情報社会と「多言語主義」(初出大修館『月刊言語』1996/7



 情報社会における「多言語主義」の問題を、現在の世界における「多言語主義」の全体的状況と切り離して考えることはできない。たとえば、インターネット上の多言語使用は、それ以外の社会空間における多言語使用の問題となんら区別されるべきものではない。言語をめぐる問題の困難さは、それが政治的、経済的、歴史的、文化的な領域のすべてと分かち難く結びついてる点にある。言語だけを切り離して語ることはできないし、むしろ有害である。
 <multilingualism>は、多言語状態と多言語主義の両方を指す言葉である。これは<multiculturalism>が多文化状態/多文化主義の二重の意味をもっているのと同じことだ。「多文化主義/多言語主義」と言うと、何か特定のイデオロギーや政治的方針を指しているだけのように思われがちであるが、実は二つの別々の事柄が同じ言葉で表現されているのである。おそらく似たような指摘が他の論文でもなされているとは思うが、きわめて重要な点であるのでここでも改めて強調しておきたい。
 まず初めに「状態」としての<multilingualism>について考えてみよう。
 多言語が混交する状態は現在の世界ではもはや日常的なものとなっている。もともと諸言語は地理的、歴史的、政治的な条件によって分割されていた。ところが二〇世紀になると度重なる世界戦争がこれらの言語共同体を破壊し、離散させ、混在させることになる。言語共同体とは無関係に国境線が引かれ、新たな「国民国家」が作られたり、世界史上例を見ない大量の難民・亡命者や移民が生み出されたり、あるいは会社の駐在員や留学生、旅行者などのさまざまな形態による人々の移動によって、同一地域内で多言語が入り交じる状態はますます拡大している。
 東京や大阪を含めた先進国の大都市では移民や外国人労働者が溢れ、それぞれが自分たちの共同体を作り助け合いながら生きている。異なる言語的・文化的共同体に属する人々が同一の地域内に混在し、敵対したり共存したりしながら生活している風景はますますありふれたものとなってきている。
 まず、これは否定しようがない現実であり、グローバリゼーションの必然的な帰結であろう。したがって「状態」としての<multilingualism>ということに関してはことは単純である。要するにそれは誰も否定できない事実であり、認めざるをえない前提条件なのだ。
 だが、こうした状態に対してどのような政治的・理論的立場を取るかと言うことになると、一転してことは複雑になってくる。「主義」としての<multilingualism>が問題となってくるのもそこからなのだ。「多言語主義」はおそらくは「単一言語主義」あるいは「標準言語主義」に対立する考え方であり、マイノリティの言語に対するさまざまな暴力や支配に反対しようとする政治的立場である。
 同一地域内における多言語使用は例外なく複雑な権力関係の中に置かれている。一般に少数派の言語は流通する範囲が狭く、その使用者が不利な条件におかれることが多い。近代の国民国家は通貨を統一すると同時に「国語」を作り上げ、それ以外の言語を「方言」や「地域言語」として周縁化したり、アイヌ語のような少数言語を「非国語」とみなして殲滅したりしてきた歴史をもっている。
 言語はただの道具ではない。言語共同体の歴史的記憶や文化的伝統のほとんどは言語と結びついている。ハイデガーがかつて言ったように、われわれは言語の中に「住み着いて」いるのであり、人々の文化的帰属意識の根拠となっている。したがって多言語主義は多文化主義と密接に結びついており、少数派の人々の固有の言語と文化を、多数派による排除と同化の暴力から守ろうとする考え方である。
 こうした考え方はとりあえずは正しいように見える。近代史における多数派による暴力は数多くの少数言語を滅亡させたり、周縁に追いやったりしてきたからだ。だが、現実にこの考え方を適用しようとするとさまざまな困難に遭遇することになる。
 ひとつにはこの立場が「国民国家」という現在でもなお強力なイデオロギーに正面から抵触することである。地域によってさまざまな状況があるが一つだけ例を挙げておけば、たとえばアフリカやオセアニアのように戦後独立国家となった国の中には数百の異なる言語集団を擁する国家が数多くあるが、こうした諸国における公用語はたいてい旧宗主国の言語であり、これを否定すれば国家はたちまちのうちに崩壊してしまうだろう。カナダにおけるフランス語地域の問題や、東ヨーロッパにおける民族紛争などを見ても、国民国家と対立するはずの立場がいつのまにかより強力な国家主義と結びついてしまうことも多い。
 また、言語と一口に言っても、フランス語やスペイン語というのは近代の国家が作り上げた人工的な「国民言語」であり、たとえばアメリカ合衆国のヒスパニック系の住民が「スペイン語」を使っているからと言っても、それは彼らの先祖が侵略者たちから押しつけられた「外国語」にほかならないというような複雑な問題もある。言語と民族は必ずしも一致しないし、国民とも一致しない。その背後には標準化しようとする動きと、その反対に多様化・個性化していこうとする動きの複雑な絡み合いが必ず隠されているのだ。言語は固定されたものとして考えることができない。正確に言えば「○○語」として同定できるような言語などはそれ自体としては存在していないのである。「日本語」という言語がそれ自体としてあるように見えるのは錯覚にすぎない。
 こうした中で、比較的状況が明確であるように思えるのは、「支配的な国家」であるアメリカ合衆国の「国民語」である「英語」が、少し前までの他の「国際語」であった「フランス語」「ドイツ語」「ロシア語」などに比べて圧倒的に強力になってきていることである。英語のもつ並外れた支配力に対する反発はいわゆる「英語帝国主義」の告発という形でなされている。ほとんど事実上唯一の世界共通語になってしまった英語は、アメリカ合衆国やアングロ−サクソン民族の優位性を強め、多様性を押しつぶしてしまうものだというのが、ここでの「多言語主義」の主張となる。  これはフランス語等の力を弱めている言語をもつ国家(たとえばフランス)からの発言である場合もあるし、スペイン語や中国語のように話者の人口が多い陣営から発言される場合もある。具体的には国際会議などの場所において、これらの言語を公用語として認めるべきだというような主張がなされることも多い。ここでも国民国家の言説とそれに対抗する言説の両方が入り交じっている。
 インターネットの普及とともに、この新しいグローバルなコミュニケーション空間における言語使用の問題が話題になり始めている。コンピュータの他の分野と同じく、この空間でも圧倒的支配力をもっているのがアメリカの政府や企業であり、英語がそこでもスタンダードとなっていた。というよりも、アルファベットを用いた1バイトコードで左から右へ横書きされるというのが、電子テクストの基本的な仕様であり、そこでは特殊なアクセント記号が使われたり、漢字のように表示に2バイト必要だったり、右から左に書かれたり、縦書きされたりする文字言語は、特別の工夫をしなければ表示することすらできなかったのである。コンピュータやインターネットの世界においても英語は国際標準なのである。
 これに対して、インターネットを通してますますアメリカと英語の支配力が増大することに危惧を抱く人が増えてきている。とりわけマイクロソフト社の独占とアメリカの企業、政府によるインターネット・ビジネスの標準化の動きなどに対して危機感が表明されることも多い。
 ここでの問題は、ある特定の一国民語が全世界において比類のない大きな影響力を行使しているということであり、それがアメリカという世界のリーダーとなりたがっている、少々単純で強引な国に大きな特権を与えていることにある。
 だが他方において、世界標準語としてのグローバル・イングリッシュの成立は、英語を外国語として習得している多くの地域の人々にとっては有利で効率的なものであることも否めない。たとえば、われわれは中国人や韓国人とも英語を通してコミュニケートすることができるし、そこにアフリカやオセアニア地域の人々が入っても何の不自然も感じずに会話を続けることができる。もちろん、イギリスやアメリカが旧宗主国だった地域の人々には英語に特別な思いを抱く人も多いだろうし、逆にその言語使用能力の優越が国際的なコミュニケーションの場において、彼らの立場を有利なものにしているということもあるだろう。だが、これだけ複雑になり多様になった世界において、英語の汎用性は実際的だし、きわめて便利なものであることは否定できない。
 しかも、アメリカの国内における多言語主義/多文化主義の流れの高まりは、「英語を話せないアメリカ人」の数を増やしている。また、世界の多くの地域において外国語としての英語教育が低年齢から行われていく傾向も拡大している。もし英語が特定の国家の特権や利益から切り離されていくならば、それはヘレニズム期のギリシア語のように、アングロ−サクソン文化とは切り離された新しい言語として成長していく可能性も考えられるだろう。
 また、分散処理型ネットワークであるインターネット上では、一部の人々が懸念するような英語の独占支配はけっして起こらない。電子メールやURLサイト上の電子的コミュニケーションにおいては、きわめて接触的で親密な関係を作り上げようとする力が強く働くために、むしろそれぞれの母語が使用されるか、場合によってはさらに「仲間内」の符丁やダイアレクトが使われるようになることが多い。事実から言っても、日本におけるインターネット文化はほとんど日本語で創り出されているのだ。これは他の地域においても変わらない。コンピュータ上での文字表示コードを統一しようという「ユニコード」の動きによって、将来的にはひとつのパソコンの同一画面でこれらの諸言語を同時に表示することが可能になるだろう。つまり、インターネットは世界の言語を英語に一本化するのではなくて、その逆に多様な諸言語が同一のネットワーク、同一のモニター上をかけめぐる多言語状態を作り出していくのが自然の流れなのである。
 ここではかつてミハイル・バフチンが『マルクス主義の言語哲学』(『言語と文化の記号論』)で鋭く指摘したような、言語における「求心的な動き」と「遠心的な動き」の両方が対話的に絡み合うダイナミックな言語的磁場が形成されている。局所化とグローバル化の両方の動きが同時に活性化されることになるのであり、したがって、インターネットはますます多言語主義的な空間になっていくはずだ。それは、たとえば国際電話のネットワークが英語を話す人の数を飛躍的に増やしたわけではないことを考えてもすぐにわかるだろう。むしろそれはその言語を母語にもつ人々のコミュニケーションの範囲を広げ、密度を深める形で発展したのである。
 ここで、たとえばビジネスやテクノロジーの各領域における特定の言語の影響力と、多言語主義/単一言語主義の問題を直接的に結びつけて論じるのは過ちであると思う。コンピュータ用語やプログラミングにおいて英語が支配的なのは、それらの開発がアメリカを中心としてなされているからであり、今のところ英語を使うのが最も便利だというそれだけのことである。
 外国語を学ぶことの意味は徹底的にプラクティカルに考えられるべきだ。たとえば、ビジネスマンが英語を学ぶのは、それがビジネスの世界での標準言語であるからであり、ベトナムに進出しようと考える企業の担当者は当然そこでベトナム語を修得しようと努力するであろう。また、フランス文学に関する国際学会に参加する研究者はフランス語で発表や討議をすることを期待されるのは当たり前だ。グローバリゼーションや多言語「状態」が作り出しているのはこのような多様でインターカルチュラルな間−言語的状況の多様化、多チャンネル化なのであり、英語に一本化するどころではなくますます多様な外国語教育のプログラムが求められていくに違いない。情報社会はこのような動きをますます押し進めていく。その時に英語という既に事実上標準となっている言語が「利用」されることはけっして悪いことではないのではないかと私には思える。
 多言語主義という視点は、それが国民国家主義や英語帝国主義批判という狭い枠組から解放されたときに初めてその本当の可能性が見えてくるものなのではないだろうか。(了)