Saying No.170「日本の唱歌」

(2013.7/21SAN快晴am6:50気温25.2度)おはようございます。

今朝の鐘突きは諸堂の日陰では涼しい風と、庭掃除中は、むっとした蒸し暑い風を感じました。

今朝のコンバス和尚の言いたい法話は昨日の公演からです。

 さて、昨日の「コントラバス和尚の辻説法ライブin加古川市立尾上公民館大ホール」は、写真の様な超満員となり、笑と感動の渦が大きく広がりました。

それは、演奏する一曲ごとにエピソードやこじつけの地元の昔話を話し、そのイメージを心で描かれながら曲に集中されるからです。

 例えば、昨日のメインテーマは「ふるさと」でした。私の第二の故郷ウイーンの音楽オペレッタやオペラのアリアから、日本唱歌は特に話が長くなりました。

明治43年(1901)「荒城の月」を作詞した土井晩翠は旧制二高生の時に修学旅行で訪れた戊辰戦争で荒れ果てた会津若松鶴ヶ城(丁度先週今週がクライマックスのNHK大河ドラマ「八重の桜」の戊辰戦争で荒城になっ城)と郷里の仙台青葉城の印象を偲び作詞しました。

メロディーを作曲した滝廉太郎は郷里の大分県竹田市の岡城址(明治4年(1871)廃藩置県で壊された)をイメージして旋律を作曲しました。今の伴奏は山田耕作の編曲によるものです。

日本の唱歌は、明治開国以来西洋文化を急激に取り入れ、国の威信を懸けて作詞・作曲・編曲されました。特に滝廉太郎は明治34年10月に日本人で初めて横浜港から数ヶ月かけて欧州へピアノ留学に旅立ち、ライプチッヒ王立音楽院の入試に合格。本格的に勉強を始めたものの、その年の冬に風邪をこじらせ肺結核になり翌年再び横浜港に傷心帰国します。その後、大分の両親の元で療養をします。

しかし、死期を悟った廉太郎は付きっ切りで看病してくれた母親に言います「もう僕は寿命です。お母さんとお別れです。

でも、あの荒城の月がいつまでも歌われ続けるかぎりお母さんの心に生き続けます」と、言って息をひきとりました。

なんと僅か23歳と10ヶ月の悲劇的な生涯でした。いまも、大分県竹田市の消防署火の見櫓から毎日朝昼夕の3回荒城の月のチャイムが流れています。

 

「夕焼け小焼け」は大正8年(1919)中村雨紅が勤務していた荒川区の日暮里小学校から夏休みに恩方村(現在の八王子駅から15キロ)歩いて帰る途中、

夕焼け空の街道沿いの山寺から一斉に鐘が鳴り渡り、この詩が生まれました。

一方、作曲した草川信は長野の郷里で鳴り響く善光寺や阿弥陀堂の鐘の音をイメージしました。そして演奏する愚僧は当然、今月毎朝響かせている教信寺の鐘の音です。

こうして、詩もメロディーも演奏者もイメージするのは故郷の景色です。

 しかし、今の子供達は移り変わる四季折々の自然の景色や、山河を走る風や木立を揺らす音、川のせせらぎ、うち寄せる波の音、鳥の声、蝉の声、鈴虫の声に耳を傾けていますか?

年中冷暖房のきいた部屋でファミコンゲームやスマホでラインをしてる。

そんなことだから、16歳の少女を殺人遺棄してしまう様な一昔前では想像も出来ない犯罪が増えてきているのです。

音楽の教科書から唱歌童謡が消えていく昨今に比例して日本の美しい自然も破壊され続けています。そして既得権益で破壊され作られた巨大ダムや堤防や原子力発電所が増えるに比例して、子供達の純粋な心も荒れていきます。明治大正に子供の情操教育に日本人最高の教材を作った土井晩翠・滝廉太郎/山田耕作、中村雨紅・草川信、岡野貞一・高野辰之らのコンビによって深い深い子供達への希望と夢と未来を託したメッセージから生まれたものです。

この美しい日本唱歌を歌い続ける慈愛の情操教育を小中学校でもう一度して欲しいですね。

 長々と最後まで読んで下さってありがとうございました。合掌 Cbの和尚さんより

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