(下記の文章は、安積義尊が編集責任者として中外日報社より昭和五十九年十二月一日 初版発行された「人権尊重の原点」に掲載された長谷川慶明の原稿である。)

=人権尊重と仏教=

長谷川慶明

 去る四月十七日(午前十〜午後四時)小野市河合の慶徳寺において「人権問題を自主的に取組む宗教者の研修会」が、兵庫県仏教各宗十名の方々の呼びかけによって初めて開催されたことは、寔(まこと)に時機に即した催しとして慶賀の至りでした。当加古川市仏教会も、三月末の定期総会席上、この旨披露し、多数参加有之よう要望して置いた次第ながら、数名の出席者を見かけたのみであったことは、以外という外ありませんでした。それぞれ事情があったことと推察されるが、現日本仏教界が兎角過去の栄光に安住し形骸と因襲を唯一の金華玉条として墨守し、一向に現代社会の各般に亘(わた)るリーダーシップを保持しようとしない姿勢は、歯がゆいことといわねばならぬ。

 もっとも当日の講師陣は多過ぎた感があり、各氏とも持時間が少なく充分意を尽くし難かったこともあるであろうが、折角の二百余名の参会者に感銘を与えるところまで至らなかった恨みが無きにしも非ずといわざるを得ない。大石法学博士や西村弁護士は兎も角、各宗からの講師は用心した発言で、いわば自宗の教義の弁解的立場に終始し、積極的建設的見解を述べられなかったことに、物足りなさを感じた次第であった。

 初めての企画であったから止むを得ないが、ここに私は「日本には宗派があって仏教が無い」といわざるを得ない。このたびの講師がそうだというのではないが、一般にインド思想史や中国の思想史を理解しないで、日本仏教、それも各所属宗派のみの立場から論じようというところに、偏狭にならざるを得ないのではなかろうか。要するに仏教の基本理念から論じてほしかったと願うのは、私一人ではなかったと思う。

 およそ仏教が釈尊の自内証から展開したものであることは論を俟(ま)たない。それは釈尊以前、遠くB・C一五OO年前後、インドアーリア民族が当時の西北インドパンジャプ地方へ侵入以来、インダス・ガンジス両河流域への発展過程において諸々の事情から自然発生した民族意識、就中(なかんずく)四姓意識の迷信を打破し穏健な平和と平等社会建立にあったといって支障はない。

 インドアーリア民族の最古の信仰、神に捧げる讃歌と見做(みな)されるリグ・ベーダーによるならば、既にこのインド的特色ともいうべき神話的四姓意識が社会的に現実のものになっていることを否めない。殊に彼らがガンジス中流域まで発展し政治的にもある程度安定した農耕社会に入った社会組織では、判然と神人間の伝奏者としての最高階級たるバラモン、世俗的武力行政者たる第二階級クシャトリア、生産通商従事の第三階級ヴェイシャ及び第四の奴隷階級としてのスードラの四階層が確立していたことは周知の通りである。しかもヤージュナバルキャやウッダーラカといった宗教哲学者によって、この社会階層を不変の鉄則としての信仰的強固なものにまで造りあげていったのはバラモン教であった、と断言して憚(はばか)りありません。それはバラモン階層にとっては自己の権威と権力を高めることでもあった。

 やがてバラモン教典の上でウパニシャッドの哲学書が出現する頃には、政治的権力支配を恒久化せんとするクシャトリア(それは王族武士階級でありますが)は、社会的第一階層のバラモンと結び共同利益理念としての「善業善果悪業悪果」の輪廻説を生み出して行く訳であります。この理念は三千年後の現代まで持続され、今日のインド社会においても、統一近代国家建設の上で大きな障害となっていることは争われません。

 こうした過程の中で、所謂(いわゆる)六派外道(六派哲学)と称される反バラモン思想家をはじめ釈尊の出現を迎える訳であるが、釈尊においては天地万物の創造主たる神を否定し、合理的縁起説、換言すれば因と縁に立脚する努力説を提起されている訳であります。しかしながら、釈尊は極端に排他的立場を執らず、所謂応病与薬対機説法の立場をとり漸進的な教化方法に終始されていることは、尊重すべきであります。それだけ逆説すれば、仏説の中には在来のヒンディーズムが混在し、後世仏教徒の中には仏説の本領でなぐ、一応釈尊の黙認された程度のものを仏説の本質であるが如く受け取る現象が現われている。

 それは兎も角、釈尊の中心的立場は、科学的合理主義であり、規律ある平等主義であり、理性的実力主義である。今ここには、金剛宝座における成道後の釈尊教説を到底詳説し得ないが、一時仏説法の座において聴聞の弟子達の座次を定めようと舎利弗が提案したことがある。

それには出自の階層の如何によって上座下座を判別せんとした際、釈尊は即座に停止させ、敢て人間に上下を定める必要はないが、どうしても座次を決めなければならないなら、弟子達の出自が如何なる階層であろうとも問題でなく、一日でも早く入弟子したものを上座に置くべきであると指示された、と仏典は伝えている。恰(あたか)もインダスやガンジスその他の諸川が大海に流入後は、何等の区別も差別もなく、すべて同一鹹味の海水である如くであると諭されたと伝える。

 現代インド社会においては、バラモン教を仏教的に修正したヒンズー教が、その八〜九割の勢力を占めている。これはインド国民の民族的宗教意識の復興であって、釈尊の平等主義や合理主義がマウルヤ王朝やグプタ王朝の一時期を除き軽視されてしまった結果に外ならない。しかしながら解放後の近代国家建設に邁進する現代インドは、かつての輝かしいマウルヤ王朝アショカ王時代のダルマ(達磨=法=真理)に立脚した行政を理想とし、すべての貨幣・紙幣の図案や国旗にまで王の仏蹟に建立した当時の石柱に彫刻された獅子像や輪宝を用いていること、一体何を物語るのであろうか。果たして伝えるところによると、昨今ヒンズー教に依據する限り永遠に浮かばれないと自覚した下層階級と見做(みな)されている人達が、リーダーに率いられて、一度に何千、何万と新仏教徒に改宗しつつある現実は、また何を意味するのであろうか。

 翻(ひるがえ)って大乗仏教と自認しながら伝統的形式に安住し、時に非仏教的なものを仏教の本領の如く誤信し、社会に貢献しようとしない寄生虫的存在に堕している日本仏教界の現実を反省して見る必要がある。元来、日本仏教は百済の聖明王が大和朝廷に仏像経巻を送ったことをもって公伝とされている。勿論それ以前にも私伝があったことが推察されると共に、その後においても政権の具に供され波乱の素因をなしたこと度々である。何れにしろ大陸文化として最初は日本のトップクラスに受け入れられている。聖徳太子を初めとする若干の理解者が輩出はしているが、大部分は新しいファッションとしての単なる好奇心からか、古い日本の民族信仰の前提の上に立っての受け入れであって、それだけ仏教の本質を歪(ゆが)めてしまっていることも事実である。

 四天王寺の施療院・施薬院、法華寺の施浴等、社会福祉に仏教精神を生かした事績が伝えられているが、行基の土木事業や民衆への積極的教化活動も時の政権により一時禁止さえさされている。源信僧都は内具奉出仕に抜擢(ばってき)された世俗的栄誉を母に報告した時、そんな所に仏教者の本領があると思うなと辞退を諫言(かんげん)されているが、見るべきである。仏教者自身権威を利用し、利用され、便乗せんとする傾同は、平安・鎌倉を経て近世江戸時代には幕政体制の維持に利用され、去勢され、その延長が今日に及んでいる。それ程、仏教の本質を誤解し単なる儀礼や呪術に終始し権威に奉仕せしめようとする為政者の政策や利用態度を観破して、今後の仏教界のあり方を自主的に規定すべきである。

 今日、各宗祖師と称される人達は皆、形骸化した当時の仏教を釈尊の原点に返そうと努力した人であるが、中世に見られる一向一揆や法華一挨、奈良末に見られる教信沙弥の批判精神もまた権威・権力を否定し、自由平等の人権尊重にその拠点を置くものではなかろうか。識者の御一考を煩(わずら)わしたいものである。

 以上、延々と思いつくままに所感の一端を羅列したが、専制的な権威・権力に盲従しない反骨精神を釈尊教説の原点に見出し、自信をもって能所共々、その徹底に精進することこそ人権尊重につながるものであろう。(加古川市仏教会長)

もどる