山 口 伊佐夫(東京大学名誉教授・農学博士)

 寛政四年(1792)旧暦四月一日18時過ぎ天狗山の東面が大崩壊を発生した。
寛政三年旧暦十月八日頃より半島西部小浜町付近で頻発地震が発生している。その三ヶ月後、寛政四年一月半島中央部の普賢岳で山の鳴動が続き、同月十八日頃より噴火活動が始まっているが、噴火口は穴迫峰の窪と変動して二月末まで続いている。更に三月になって地震は西部に移り島原市は連日の頻発地震に見舞われている。
 この間、眉山から島原市にかけて東西方向の地割れが数本発生し、地下水、湧水に大きな変動が生じたと云われる。
 この地震動はかなり長期的に続き、遂に四月一日十八時過ぎ強震二回が生じ眉山の大崩壊が発生したのである。この地震動について一応当時の資料から概算すると崩壊発生時で、マグニチュード(M=6.0〜7.0)・震度階(=」-、)・地震加速度(A=250〜400gal)が推算される。
 同時に有明海では津波が発生し、肥後まで波及し、俗に島原大変肥後迷惑の大惨事となったのである。島原町の死者9.745人、津波被害も含めて死者15.000人と云われている。
 本災害に対し有明海底も含めた眉山ガス爆発説、熱水説があるが、これらも一応考慮におきながら当面、本来充分飽水している口之津層が頻発地震による長期間の地震動で地下水が上部の凝灰角礫岩内へ上昇し、間隙水圧が上昇する結果となり、そこへ250〜400galの加速度が付加され上部に位置する角閃安山岩とともに地滑り状に崩壊したとの想定を立てている。従って崩落の際、上層部の角閃安山岩がブロック状に、下層の凝灰角礫岩が含水粘性状の二層構造で土石流状に流下していったものと想定している。そしてこの集合状態が有明海へ突入し津波を誘発したものと考えている。(galとは、地震加速度で重力の加速度980gal)


 本絵図は常盤歴史資料館蔵の島原村周辺(現島原市・深江町)の測量図であり、島原藩の役人(郡奉行・川鍋次助左衛門、測量方・奥村立助、絵図方・村越仙太郎)により作製されたものである。
 寛政島原地変の悲劇は、寛政三年(1791)旧暦十月上旬の頻発地震から始まる。
やがて普賢岳の火山活動へ続き、翌四年四月朔日眉山(天狗山)が大崩壊し、土石流となって島原の町並を埋め、更に土体は有明海に突入して、津波を誘発し、俗に言う島原大変肥後迷惑の大惨事となったのである。
 本図は、文政時代の調査といわれ、災害から約三十年後の測量図である。地図は現地形図と対比しても割合的確であり、特に田畑の灰色や黄色が目立つ。約二カ年間の火山・地震活動は膨大な火山降灰、火砕流、更に土石流をもたらし、林地農地被害も甚大であったと思われるが、見事な復旧状況が伺われ、当地藩農民の災害復旧への並々ならぬ努力が伺われる。
記録によると津波等による田畑被害は水田259町5反、畑地119町5反となっている。降灰、土石流被害等も含めると、実質面接はこの数倍となろう。


【安徳村絵図】
彩色 126.4×85.7 (792-2番)

 良右衛門日記によると、寛文三年(1663)十一月普賢岳に「火の地獄が出来」火山活動があったと記されている。寛政島原地変より約百三十年前である。翌四年火口付近の九十九池が切れ、泥流となって流下し水無川に沿って氾濫し安徳村一体は家屋流出、及び死者三十余名があったと記されている。堆積火山灰を巻き込んだ土石流・泥流の発生流下と思われるが、「辰の水」といわれ水無河原が形成されたといわれる。
 本図は当時の水無川氾濫流路を示しているが、特に今回の平成島原地変でも土石流・泥流が本図の氾濫域と類似の流路を辿っている点は興味深い。
 また崩壊によって生じた海洋の島(流れ山)も現状と対比し、はるかに多く、その後の波浪浸食により消失した状況が伺われる。流れ山(島)数は伊能忠敬測定で59個とされ明治三十一年測定で31個となり現在では16個に減少している。


【中木場村絵図】
彩色 121.×85.9 (792-3番)

 眉山崩壊地と荒廃渓流の痕跡が明確に示される。「島原大変絵図や大変後島原絵図」では崩壊土が一気に崩落し海中に突入する状況が描かれているが、本図はそれとなく崩壊跡地の形状が明確に図示されている。
 旧暦三月一日申の刻(18時頃)より二日朝にかけて強震が十回ほど続いている。この震度階はほぼ」〜、であったと判断されるが、島原・杉谷村では地盤亀裂・湧水の噴出また逆に湧水涸れ等が生じている。
 その直後三月八日、眉山、今村名楠平で長さ330m、幅360m、落差160mの地滑りが発生している。この地滑りが本絵図の上段裸出か下段裸出面か判断し兼ねるが、その土石、流下跡の荒廃は明確で、現在の鮎川、新湊川、白水川流路の起点となっている。
 ついで約一カ月後の四月朔日酉の刻(18時頃)強震二回あり、百千の雷鳴の轟きと共に眉山が大崩壊している。幅約1000m、長さ2000mの土体崩落でその土量約三億四千万Gと概算されている。推定地震加速度は250〜400ガルで震度階」〜、と判断されるが、土砂の堆積範囲は10平方Kmにも及んでいる。
 この頃、「空中に帆掛け船往来す」「東の海中鳴動して」「島原の地甚だ熱し、草履で歩行なり難し」「草木一夜にて花咲乱れる」等々の地震の前兆現象としての蜃気楼・鳴動(高周波A、E)・地温上昇・植物異変の風説記録もある。
 当時島原藩は有明公海の商権を持ち、肥前・筑前・肥後の物産貿易の商港として栄え「高楼浪ニ浮キ、翡簾水ニ映ジ、絃歌ノ声ハ畫夜ニ徹ス」の状況にあったといわれる。つまり繁栄の町並みが一夜にして埋没したのである。
 海中に突入した土体のためか、海底も含めた地滑り土体の押し上げによるかは断定し難いが、有明海では異常な津波が発生し、その被害は対岸の肥後まで及び、島原藩からの届け出では島原で死者9.924名、総合して14.920名となっている。


【杉谷村絵図】
彩色 107.5×103.5 (792-4番)

 中尾川及び三会川上流部が描かれ、寛政四年の溶岩流の焼山も描かれている。
 寛政四年一月中旬から普賢岳火山活動が活発化するが、二月十日頃には高さ180m径140mの溶岩ドームとなり、更に火砕流は普賢岳北東へ樹木草を焼失しながら流下している。溶岩流は千本木集落の500mの地点まで達したが、その関係も本図で読みとることが出来る。
 この激しい地震噴火によって、人々は異常な恐怖に陥入れられるが、時間経過と共に慣れ始め、二月中旬には、春暖に誘われ、酒肴を携え、溶岩見物も出てきている。やがて見物人も多くなり、「老若男女群を為して遊楽し、櫓木山には茶店酒舗が生じ、乱舞泥酔身を傷する者も生じた」といわれる。藩庁は三月十三日登山禁止令を出している。
 この櫓木山は焼山の北西に位置する。本図ではわずかに欠けるが、当時溶岩見物に往来した道は明記され、かつての状況を偲ばせる。現在の江里町、宇土町の集落も今と余り変わらない。絵に示される中尾川河口付近の防風砂林は今はない。


【深江村絵図】
彩色 153.8×88.4 (792-1番)

 当時の深江村は島原藩で最も田畑が多く水田111町歩、畑地200町歩となっている。本図に見られるように水田は深江川沖積地を中心として、海岸沿いにあり、畑地は野岳東部の丘陵性斜面に広がる。
 深江川に沿って深江断層線が西北に伸びるがこれに沿った断層崖も見事に描かれている。岩床山東面の崩壊斜面と旧い崩積堆積に発達した古江名、山ノ寺等の畑地や集落も現在と余り変わらない。
 野岳溶岩末端部の岩床山東線からボタン山峠にかけては多量の湧水があり梶木・山ノ寺・中ノ間川の流量を豊かにしている。同図の池平御林は現在その一部が島原ゴルフ場になっている。また山麓斜面を流れる中ノ間・畔津・間貫川の火山性堆積内における二次浸食の様相が的確に描かれている。


単著『雲仙普賢岳噴火災害と治山事業(熊本営林局編)』に掲載された
研究報告”寛政島原大変”を一部割愛し再構成して公開しています。 


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