世紀末・ほおずき色の夕方に――新宿梁山泊の『吸血姫』
 
 室井 尚
 


 新宿梁山泊の『吸血姫』を見た。東中野駅から徒歩十五分の距離にある[ゴールデンマンション」の地下二階に、今回こけら落とし公演が行われたアトリエ「芝居砦・満天星」はある。
 新宿の副都心からほど近くにあるのに、このアトリエはまさしく「砦」のように外から隔絶された不思議な空間である。ここには夜も昼もない。外壁がいい感じで古びてきたマンションの外は寺と墓地に囲まれており、高台にあるので空が広い。地下に降りていく狭い階段や内部にある劇団員たち手作りの「喫茶108」の壁一面には、梁山泊や状況劇場の過去のポスターが展示されており、時空を超えた「芝居砦」らしい雰囲気を醸しだしている。
 劇場は百人ほどの観客席を持つごく小さな空間である。ここで連日熱気に満ちたステージが二十人ほどの役者陣によって繰り広げられているのだから、考えてみれば日本中のどこよりも贅沢な劇場である。
 今回上演されているのは、劇団状況劇場が1971年に初演した『吸血姫』。この作品は唐十郎の戯曲としては六十年代の「ジョン・シルバー物」や「腰巻きお仙物」から、黄金時代と言われる七十年代の『二都物語』『ベンガルの虎』『唐版・風の又三郎』などに代表される中期作品群へとつながる、いわば境目に位置している。
 だが、1971年とは唐十郎と状況劇場にとっての境目だけだったわけではなく、日本社会にとっても大きな転換期であったと言ってもいい。世紀の境目に再びこの作品を持ってきたのが今回の眼のつけ所の良さである。
 新宿梁山泊の演出家、金盾進はスペクタクル性豊かな演出スタイルで知られているが、今回はその特質をいくぶんか抑えている。二幕の奥行きを持った病室を除けば、一幕と三幕では紫のシートで背景を覆い(新宿梁山泊の紫テントの皮膜を張り巡らし)、その手前で繰り広げられる役者の肉体的存在感をより一層強調しているのである。ホール劇場とこの小空間の違いを明確に意識した演出なのだ。実際、この劇場では役者の細かい感情の起伏や表情の変化が観客にダイレクトに伝わってくる。役者の肉体からほとばしる熱気や緊張感が観客席全体を覆い尽くす饗宴を、最も純粋な形で享受することができるのだ。
 今回の『吸血鬼』でまずもって特筆すべきは、その役者たちによる文字通りの熱演であろう。キャスティングの良さとあいまって、多くの役者が実に生き生きと舞台上を飛び回っている。具体的に言うならば、高石かつえ役の梶村ともみ、婦長役の三浦伸子、肥後役の稲荷卓央、花形役の金守珍、浩三役の小檜山洋一、ゆり子役の渡会久美子が安定した演技を見せておりそれぞれすべて素晴らしい。また、看護婦役を演じる李秀子、岩村和子らの表情豊かな演技も新鮮で魅力的だ。出番は短いながらも父親役の原昇、床屋役の大貫誉もいい味を出している。そして、何と言っても大久保鷹!。三十年前と同じ役を配されたこの伝説的な怪優は、関東大震災、満州事変、大阪万博の70年、世紀末の現在という四つの時空を結びつけ、観客を時間の暗闇へといざなう触媒の役割を十二分に果たしている。最後に、99年の『千年の孤独』(紀伊国屋ホール)、『少女都市からの呼び声』(本多劇場)に続いてヒロインを演じている近藤結宥花。まるで昆虫の変態のように、めまぐるしく変身を繰り返すエフェメラルな超少女役をしなやかに演じきっている。思わず溜め息がもれるフラメンコや歌のシーンの夢のような美しさばかりではなく、絶え間なく変化していく繊細なニュアンスに満ちた表情。切なく、ひたむきで透明な瞳。少年と少女と成熟した女がひとつに重なり合ったようなよく転がり、響き渡る声。立ち姿のりりしさとはかなさ。この一年での大きな成長を感じさせてくれる熱演だ。
 『吸血姫』の複雑なストーリーを要約するのは――見えない伏線とノイズに満ちた唐十郎の戯曲のすべてにあてはまることではあるが――きわめて難しい。だが、この戯曲の場合には「序・破・急」の三幕構造が比較的はっきりと示されている。一幕で夕焼けと共に「永遠の引っ越し看護婦」海野ほおずきが登場する。彼女は関東大震災で上野の山で焼け死んだ被災者達のところへ時間の壁を越えて「引っ越して」行こうとする。だが、過去の歴史の闇への移行は「魔の踏み切り」に遮られて失敗し、彼女はけがを負ってしまう。二幕で彼女は、夕闇深い海底の愛染病院の病室にいる。彼女を助けた病院長浩三に言い寄られ、吸血鬼の死者を呼び出す魔法によって、彼女を妊娠させ、彼女に殺された父親と再会し、満州浪人川島浪速の養女である「東洋のマタハリ」川島芳子に変身する。だが、この地獄巡りは彼女を慕う少年、肥後の介入によってまたしても中断させられる。歴史と意識の暗闇に回帰しようとする女と、彼女を昼の光に満ちたこの世の「いま・ここ」へと救出しようとする少年。二幕まではオルフェウス神話に似たこの構造が比較的図式的に保たれている。ところが、後から書き足されたと言われている三幕に入ると劇空間はさらに錯綜したものとなる。浩三に使われる夜の女となった彼女は、停止した時間の中に生きるイマジネールな超少女「さと子」に変貌し、「もう少ししたら私が来る」時間を待ちわびている。彼女を「現在」へと救出しようとする肥後の愛に魅かれながらも、彼女は肥後にナイフで切りつけることで結局はそれを断ち切り、再び大震災の日の上野の闇へと無限に下降していくのだ。
 高度経済成長のさなかでもあり、万博のあった翌年でもある71年に、関東大震災と満州事変の悪夢を呼びだした唐十郎は、当時の劇評で右翼と決めつけられ、開き直って次の年には『少女と右翼』という小説を書き、『二都物語』に代表される一連のアジア物へと移行している。また、吸血鬼というキーワードで言えば、二年後には創刊号のみで終わったが『ドラキュラ』という雑誌を創刊したりもしている。
 死者達のカーニバルとも言うべきこの戯曲は、ただ読むだけでも、六十年代の唐十郎の作劇術の集大成という感じが十分に伝わってくる。だが、今回実際に上演されたものを見て、改めて大きな疑問が膨らんできた。
 さと子はなぜ最後に自分を慕う肥後に切りつけたのだろうか。ちなみにさと子は、二幕までの役名は「ほおずき」、三幕一場の川島芳子の軍服姿の時にも「ほおずき」と表記されているが、二場の冒頭では「女」、正体がばれた後は「さと子」と表記されている。魔の踏切でバスケットのほおずきをすべて潰されたほおずきは風呂屋の娘海野さと子へと変わり、さらに三幕では具体的な人物というよりは永遠の少女の象徴――唐十郎の幼年期の記憶に残る童謡歌手「古賀さと子」――に変貌しているのだ。そして、この超少女の形象は初演に関する劇評で何度か指摘されている通り、関東大震災とほぼ同じ時期に書かれたアンドレ・ブルトンの『ナジャ』のイメージとも重ね合わされている。
 「あたしが来ると言ったじゃないか」という言葉とともにさと子が切りつけたのは手首ではなくて、肥後がもっていたほおずきなのだ。それではほおずきの意味とは何か。それはさと子の歌う歌詞の中に既に示されている。「あたしの口の中でほおずきがわれると/見るものはみんな腐り始める/そしてとうとう夕方も粉々に砕けたよ」。ほおずきは血の色、夕焼けの色である。ほおずきが割れると見るものはみな腐り始め、深くて黒い夜がやって来るのである。これは、ホフマンのようなロマン主義の作家たちや、あるいはブニュエルやバタイユといったシュールレアリストたちからもたらされ、眼球(義眼)、リンゴ、柘榴といった形でその後も継承されていく、唐十郎の偏愛する球形イメージのひとつである。
 それでは「あたしが来る」とは何なのか。おそらくほおずきが割れた後の吸血鬼=吸血姫たちの深い闇に満ちた忘却の夜が来るのであろう。夕焼け色と血の色に覆われていた舞台はやがて来る歴史と意識の「夜」の訪れを待っている。だから、肥後とさと子の間には次のような会話が交わされているのだ。

さと子 「今晩おひまなら、あたしを世話してよ。ねえ、あたしが来る前に世話してよ」
肥後  「あんたは俺の前にこうやっているじゃないか」
さと子 「もう少し経つと、あたしが向こうから来るって言っているのに、何にも分かってくれないんだから、この童貞さんは......」。

 肥後は結局のところ夜を知らない、昼の世界に縛られている人間なのだ。そして同時に、この会話にはエロティックな暗示が含まれている(あたしが来るとは、あたしが「行く」という意味でもある。血の色をしたほおずきがはじけるイメージはエロスと死のエクスタシーと結びついている)。だから、肥後にはさと子を取り戻す力はまだそなわっていないのである。
 肥後は最後に「青春・愛・挫折・希望」と臭いセリフをつぶやく。だが、それらは七十年安保直後の当時には今よりも切実な響きを伴った言葉だったのかもしれない。肥後は日焼けしており、さと子に「お陽様の化物」と揶揄されるが、言うまでもなく「人類の進歩と調和」を統一テーマとした大阪万博の象徴は岡本太郎の「太陽の塔」であった。
 吸血鬼(姫)とは何だろうか。それは永遠の若さをもつ闇の帝王であり、処女の血を追い求める美と愛の狩人であり、時間から離脱した不滅の存在である。と同時に、吸血鬼はこうもりや狼男といったふたつのもの(鳥と獣、人と狼)の境界線上に位置する両義的な怪物を使いこなすとされており、それ自体が生者と死者、男と女、人間と魔物、昼と夜の狭間にある両義的な存在である。また、もう一つの下敷きとなった物語、アンデルセンの『人魚姫』も同じように境界線上をさまよう存在の話であった。新宿梁山泊がこの作品を上演する場合、そこには同時に「在日」と呼ばれる人々の置かれてきた状況も重ね合わされてくるだろう。
 浩三という名前はすぐさま「構造」という言葉を思い起こさせる。時代的には構造主義ブーム以前ではあるが、構造とか構造改革派といった言葉は既に使われていた。それは単に政治的構造であるばかりではなく、規範化され、図式化された固定的なシステム一般を指しているように思われる。病院は学校と共に管理社会の象徴とされている。看護婦達は吸血鬼の使い魔であるこうもりであり、肥後がナイフで「引き裂いても引き裂いても白衣が出てくる」血の通わない存在である。浩三は海底の死者の病院の主であり、死んでしまった時間の堕胎児たちのお世話をしているとされている。だが、それと同時に浩三は「お世話の都」たるこの世界に囚われ、そこから脱けだすことができないという意味で、きわめて曖昧で両義的な存在でもある。三年ぶりに帰ってきた浩三は、ほおずきを見初め、自らの虜にした後、二幕から三幕の間にはさらに三年の時間が流れていく。また、浩三=花形=川島浪速という吸血鬼トリオも三人である。唐十郎にとって「三」という数字は特別な意味を持っている。それは時間の外に出ていく数字であり、男と女、生と死、時間と空間、昼と夜の二項対立の外に出ていく数字なのである。これらは六十年代の唐作品に繰り返し現れてくるモチーフでもあった。
 さと子は肥後に「お前の肉の色はまだ夕方色ね。病院に行くとそれが白くなっていくのよ。.......あんたの血とあたしの血のどちらが赤いと思う? あんたより、あたしの方が苦労しているのよ。あたしの方がきたないでしょうし、あたしの方が黒ずんでいるの。あんたとあたしは赤と黒。赤と黒を忘れなさんな」、と言う。したがって、白から赤へ、赤から黒へ、夕方から夜へ、生から死へ、記憶から忘却へとこの作品の時間は絶えざる往復運動を繰り返しているのだ。割れたほおずきの中でぶつかり合うさまざまな時間と記憶の巨大な渦巻き、その中にりりしく屹立する「戻れない女」の幻――そこに、この作品のもっているダイナミズムがある。
 ぐちゃぐちゃになって崩れたほおずきの実が、見えるものすべてを腐らせ、めまいをおこさせる「臭い」の充満とともに、赤くて白くて黒いすべてを巻き込んでいく深い闇へと変貌させていくように、この作品は観客の中の歴史的な無意識というか、時間の底、記憶の底に潜むものを目覚めさせ、生まれる以前の宇宙的な混沌の中へとぐいぐいと引き込んでいくのである。三幕の、そしてこの作品全体の現在も色褪せないラディカルさはそこにある。
 世紀の変わり目を迎えたわれわれを取り巻く世界では、相変わらず均質でのっぺらとしたシステムがすべてを覆い尽くし、異質性や外部をどんどん目の前から消去しようとしている。「あっち」を見通すことができないこの息苦しい状況の中で、新宿梁山泊の『吸血姫』は、世紀末の「夕方」に飛ぶこうもりの翼のはばたきと共に、われわれが忘れかけていた想像力の根源的で危険な力を改めて思い起こさせてくれる。それは、ほおずき色にも似た色鮮やかな演劇的挑発である。

 (last updated  28/11/00)

 

新宿梁山泊第26回公演『吸血鬼』、2000年11月10日から12月3日まで

新宿梁山泊の公式サイト: http://www5a.biglobe.ne.jp/~s-ryo/

 

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