本-開伝言その108本-開
2009.11/1
Satori日記
尊い命、短い命、食べる命、奪う命、108つの煩悩

10/25が私の誕生日です。(今思えば誕生日とは両親に「産んでくれて有り難う!」と親に感謝しプレゼントすべき日だと思いますが、)子供の頃は勿論、最近まで教職にあった為か学生達から、お誕生日プレゼントが山のように届いたものです。大学も高校へもレッスン受業の為の通勤を止めてからはプレゼントも無くなり、ちょっと寂しい思いをしていた処、現在飼ってる猫達(8匹)の一番私と仲良くしている♂猫の一匹が、子鳩を捕まえて私への誕生日プレゼントに生きたまま持ってきたのです。

 当然、私は鳩を食べる習慣は無いので、早速、鳥籠と鳩の餌を買い、飼育を始めました。名前も「ポッポチャン」と付けて、毎朝、平和に鳥籠の掃除と水と餌をあげていますと、鳥籠の回りに他の猫達が集まり、捕まえようと必死です。これも、猫の本能だから治まりようもありません。普段は可愛い飼い猫と雖も、鳩を見てからは獲物を捉える野生の目で鳥籠の元から離れなくなっていました。

(余談ですが、猫達はご主人様に気に入ってもらえるように貢ぎ物を献上します。例えば田植えの頃には枕元やドアの前に半殺しのカエルが毎朝置いてあるのです。そんな貢ぎ物はいらないと怒ると、私がカエルを嫌いだと勘違いしてるのか翌日はトカゲ、ネズミ、雀、鳩など毎日毎日ご主人様が気に入るまで次々に届けてくれます。だから、そんな困った状況に陥らない無い為に、持ってきてくれた事に感謝し、しっかりハンター出来たことを誉めてあげる事です。それに満足すると、貢ぎ物は無くなり普通に一緒に暮らせる平穏な日々もあります。)

さて、話は戻ります。獲物を捕るのは生きるための本能ですから、いくらキャットフードや魚や鯛竹輪をあげていても、庭に舞い降りる鳥を捕まえてくることは決して皆無ににはなりません。そんな野生の本能を忘れてた訳じゃないですが、今朝、鳥籠の糞掃除のために鳥籠(実は小型犬の移動用折りたたみ網)下のトレーを引き出していると、隙間から鳩が落ちたのです。アッと言う間の素早さで下にいた♀猫が飛びかかって口にくわえて連れ去ってしまったのです。勿論、追いかけましたが、縁の下、屋根の上、境内、中庭、苔庭、寝室、ベランダ、壺庭、床下と、追いかけても追いかけてもすばしっこい猫には追いつきません。どうしても見つからないまま仕事に行く時間になりました。仕事から戻ると、平然と♀猫が鳥籠のあった下で日向ぼっこしていました。普段使わない奏楽堂の音響照明室に行くと、機材テーブルの下に鳩の残骸が・・・・・「うううう、ごめんなさい!南無阿弥陀仏。。。。。。」

 お釈迦様は不自由なく、シャカ族の王様の王子としてお城でお過ごしされていた頃、花壇に飛ぶ蝶を小鳥が捕まえて食べた姿を見て、悲しまれ、世の無常を悟られ、やがて宮殿を出て出家する覚悟をされたそうです。生き物が生きる為に殺生をする。「空腹を満たすために命ある餌を捕まえ食べなくては生きていけないのか・・・。」「この世の仕組みはあまりにも残酷すぎる」「だが、人間は、食べるだけの殺生だけでなく、自分の利権や体裁の主張、さらには居場所の奪い合いや自らの欲望を満たすために人殺しをするのは許されるものではない!」「畜生よりも落ちる人間の欲望からなす非道な罪をなくし、この世を救いたい」「平和な極楽浄土をこの世につくらねば」と、発願し厳しい修行に入りましたが、やがて餓死しそうなお釈迦様の身体にミルク粥をスジャータより頂いたお釈迦様は壮絶な修行に終止符を打ちました。悟りを開かれたお釈迦様は生涯辻説法を繰り返し、人々の苦しみを救う実践佛教に終始されたのです。その説法が現在に伝わるお経なのです。今こそ、日本人はお釈迦様の言葉にもう一度耳を、目を向ける時なのです。経典の漢字は難解ですが、漫画本や絵本、佛教童話や日本語訳佛教聖典など手にすることから始めて下さい。

 今日の日本社会では、命を尊ばない傲慢な人間が急増してきました。自分達の都合で我が子を中絶したり、中絶を強制する両親がいたり、出産後に育児放棄したり、誰も、命の尊さなど考えず、自分の立場や利益の都合だけ考え、大人達の損得勘定だけで決断しているのです。また、近年のニュースはサギや横領、泥棒や強奪、親が子を殺し、子が親を撲殺する。畜生は食べるために殺生するが、人間は自らの欲望の為に命を奪い殺す。それらは経済大国と言われる国で起こる現象のようです。経済大国の一部の成功者とは実は幻の欲の消費であり、止めどもない欲望を金銭で満たしてるだけの幸福感と錯覚して国を動かし安住していると人々の事です!乳飲み子を抱える母の母乳すら栄養失調で飲ませられずに、ただ抱きかかえて餓死しそうな状況下の貧困にあえぐ国ですら、必死で子供の命を守っているというのに・・・・・・・。

 畜生や動物が食べるだけの狩猟をするのと同じように、人間も今を生きる僅かな命の食料を同胞と分かち合う事が出来なくては畜生以下になってしまいます。必要以上の金銭を持ってしまうと真実の生き方が出来なくなるのです。自分さえ良ければ、例え子供や孫でも尊い命とは思えなくなるのです。お釈迦様に導いて頂いた智慧は、自分の欲望を満たす安心の為に使うのではありません。仏様の教えは「自らの命を尊び他も尊ぶ、平和共存の共生です!」108つの煩悩を断ち切り、煩悩を抑制する強い意思と信仰を持ち行動する!此こそが、人間の人間たらんとすべき行いなのです。決して自分以外の命の奪い合いに知恵を絞るのではなく、生きとし生ける総ての地球生命が有史以来築き進化してきたお互いを認め尊び、仲間や家族は慈しみ合い、助け合う。昔、当たり前に感じていた夫婦の絆、親子の絆、家族の絆、地域の絆、国家の絆、天体宇宙との絆、自分と神仏の絆です。その家族の絆の単位で親戚付き合いや近所付き合いが出来なくなったのは、金儲け最優先主義で失った人間の資質の低下にあるのです。世界大戦までは日本は文化大国であり、礼節を重んじ、自給自足と手工芸、リユースとリサイクルの文化など、今で言うエコ生活は江戸時代後期に最高に完成していたのです。贅沢はなくとも、謙虚で純心、優雅で文化的で、笑いが絶えず、気品と洗練された個々のセンスが磨かれ、価値観は現在人のそれとは全く相反する、今思えば、お釈迦様が建国したかった佛教浄土の最高傑作の人々だったのかもしれませんね。  合掌

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