本-開教信寺だより本-開

(シリーズ40)

「教信上人」

野口の「ねんぶっつあん」と全国的に親しまれる750年ほど前から始まったとされるお祭り「野口大念仏法要」が9月の13日14日15日と毎年3日間催されてます。一昔前は門前市をなす賑いで一週間も続いたそうです。しかし今日も13日14日の夕刻には夜店が境内いっぱいに張られ、念仏踊りが元祖でもある段文音頭(播州音頭)盆踊りも奉納されるなど、昔ながらの賑いを見せます。ところが、何のお祭りかご存知でない方も最近おられますので、今月のシリーズは1138年前の9月15日がご命日の教信上人のお話を続けます。9/2

「奈良学僧期」

青丹よし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」世界の文化、特に、アレキサンダー大王のアジア遠征により西洋ギリシャと東洋インドが融合したヘレニズム文化が仏教とともに南方の島々や大陸の中国を経由したシルクロードの東の終着点、奈良の都に開花した情景が読まれた有名な詩です。この頃、青年時代の教信は興福寺で仏教教学を当時の都の高僧(教授)から学ぶものはないほど全教科をマスターし、その逸材は奈良の都で東大寺や興福寺の次期官長の候補とうわさされる程でした。9/3

「発菩提の旅立ち」

教信はある日、高貴な身上になに不自由ない生活も、名誉や栄光も、約束された地位も捨てて諸国行脚に旅立つ決心をしました。都が繁栄すればするほど金銀財宝は勿論、米や絹も運ばれ、それらを奪い合う一部の権力者・豪族・貴族・官僚・僧侶までもが私利栄達に明け暮れ、権力の象徴である大伽藍の建立に政財界が狂瀾する一方、地方の荘園では年貢を納め、木材を運び、その日の飯にも苦労する大多数の農民・使用人が苦しんでいる。いつの世も欲にうごめく貴族豪族政官の権力闘争に、弱者の大衆が苦しめられる矛盾に心を痛めた教信は、お釈迦様の原点に戻り、人々を救済する仏教実践を探求する為に都を飛び出し歩き始めたのです。9/4

「巡錫」

都を出て、いづれの方面に向かったか本人すら分かってなかった。ただ、今日の政財界の様に利権や私欲、節度のないポジション争い、強奪犯罪の六道から逃れ、行きかう人と笑顔で会釈、挨拶を交わす街道の木立を揺さぶる爽やかな風は新鮮で心地良かった。これまで経蔵に入って勉強してきた修行の道から、市井に出て直接人々に仏説を伝える実践に喜び、尚更、都で嘱望された高僧であった自らを沙彌と名乗る教信は希望に満ち溢れていた。そうして全国を数年間定住しないで歩き続けたある日、日本最古の阿弥陀三尊軸のある長野の善光寺まで参ってきてたのです。その時不思議なことに、阿弥陀如来様から「教信よ、貴僧が仏道実践するに相応しい場所がある。これよりは西に向かいなさい!」と、お告げを受けたのです。9/5

「賀古の駅(うまや)

阿弥陀様のお告げより、西に向かって行脚した教信は山陽道を歩いていた。須磨、舞子、明石は言うに及ばず尾上・高砂は松の名所。海岸はどこまでも続く白い遠浅の砂浜。天女が舞い降り羽衣を松の小枝にかけて行水したと万葉集にも歌われる美しい海岸線から加古川の河口を北上した。当時の印南野を流れる加古川は現在の場所とは違い、堤防のない川は雨季や乾季には川幅を変えながら、現在の水足・坂元・流砂・新野辺を流れる現在の別府川が本流であった為、川に堰き止められた西に向かう旅人の宿場町として、また水陸交通の要として野口の里は山陽道屈指の大駅「賀古の駅」として中央集権の影響も少なく自由な大衆により栄えていた。そこへ教信がたどり着いたのです。9/6

「はじめての安住」

西暦836年の秋、この美しい海や山に囲まれ加古川の洪積大地に開かれた桃源郷をたいそう気に入った教信は、北の辺に雨風をしのぐだけの庵を構えた。この賀古の駅は多くの人々が集まり、大衆は素朴で布教にも適していた。だが、真実の仏道実践を選んだ教信は仏像も安置せず経典も読まない。仏道実践に聖僧ぶる必要はない!これが教信の信念であった。ただ、西の垣根を開けて、当時まだ誰もしなかった阿弥陀仏の称号を口に称える「お念仏」を明けても暮れても称えたのです。この教信の実践に大きな影響を受けたのが350年後の親鸞であり一遍であった。つまり鎌倉時代に日本浄土仏教思想が花開く礎は、現在の教信寺あたりに教信が庵を構え口称念仏を最初に始めた事による訳です。9/7

「仏道実践」

都で有名な高僧であった教信だが地位も名誉も全てを捨て、乞食同然の生活を始めた。しかし心中は喜びに満ち溢れ、農家の手伝いをし、旅人に草鞋を貸し与え、重い荷物を運んであげ、農業用水の池まで掘るなど、現在で言うボランティアと公共事業を率先した。そのつど字も読めない民、百姓の救済の為に、献身的に働きながら「お念仏」を勧進したのです。しかのみならず、好意を寄せる土地の女性と結婚し、子供も授かったのです。教信が結婚をしていなければ親鸞もしなかったであろうし、現在も僧侶が結婚する事は禁じられていたかもしれない。教信は世俗の世界に飛び込み人々と苦楽を共にしながら仏道実践をした、あらゆる意味で、世界的宗教界の偉大なる先駆者であったのです。9/8

「阿弥陀丸」

昼夜と問わず、場所を選ばず口称念仏に終始した。特に西方に沈む夕日に向かってお念仏を称える教信を、里の人は親しみを込めて「阿弥陀丸」とも、広範囲に荷物を担いで旅人を助けたので「荷送り上人」とも呼ばれていました。またある日の事、土地の人に川魚をご馳走になったのですが、別の人が、「坊主が殺生して魚を食べとる!」と蔑んだので、教信はこの者を駅池に連れて行き、「仏道修行者は魚を食うも良し、食わぬも良し、ただ、真実を歩むにあり!」と口から魚を吐き出すや、不思議な事に魚は再び泳ぎだしたと言います。しかし、片目を失っており、最近まで駅池でこの魚を釣り上げると、このあたりでは「上人魚」とか「片目の鮒」と称して放生する風習になっています。9/9

「勝如の夢枕」

貞観8年西暦866年8月15日(新暦9月15日)の月影満時、教信は大往生の素懐を遂げられました。その時、摂津の勝尾寺で厳しい無言の修行をしていた勝如と言う高僧の枕元に教信が立ち「われはこれ、播州賀古の教信なり。日ごろ念仏往生願ってきたが今月今夜阿弥陀如来様と25菩薩のお迎えを受けることが出来ました。貴僧も来年の今月今夜往生のお迎えがあるのでその事をお伝えしたく参上した。」と語って消え去ったと言うのです。不思議に思った勝如は弟子の勝鑑を播州に使わし、真意を確かめしめたのです。勝鑑が播州にたどり着くと、多くの民が悲しんでいました。そこで、もっとも嘆き悲しむ婦人と青年がいた。勝鑑はこの二人に事情を聞いて深い感銘を受けざるを得なかったのです。9/10

「勝鑑の報告」

一部始終を聞いて帰った勝鑑は、播州賀古の駅で民衆の為に身を粉にして働きながら念仏を勧進し、臨終の時には、動かなくなったこの自分の身体を最後の供養として、腹を空かせた犬やカラスに食べさせてやってくれ!と遺言されたこと。しかし鳥獣にすら教信の威徳が感じられたのか、お顔だけは食い荒らされず微笑みさえたたえてる様な綺麗な顔面であった。と師匠の勝如上人に伝えたのです。勝如は全身が震えるほど衝撃を受けました。「ああ、私の励んでいた厳しい修業は、自分の為にしかならず、まったく民衆の為ではなかった。私も今日から教信の様に市井に出て人々を救済し、阿弥陀佛のご示導に生かされてる喜びを伝えるお念仏を勧進しよう!」と、仏道実践をしたが、夢のお告げの通り勝如も1年後の9月15日に大往生の素懐を遂げられたのです。9/11

「教信浄土思想の伝承」

教信が亡くなられた120年後に書かれた「日本往生極楽記」慶滋保胤著、「後拾遺往生伝」三善為康選、「往生十因」永観著、「今昔物語」を始めとする当時のベストセラーの著書によって、教信の浄土思想は全国に広がり、源信、良忍、空也、法然、親鸞、一遍、永観など、後の念仏聖に与えた影響は計り知れません。教信の生涯は、現在の人は如何に私欲を増やすかが人生の目標に成り下がってしまいましたが、古来の人々は、如何にすれば極楽大往生できるかが人生最大の目標だった為、教信の専修念仏によって阿弥陀如来と25菩薩の来迎を受けた大往生にあやかろうと、誰もが出来る平易な口称念仏は、全国に浸透していきました。その意味においても、1200年来、念仏聖や民衆の永遠のアイドルである教信を慕い、毎週の様に土日には大型観光バスを連ねて浄土仏教系の僧侶・信者の方が参詣者され、近年では、ウィーン、ベルリン、ローマ、ロンドン、チューリッヒ、ブラチスラバ欧州各都市より来訪された芸術家たちによって、教信の威徳は世界中に伝えられているのです。では、明日より、1138回忌を迎えられた教信上人のご縁日、「ねんぶっつぁん」野口大念仏が9/15日の命日までお祭りが続き時間的に余裕がありませんので、朝メル法話「教信シリーズ」はこれにて休刊いたします。教信上人の偉大なるお心に感動された方も、そうでない方も、先祖供養の塔婆回向も本堂で期間中常時受け付けていますから、是非、皆様のお参りをお待ち致します。合掌。9/12

念仏山教信寺山主:長谷川慶悟

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