「法泉院慶悟晋山式表白」

晋山上堂の場 、報恩謝徳の処、 梵天帝釈護法諸天、 上天下界 神祇冥道、別しては本宗擁護比叡山王、當所鎮守野口山王権現、諸大霊神各々法楽 、倍増威光の奉為に、一切神分に

   般若心経  一丁

   大般若経名 一丁

謹み敬って大恩教主釈迦牟尼如来、西方極楽界會大悲願王阿弥陀如来、浄瑠璃世界薬師如来、観世音菩薩、大勢至菩薩、妙法蓮華真乗法門、普賢文殊諸大薩垂、當山當院歴代先師等、同別一切の三寶に白して言さく、

   方に今

南閻浮州日本國播陽加古川市野口町 念仏山教信寺塔頭法泉院に於いて、當院第二十一世 慶悟晋山奉告の法藍を建てしむることあり、

   其の旨趣如何となれば夫れ

晋とは日輪地平に登るの勢、山とは法輪昇転の道場たり。日光 として常在 の化儀を示す。

    茲に仏子慶悟

菲才を顧みず、座主猊下の訓命を拝し、先住慶明大和上の委嘱を稟け、中興以降法泉院第二十世住職を董す

    惟みれば夫れ

念仏山法泉院は平安時代承和三年秋(西暦836年)、教信上人が興福寺を辞し諸国行脚の途中、当時屈指の集落、賀古の駅に庵を構えて定住。民衆と共に非僧非俗の生活をしながら口称念仏に終始し、一隅を照らす実践を展開した日本浄土佛教思想発祥の遺跡の地に、建立された念仏山教信寺の一院なり。

鎌倉時代には開山教信上人を、親鸞上人や、一遍上人が理想的先輩と仰ぎ、室町時代には山陽道随一の大伽藍となるが、戦国末期、毛利勢と信長配下の秀吉勢力との激戦地となり天正六年春全焼(1578年)、その後も幾多の盛衰を重ねるが、當地庶民の を集めて、今日に野口念仏の聖教を傳う。

法は人に依って弘まるとは、 古聖の箴言、以て自誡の玉詩となし、この法城をして、いよいよ輝かさんと欲す。

仰ぎ願わくば十方諸佛、同学薩垂、吾丹誠を嘉みして、加護を垂れ、令法久住利益 人天を果さしめたまえ。

    重ねて請う

此の勝縁によって天下泰平、風雨順時、百穀成就、万民快楽、

殊には教信寺復興、如来大慈悲哀愍護念、乃至法界平等利益。

   平成十一年十月吉日

念仏山教信寺塔頭法泉院第二十一世

   竪者法橋 慶悟 敬白

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