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仏道実践には聖僧ぶる必要はない。
虚飾を捨て直入してこそ真実であるというのが教信の信念であった。
いうまでもなく仏説はむつかしい論理や観念の遊戯でもなく、
又、寺の建立や偶像崇拝でもない。
ひたすらに真実の生き方にあった。
ひたむきに真実を求め、真実を歩んだ一人の聖哲、
教信沙弥頭部木像(A・D866年寂)
 
約1200年前の教信の思想哲学と実践は、
保胤、源信、性空、永観、良忍、法然、親鸞、一遍を初めとする
後世の日本浄土佛教思想の礎を築き、与えた影響は大きい。
 
  朗読楽劇「教信沙彌の生涯」
 1.「老松の木陰にて」<第1楽章Youtube>「老松の木陰にて」
 「青丹よし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」都の東、若草山に続く台地に、東大寺や元興寺と接し、藤原氏の氏寺、興福寺があった。その僧房に起居する幾十の沙門達も、一応は仏道精進にいそしんでいたとはいえ、心の底にはその意識するとしないにかかわらず世俗的なパトロン藤原氏の外護的権力に安住している事を否定することは出来なかった。若い僧「教信」も彼等の中に混っていた。教信はすでに仏教教学を会得し佛教心理学や論理学においては彼の右にでる者はない。彼を知る都の僧俗からは長老たる器としてうわさされていた。しかし、彼自身心の空虚を満たすことは出来ず、独り境内老松の木陰で悩み苦しんだ。彼の求めるものは決して仏教哲学の観念でもなけれぽ論理でもない。まして世俗的な私利栄達であろう筈はない。ひたすらに真実の生き方にあった。
 
 2.「巡錫」 <第2楽章Youtube>「巡錫」
 彼は漂然として、しかし固い信念のもとに興福寺を辞し、諸国巡錫に旅立った。彼の心中は光に満々、それは今まで精進して来た自行門に一応の終止符をうって、長く念願した化他門に一歩を歩み出したのである。教信が都を旅立って何れの方面に巡錫したかは知るよしもない。明日を急ぐ道でもなく、あすこに止り、ここに宿り、人に遇えば機に応じ人生の理想を、人間社会の理想をやさしい言葉で語り伝え、素朴な大衆に明日に生きる希望と自信を起さしめ、時には労役までも手伝ったのである。いうまでもなく仏説はむつかしい論理や観念の遊戯でもなく、又、寺の建立や偶像崇拝でもない。日常実践の指導原理であったからである。仁明天皇承和3年、西歴836年の秋、教信は山陽道を西へ向って行脚していた。さすがに山陽道は行きかう人も多い。
 
 3.「賀古の駅」 <第3楽章Youtube>「賀古の駅(うまや)
 この加古の駅は奈良・京都の如き因習権力の圧力もなく人々の心も素朴であった。対象の大象にも多く接することが出来、伝道の根拠地に相応しい条件を備えていた。彼は駅の北の辺りに庵を構え、活動を開始した。教信の所信は変らない。彼は経典も持たず、仏像すら安置していない。ただ、行、住、座、臥、時を選ばず、ひたすらに口称念仏に終始した。しかのみならず、厚意を寄せる美しい女性と結婚もし、愛し合う二人に二世が誕生したのである。仏道実践には聖僧ぶる必要はない。虚飾を捨て直入してこそ真実であるというのが教信の信念であったから・・・・・。教信は農民のために農耕も手伝った。旅人を助けて荷物も運んだ。わらじも貸し与えた。そうして彼はその間伝道を怠ることなく、日常生活の中に彼の所信を伝えたので、時に人は『阿弥陀丸』とも『荷送り上人』とも呼んだ。ともあれ、彼のヒューマンな産業開発の情熱は、土木工事さえ起し、水利に乏しかった賀古の駅に農業用水の池を作った。現在に残る『駅ケ池』こそ教信の業績の一つである。また、ある日、教信は土地の人に川魚の御供養を受け、感謝してこれを食べた。別人これを見て「仏道修行者にあるまじき行為」とさげすんだが、教信、この者を駅ケ池に伴い「仏道修行者は魚を食うもよし、食わぬもよし真実を歩むにあり』と口中より吐き出したとみるや、魚は池中に遊泳したという。ただ片目を失っていて今も時に釣り上げる鮒にこの魚あり、『片目の鮒』とか『上人魚』と称して放生する風習になっている。
 
 4.「示寂」<第4終楽章Youtube>「示寂」
 貞観八年、西歴866年8月15日、教信は身に何の病いもなく、月影満つる時、正念に往生した。時同じくして摂州勝尾寺で無言の行を積んで悟を開き、即身成仏しょうと励んでいた勝如の室外を訪れたと伝えられている。勝如は驚き咳声をもって答えるや「われはこれ賀古の駅に住む教信である。日頃念仏往生を願ってきたが、今月今夜、縁あって往生の素壊をとげることができた。貴僧も来年の今月今夜往生のお迎えがあることであろう。敢てそのことをお知らせに参上した。』と語って消え去った。勝如は奇異に感じ、早速弟子を遺わし、その真偽を確かめしめた。賀古の駅に赴いてみると、婦人、童子あって教信の妻と子なりといい、生前の一部始終を伝え、且つ、遺言によって彼の遺体を鳥獣に施すべく、裏の荒野に放棄したと語った。現場を見るに鳥獣がところかまわず食い乱していたか、ただ、首面のみは、鳥獣にすら教信の遺徳が感じられたのか、食い乱されず、その顔は微笑さえたたえているかの如きであった。       

長谷川慶明著「松のみどり」より


 
楽劇『教信沙弥の生涯』解説
 ひたむきに真実を求め、真実を歩んだ一人の聖哲、教信沙弥(A・D866年寂)の生涯を系統的ストーリの四楽章「老松の木陰にて」「巡錫」「賀古の駅」「示寂」にまとめ、ナレーションに付随したコントラバス、打楽器、ピアノの為の曲である。曲は特に日本古来、遠くインドを始め西南アジアより仏教と共に伝来した原始音楽、声明、法要に今日まで伝えられる打楽器を挿入した。
 後世の一遍、親鸞を初めとする日本浄土思想の礎を築いた、1200年前の教信の思想哲学をイメージ音楽化し、自作自演し得る機会を持ち続けることが出来たのは光栄である。
      
原作・長谷川慶明、作曲/コントラバス・長谷川慶悟、
語り・西川慶宣、打楽器・渡部新一郎、ピアノ・松枝香織
 Youtube配信で読売TV1988年10月8日放送分「宗教の時間・捨てて生きる」Composer
「教信沙彌の生涯」公演記録
1980年初演/長谷川悟コントラバス・リサイタル公演(加古川市民会館大ホール)
1980年/長谷川悟コントラバス・リサイタル公演(広島セシリアホール公演)
1984年/長谷川悟コントラバス・リサイタル公演(東京文化会館小ホール)
1989年9月15日の命日に再演(音楽の館奏楽堂)
1991年9月15日の命日に再演(音楽の館奏楽堂)
1996年9月15日の命日に再演(音楽の館奏楽堂)
1999年10月14日/浄土真宗本願寺派兵庫教区仏教婦人会連盟結成40周年記念大会・依頼公演(神戸国際会館大ホール)(語り:鹿多 証道)
2001年1月6日/慶明前住職一周忌音楽法要(加古川プラザホテル鹿児の間)
2001年4月9日/(株)浜屋社員研修会(神戸ポートピアホテル)
2015年9月27日/1150年前に教信上人が入寂された時と同じ中秋の名月の夕方開演!(法泉院音楽の館第180回定期演奏会)
 ライブ録音CD(1.000円)及び原作書(100円)希望の方は、
音楽の館ホームページからE-Mailでお申し込み下さい。  
教信沙彌の廟
関連文献&法話紹介
長谷川慶明講演原稿「社会福祉と教信沙彌」各地での佛教講話は郷土史の講演での原稿
長谷川慶明名作著書「教信シリーズ(1)かこのうまや」山陽道「賀古の駅」の場所を昭和9年に発表
長谷川慶明名作著書「教信シリーズ(2)まつのみどり」教信沙彌の生涯と日本浄土佛教の発祥
 
 
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