」No.3

そんな状況でも、師匠はとがめることもなく「バスと言うのは親の薦めでなく、背が伸びて青少年になって始めて自分が納得して選んだのだから、一旦決めたからにはやるしかないんだ!本物になるには、ピアノ男やバイオリン子が幼少の頃に無心に条件反射の様に修得した基礎を、青年の君は頭を使って納得するまで今基礎を学ばなくては、将来彼らと対等に本当の音楽が出来ないよ。今は、彼らの3歳や4歳に学んだことを始め、急ピッチで高校卒業までに同等かそれ以上になれば良いんだよ!」と師匠の言われる本当の意味が、その時は解らないまま、親や姉、先生や師匠、先輩や目上の人に逆らうことを知らない絶対服従のバス太郎は、それでも学校では黙々と開放弦を如何に同じ振動で鳴らし続けられるかコツをつかむまで探求心は旺盛だったので馬鹿みたいに2ヶ月間も同じ練習を繰り返したのです。

隠居爺さんになった今振り返れば、始めてコントラバスを弾いた時、開放弦を上手く鳴らすコツが身に付くまで練習を繰り返し、右手の弓が弦に均等に吸い付き、弓を返すボーイングでも途切れない重みとスピード、弾く駒と指板の間の場所と弓の圧力と動かすスピードによって少しずつ変える一定のバランスの法則を探求した事が将来大きな展望をもたらしたのだと思えるのでした。

「笑い者」No.4

バス太郎は中学校のオーケストラで美味しいメロディーが必ず出てくる花形楽器を担当していました。ところが、音楽高校でコントラバスを始めた頃、オーケストラやアンサンブルの授業で、主役はヴァイオリン子やチェロ美、クラ子やオーボエ君などばかり。バス太郎は休符を数えて出番を待ってる間に居眠りをして曲が終わってしまったり、指揮者先生が細かい木管アンサンブルの音程バランス合わせのパート練習してる時、暇だったので、なんとなく駒に空いてる穴に人差し指を入れてみると指輪の様にぴったしはまりました。ところがその指が抜けなくなって、指揮者先生が石鹸をトイレから持ってきて抜いてくれたところでチャイムが鳴り、申し訳ないことに定期演奏会間際のオーケストラの授業を中断させてしまいその週のアンサンブルは終わりました。その後、一週間は職員室でも教室でも学校中の笑い者のなってしまいました。しかしバス太郎は決して落ち込んだりしていません。むしろ、自分を見て笑ってくれる事に快感すら持ったぐらいですから・・・。もともと小さい頃よりサービス精神旺盛で、周りの人の笑顔を作るのが好きな(おっちょこちょいな)性格だったのです。しかし、自分の出す音で一緒に弾いてるオケの周りの人達や、本番会場に聴きに来てくださってるお客様を喜ばす事も出来るなどとは、その時は知る由もありませんでした。

漸く高校生活に慣れて来ました。しかし先生は忙しくて学校へ一度もレッスンに来てくれません。地方の市民オケをプロオケに昇格させた音楽監督として、地域音楽文化向上の為に、東京と地方を繋ぐパイプライン役となり当時の有名なソリストや指揮者の料亭や酒場の接待から、NHKラジオドラマのバックに流れる音楽の作曲編曲、演奏録音などに追われて超多忙だったのです。だからレッスンはいつも大通りを挟んだ向のNHKスタジオへ毎週楽器を担いで学校から通いました。レッスン室は楽団の事務所で、当時の管弦楽団の指揮者や首席奏者達がレッスンを否応なくデスクワークで耳に入るものですから、帰り際に「バス太郎君!最近コンバスらしい良い音になってきたな!」などと声をかけてくれるようになりました。その会あって、シマンドルの教則本も徐々に意欲的に進め、修得するポジションも高くなってきました。しかし、近い距離でも大きな楽器を担いでいく労役と、まだまだ相変わらず生まれたときからいつも主役で来た短い人生経験から「ほんまにこの楽器はでかくて重たくて、その割にはオケでは暇で脇役でつまらないなー!なんでこんな楽器を選んでしまったんやろ(:_:)・・・。」と、絶対口には不平不満を出せない性格なので内心密かに思っていたのです。

「人気者」No.5

バス太郎の高校1年はクラス委員、2年目は生徒会副議長から副会長に推薦され、決して成績がトップではないのですが、先輩から可愛がられ、同輩の学年全員から親しまれ、後輩からは頼られる普段から周りの笑顔の絶えない吉本お笑い芸人でした。

そんなバス太郎も、師匠の厳しい指導の元、教則本も半ばになった頃、オーケストラ・アンサンブルの授業でシュトラウスの「皇帝円舞曲」を弾きました。中学のオーケストラでは確かホルンで演奏したことがある曲です。ホルンは和声でメロディーが出てきたり、ワルツでは2・3拍の後打ちでしたが、コントラバスは殆どの小節の1拍目に4分音符が一個あるだけです。毎回「バスパートはつまんないな〜」と思って弾いていた曲の中でもワルツほどつまらない曲はないと最初配られた楽譜をぼーっと眺めて思いました。

ところが、いざワルツの頭打ちを弾き始めると、責任の重大さに気が付いたのです。何でもない四分音符一発一発の発音のスピード感や音色によって、中学のオケの時は気が付かなかったのですが、後打ちのホルンやビオラのテンポ感や音の処理の仕方に大きな影響を与えるのです。それがヴァイオリンや木管の主旋律や副旋律にも絡み合い、オケ全体の音楽の流れやダイナミックスにも、総てバスの一発の頭打ちに影響されていると覚ったとき責任の重大さに驚きました。そこで、どんな発音や音色が皆を乗せて楽しませ全体の構想が纏まるのか、色々な発音や余韻の処理の仕方、響きの長さや弓のスピード感などを試しながら自分なりに最適な一発の四分音符を見つけることにいつしか夢中になっていたのです。オーケストラやアンサンブルで、自分がメロディーを弾いていないのに、一緒に弾いている仲間を「支え・盛り上げ・乗せる」音楽の要であり、「曲を知り・作曲家の意図する仕組みを発見し・自分の音楽レベルを向上させる」ことでその作品でのアンサンブルの完成度が大きく左右される責任を負ってるんだと痛感すると同時に、上手くいったときは本当に楽しくなってきたのです。

皇帝円舞曲の練習が終わった放課後、魅力的なコンサートマスターのバイオリン美やフルートちゃん、クラ子達が「バス太郎君、貴方の包み込まれるようなふくよかな音色や、rit.の後の立ち上がりの瞬発力ある発音が、頼もしく引っ張ってくれて、心地よくて、とっても楽しかったわ!大好きよ!」なんて言われたものだから、素直で単純な性格のバス太郎は早合点して「みんな僕のことを愛してくれてるんだ〜!やったー!」と、ちょっと誤解をしてしまう程でした。。。

兎に角、師匠から習った奏法が、こういったオケの中でのバスの役目に必要不可欠であることが解り、アンサンブルの中でのコントラバスが好きになってきたのはこの時期からであったことは間違いありませんが、まさか本場ウィーンでソロ・リサイタルやアンサンブルをして、ウィーン・フィルの団員達に拍手喝采をもらえるとは、夢にも思っていないバス太郎高校2年の頃の重大な発見でした。

「基礎練習」No.6

学校では楽しく青春を謳歌していましたが、専門だけは別です。二年生最後の期末試験でも、相変わらず協奏曲など弾かせてもらえません。基礎練習の教則本と応用の31エチュードだけです。一度ヤマハで現代曲のソナタの楽譜を見つけて買いました。

次のレッスンにその楽譜を持って「先生!こんな楽譜見つけました!」とちょっと得意げに渡したのですが、怖い顔で睨まれたものだから「あのう・・・も・し・かして・・期末試験で・・・これ・・・弾きたいと・・・・思うのですが・・・・。」と、だんだん声が小さくなりつつも思い切って上告しました。

師匠は、パラパラと楽譜を捲って「バス太郎君、おもしろそうな曲だね!しかし、今、勉強してるポジションでは弾けないよ!」とあっさり机の上に置かれてしまいました。

バス太郎はちょっとふまんげな顔をしてると。「前にも言ったと思うけど、同期の管弦の学生諸君が色々な協奏曲を弾いていても君とは関係ない!それに学内で少々上手だからと言って、まだまだドングリの背比べだし、彼らがプロオケをバックにソリストとして弾ける時が来るかは疑問だな!つまり、男がこの音楽学校に入ったと言うことは、音楽で身を立てるプロになる為であるはずだから、その準備として、君が今するべきは基礎勉強をしっかりやることだね!」

バス太郎がまだうつむいて落ち込んでいるといると「君が持ってきた楽譜には、通常の管弦楽作品には出てこないハイポジションが多いね。オーケストラではバスが高い音出さなくても、その特性の為に作られて完成した高い音域に適した楽器が沢山あるだろう!?逆にそれらの楽器は、絶対にコントラバスの音域の音が出ないだろう?!」「31エチュードに出てくる音域のポジションは、管弦楽作品のバスパートと同じ音域。つまり、この音域がしっかり弾けないで、高い音を出したいなら、他の楽器を勉強すればいいんだよ!ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバスと大きさが変わり、それぞれに重要な役目が皆分担され、どれが欠けてもオーケストラに成らない大事な家族なんだね!つまりコントラバスの仕事は職人的な、木管・金管楽器を含めオーケストラ全体をしっかり支える低音が命!オケの基礎たるバス弾きが、どんなに難しいハイポジションの曲が弾けたとしても、皆の支えとなる、まともな低音を出せないバス弾きはプロオケの世界では必要ないんだよ!」

「まあ、どんな世界でも言えることだけど、自分に与えられた役目や仕事に自信を持って責任を全うすることが、その人の人格を高め真の世界の視野を広げる。隣の花壇は綺麗に見えるのが人の愚かなところだけど、どんなに小さくても、どんなに土壌が悪くても、水を引いて耕し、毎日世話をして、その土壌に適した種をまけば必ず綺麗な花が咲くんだよ!何故なら太陽の光は分け隔てなく注いでいるのだからね!」

バス太郎は、その時師匠が仰った本当の意味の半分も解っていなかったのですが、先生の熱意が心底まで伝わり、それ以後、一生懸命基礎練習に励みエチュードでコントラバスらしい、力強い密度のある低音の音圧で弾く右手の弓の圧力加減から、長く残る綺麗な余韻の為にしっかり押さえる左手のトレーニングも始め、相変わらず教則本と31エチュードばかり弾いていたのです。

「大学受験」No.7

師匠に言われた通り教則本とエチュードを練習し、アンサンブル全体でしか曲を弾いたことなくマイペースで過ごしていると、学年担任の先生から「バス太郎君、3年生全員進路が決まってるんだけど、君だけが決まってないんだ!君だけ聞くの忘れてた先生も悪いんだけど・・・どうする?」と、最後の夏休みも終わって二学期の半ばに聞かれました。

バス太郎も同級生が受験曲や卒業試験の為の曲を夏休み前から取り組んでいるのを知っていましたので、少々不安でもありましたが、師匠の言われる事が絶対だと信じて疑いもなかったので、のんびりマイペースで夏休みも過ごしてしまったのです。ただ、中学時代は欧米メジャーオケのレコードしか聴かなかったのですが、夏休みはN響アワーなどテレビを見ては、バスパートに集中して見入る自分に気付いていました。

当時テレビが最高の情報源でしたから、よくテレビに映るNHK交響楽団が日本の代表のオケで、そのバスパートの首席に座って弾いてる人が日本一のバス奏者なんだな!じゃ、この人が教えてる大学は何処だろう???と、調べてみると東京の国立音楽大学一校だけでした。その時、内心進路は決まっていましたが、実技試験の成績がいつも教則本やエチュードからしか弾いてないので、評価は中の下ぐらいで、進路担当の先生は「あそこは無理じゃないかね!?」と言われるに決まってると、口には出せないままだったのです。

そこで思い切って師匠に相談すると、「それは良い進路を見つけたね、じゃ、コントラバス協奏曲を今からでもやってみるか!」と、カプッチーと言う人の曲を渡されました。楽譜を見ると教則本やエチュードでやった音域やパッセージが連なって出来たような譜面でしたので、違和感無く一週間で1楽章は最後まで譜読みできました。2週間目には完成度を上げる部分練習を重ね、3週間後には曲らしく通して弾けるようになってきました。師匠は「まあ受験は浪人すれば何回も上を目指すチャンスがあるし・・。」担任は「国立音大の器楽科声楽科は優秀で本校の受験生はけっこう落とされたから、君は絶対落ちるよ!」と、言われるし、母親は「音楽なんかやっても生活に困し、東京は生き馬の目をくりぬく程恐ろしい所やで、音大なんか行かないで、比叡山に上がって修行しなさい!!」と、言われる八方塞がりのバス太郎を直接声援はしないけど、バス太郎がしたいように黙って見守ってくれたのは親父と師匠でした。

厳しい実家の寺を嗣ぐのが嫌と言うより、生まれたときからレールに敷かれた人生に抵抗し、自分の力で将来を切り開いてみたいと思う余りの人生の岐路での始めての青春の主張が「落ちたら黙って比叡山専修大学に籠もり修行付き寮生活する覚悟だし、学校の先生も絶対合格しないと言ってるから、一般入試で希望の大学一校だけ受験させてください!」と、訳の分からない理由で両親を説得し、担任にも「無理でもいいから、ここだけ受験させてください」と内申書を無理矢理書いて貰いました。

受験で東京へ行き、原宿の親戚の歯科医に泊めて貰い、毎日試験の行き帰りに、原宿表参道から竹下通り、渋谷や新宿など大都会を興味津々で探検するのが楽しみでした。一方、国立と言っても大学は西武新宿線の玉川上水駅に移転したばかりで、周りは畑や田んぼのに囲まれるど田舎でした。こりゃ、下宿探すの大変だと、合格もしてないのに学校に張り出されていた新築のアパートに申込に行ったのは、まったく怖い者知らずの馬鹿者でした。しかも、勝手に合格通知が大学から来るものだと思い込み合格発表に出かけず、家でじっと待ってると大学から「別の大学も受験されていますか?入学金を払わないと合格抹消されますが・・・。」と、電話が入り、慌てて東京へ支払に行くという、バス太郎は、周りの人をやきもきドキドキさせながらも独自の希望の道を切り開き一歩一歩確実に前に進める、世間知らずの、のんびり者だったのです。

教信寺貫主:長谷川慶悟=音楽家:長谷川悟

(次回第5週は大学編へ続く!) 

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