(資料解説)【島原市本光寺所蔵古文書調査報告書からの抜粋】



 『 目 次 』

 【序】島原松平氏と本光寺史料について  中村 質(九州大学文学部教授)
 【1】中世・近世史料          黒川直則(京都府立総合資料館課長)
 【2】近世・近代の文書記録       中村 質(九州大学文学部教授)
 【3】書跡・典籍            菊竹淳一(九州大学文学部助教授)
 【4】地図・絵図            川村博忠(山口大学教育学部教授)
                     中村 質(九州大学文学部教授)
 【5】美術工芸資料           菊竹淳一(九州大学文学部助教授)
 【6】建造物・建築指図類        林 一馬(長崎総合科学大学助教授)


【序】島原松平氏と本光寺史料について (中村 質)

a)はじめに
 近世の島原藩域(肥前国高来郡の四万石)は、鎌倉以来の有馬氏が晴信の改易とその子直純の慶長十九年日向県(延岡)移封のあと、元和二年(1616)大和五条から松倉重政が入部して、居城を有馬から島原に移し、その子勝家が島原の乱の責を負って改易されるまで、松倉氏の治世が二代二十二年間続いた。領域の半ばが亡地となった乱後の復興と、対外・キリシタン政策の第一の当事者である長崎奉行の支援のため、寛永十五年(1638)初めて譜代大名の高力忠房が入部するが(以後明治まで譜代領)、これもその子の高長が寛文七年(1667)に改易されるまで二代二十九年に過ぎない。その後一年四ヶ月の守衛期間をおいて、寛文九年(1669)幕府は福知山四万二千石の松平忠房(深溝松平)に二万石を加えて島原に移し、ここに松平島原藩が定着する。
 即ち、その後宇都宮の戸田氏との交換支配二十五年間(寛延二〜安永三年)を除き、廃藩まで松平氏十三代を数えるのである。

b)島原入部以前
 深溝松平家は、清和源氏といういわゆる十八松平氏の一つで、「深溝松平家譜」「深溝松平系図」「深溝世紀」『藩翰譜』『寛政重修諸家譜』などによれば、三河生まれで文明十七年卒の松平元芳(忠景)の二男で、大炊助忠定(「深溝世紀」では元公、以下同じ)を初代とする。彼は三河深溝に元光寺(のち本光寺と改める)を建立して菩提寺とし、法名を本光寺殿実厳源参大居士という。
 本目録「中世史料」(田島・新田島文書・深溝本光寺文書)は、二代好景(昭公、大炊助、永正十五年〜永禄四年/1518~1561)、三代伊忠(粛公、主殿助、天文六年〜永禄六年/1537~1563)関係史料に始まる。四代家忠(孝公、主殿助)は弘治元年(1555)深溝に生まれ、家康に従って高天神・小牧・小田原城攻城などの歴戦の軍功により、天正十八年(1590)一万石を領し、武蔵忍城を預かったが、同二十年(1592)主殿助に任じ下総小美川城に移る。慶長五年(1600)伏見城を守り西軍に攻められて戦死、四十六歳、慈雲院殿賀屋源慶大居士。
 五代忠利(恭公)は天正十年(1582)深溝城に生まれ、慶長九年(1604)主殿頭、同十七年二万石を加増されて三万石、同国吉田城に移った。寛永九年(1632)吉田城にて没、五十一歳、寿松院殿超山源越大居士。
 六代忠房(烈公)で、元和五年(1619)三河吉田城で生まれ、寛永九年(1632)八月三万石を襲封したが、同八月十一日同国刈谷城に移り、同十二月主殿頭、寛永十年佐賀藩主鍋島勝茂の娘を室とす。慶安二年(1649)二月二十八日丹波福知山(京都府)四万五千石余に加増転封された(四月十一日入国)。寛文三年(1663)後西天皇の退位(新院、霊元天皇践祚)につき新院御所・女院の造営助役を命ぜられ、同年末に起工し翌年五年八月に完成した。同六年京極高国改易に伴い丹後宮津城の受取勤番、同七年八月四日常盤橋・浅草の両屋敷の代わりに、京極高国の上屋敷であった三田屋敷を拝領した。同年六月八日二万石を加増の後、島原転封を命ぜられ、八月二十六日福知山を発ち、九月十七日肥後長洲から島原領土黒村に上陸、庄屋宅に一泊して、翌十八日島原へ入城した。(これがその後の藩主入部時の慣例となる。)

c)松平島原藩前期
1、『松平忠房』 主殿頭 大炊頭
 入部すると、直ちに城内外の点検(修理願)、家中屋敷割、法令発布を行い、十年後の延宝七年(1679)に検地したが、前領主二氏の轍を踏まぬよう穏やかで注意深いものであったらしい。所領六万五千九百石七斗八升八合は、島原城領三万八千三百石余のほか、豊前国宇佐郡・国東郡に一万三千五百四十石、豊後国一万四千五十石の飛地から成るので、豊後高田に陣屋を置き、また幕府特命の長崎監察にあたった。
 島原松平藩の職制及び行政組織は、忠房期にほぼ確立したようで、大老(歴代板倉・松平の二家)以下、中老(城代・留守居など数名)・御番頭・寺社奉行・物頭・大目付・用人・町奉行・郡奉行・長柄奉行・大納戸・江戸詰・側小姓・右筆・豊州郡方など五十以上の役職を数える(寛文十年の分限帳)。
 領内統治組織は、町方と郡方に大別され、町方は町奉行のもとに島原町の別当三人があり各町の乙名を支配した。郡方は郡奉行下に代官(島原地区を五筋に割り各筋に二〜三名、宝永期以降は北目・南目・西目の三筋)・改役人・郡方勘定人・手代があり、各村には村万人・庄屋・口之津などの在町には乙名・問屋がおかれた。飛地支配は豊後高田に陣屋を置き、豊州郡方がこれに当った。
 江戸時代を通じて領外の藩屋敷は、江戸では上記の三田屋敷の他に、深川の別邸を寛文十二年(1672)秋田季久の桜田屋敷と交換。この桜田屋敷を貞享四年(1687)神田橋内の井上相模守屋敷と交換、さらにこれを元禄四年(1691)に数寄屋橋の九鬼長門守屋敷と交換して上屋敷とする。ほか京都・大阪・長崎に藩屋敷が置かれた。
 忠房は元禄十一年四月致仕して大炊頭、十三年十月朔日江戸三田屋敷にて卒、八十二歳、興慶院殿泰雲(位牌は運)源通大居士。
2、『忠雄(戴公)』阿波守 主殿頭 大炊頭
 旗本松平伊行の子で延宝元年(1673)江戸出生。貞享三年七月忠房の養子となり、元禄四年阿波守。同十一年(1698)四月十八日襲封、同月主殿頭、長崎御用を仰付られ、八月に入部した。治世初期には連年不作に見舞われ、財政再建のため宝永三〜四年(1707)に検地を行い、この結果行財政の「島原大概様子書」「郷中諸事定書」を策定して、長く藩政の基本となった。享保五年(1720)彼杵郡・高来郡・肥後天草郡・八代郡にて高二万四千三百石を預けらる。十七年虫付損耗につき五千両拝借、同二十年十二月三日に隠居、大炊頭と改め、同二十一年二月七日江戸にて卒、六十四歳、瑞光院殿徳運源恭大居士。
 前記のように、歴代当主夫妻は三河国深溝の本光寺に葬送されたが、忠房の次男忠倫(明暦三〜享保三)以下、側室その他は島原の菩提寺浄林寺(現在の本光寺)に葬られるようになった。
3、『忠長、のち忠俔(タダミ・悼公)』主殿頭
 松平氏の一族である家臣松平次章の子芳喬、正徳元年(1711)十二月朔日島原生、享保二十年(1735)五月十六日養子となり、同年十二月二日襲封。前代と同じく肥前肥後四郡を預かり、同十六日主殿頭。襲封と同時に新旧の重臣間に抗争が起こったが、前藩主忠雄の死により新参の黒川頼母らは一掃された(「黒川頼母一件」)。元文二年(1737)九月十一日忠俔と改名、同三年に治政二年余で急養子を願い出、同三月二十一日島原にて卒(位牌には三月十四日)二十八歳、玉龍院殿潭水源澄大居士。
4、『忠刻(タダトキ・頃公)』図書 主殿 主殿頭
 支族松平勘敬(旗本)の嫡男八十郎で、享保元年(1716)七月十九日大坂生。元文三年(1738)五月二十七日襲封、同日主殿と改む。前代同様肥前肥後の四郡を預かる。同十二月十八日主殿頭。主な事績は、学問の振興、藩の日記・記録の整備、倹約令、殖産(櫨蝋)などで、延享四年(1747)奏者番に挙用されたが、寛延二年(1749)五月十日(位牌は八日)参府途中周防下松にて卒、三十四歳、喚龍院殿是山源誰大居士。
 ときに後継吉十郎(忠祗)は十二歳にすぎず、忠祗は同年七月二十三日下野宇都宮に移され、代わりに宇都宮の戸田氏が翌寛延三年二月四日島原に入部する(交替転封)。

d)戸田島原藩時代(松平宇都宮藩時代)
 イ)戸田能登守忠辰(タダトキ・忠盈)伊賀守
 戸田氏は歴代奏者番・寺社奉行・老中などを勤めた譜代の名族であるが、忠辰は交替転封により寛延三年(1750)二月に島原入部、二十歳。松平氏同様長崎港警備を命ぜらる。所領は松平氏の肥前豊前豊後領の他、宇都宮時代からの出羽村山郡一万二千石を保有した。入部三年後に四十五条からなる「村方条目」を出したが、幕府法令に倣ったもので、戸田島原藩の独自性は見い出し難い。多病のため四年後の宝暦四年(1754)に到仕し伊賀守、天明元年(1781)卒、五十二歳。
 ロ)戸田忠寛(タダヒロ・忠辰弟)因幡守
 宝暦四年七月二十五日に七万七千八百五十石を継ぎ、同十二月因幡守。明和七年(1770)に奏者番。明和四年より櫨蝋をもとに藩札を発行し、関連して「村々口銭改方定」を制定した。安永三年(1774)六月八日再び松平氏との交替転封により宇都宮に帰るまで、二十年間島原を支配。その後、寺社奉行・大坂城代・京都所司代を歴任し、享和元年(1801)卒、六十四歳。
5、『松平忠祗(タダマサ・度公)』主殿頭 大炊頭
 元文三年(1738)十一月十一日江戸飯田町屋敷で生まれ、寛延二年(1749)七月十三日島原襲封、同二十三日宇都宮転封令(長崎監務には幼すぎる故と云われる)、宝暦元年(1751)主殿頭、同十二年七月弟八十之助を養子とし、九月に隠居して三田屋敷に移り、大炊助。享和元年(1801)九月八日江戸三田屋敷で卒。六十四歳、虔興院殿義範源鼎(位牌には貞)大居士。
 このように戸田氏時代は二代二十五年間にすぎず、史料的な限界もあるが、概ね松平治世の踏襲と見るべく戸田島原藩の際だった独自性は見い出し難い。一方、宇都宮時代の松平氏についても史料は乏しく不明な点が多い。

e)松平島原藩後期
6、『忠恕(タダヒロ・定公)』将監 主殿頭 大和守 飛騨守 主殿頭
 実は忠刻の二男、元文五年(1740)島原生まれ、宝暦十二年(1762)忠祗の養子となり、同九月朔日宇都宮襲封、主殿頭。明和六年(1769)八月大和守、安永三年(1774)六月八日島原移封。高来・宇佐・国東郡の旧領六万五千九百七十八石を領し、同六年十一月飛騨守、天明三年(1783)八月天草・八代郡内に二万三千百石を預かる。天明六年十一月主殿頭、寛政四年(1792)正月十八日より普賢岳が鳴動噴火し、四月一日の眉山崩壊と津波により、島原を中心に罹災二十村、死者九千四百七十八人、流失家屋三千二百八十四軒、被害は有明海対岸の肥後領にも及んだ(いわゆる「島原大変肥後迷惑」)。忠恕は諸役所を三会村景花園に移し、藩士を諸村に待避させたが、島原城を始め壊滅状態の城下を巡視した翌日、俄に病を発し四月二十七日卒(発喪は五月十四日)。五十三歳、瑞応院殿麒獄源麟大居士。
7、『忠馮(タダヨリ・靖公)』主計頭
 明和八年(1771)五月六日江戸生まれ、主計頭。寛政四年(1792)七月十六日襲封、ほか肥後二郡の地を預かり、翌五年入国。同十一年七月十七日豊後のうち大分郡・速見郡内で一万四千石余の預所の増地をみたが、文化九年天草郡・八代郡二万三千四百石余の預所を長崎代官高木氏に引き渡した。治世は二十七年に及ぶが、その第一歩は幕府の貸与金一万二千両(十年賦)などでの災害復興の傍ら、藩校稽古館を設立した。次いで英国軍艦フェートン号事件など外圧の危機感から沿岸防備体制を強化し、財政支出の抑制(三府法・俸禄削減)と櫨蝋専売・百姓相続方仕法など見るべき施策が多かったが、文政二年(1819)一月二十八日江戸で死去、四十九歳、麗商院殿緝敏源熈大居士。
 伝存資料はこの代から増加するので、忠馮期の職制の大要と、主な役職人数を文化十一年「惣御家中人高之内士分人数調帳」によりカッコ内に示す。但し、各地詰めの人数を含む。
 中 央…大老(2)、中老連判役(5)、奥右筆・表右筆(14)・留役老物書
 家 務…用人(3)取次(8)側役(2)近習目付(3)
     台所頭・茶方・用人・物書・台所人・中奥番方
 番 方…城代(3)大番士(6)番士(6)馬廻(62)持組頭(2)
     焔硝方・物頭(10)旗奉行(3)持鑓奉行(2)長柄本行(2)
     武術方・武具奉行(2)乗物附(3)御納戸(7)納戸詰(6)
     通番(21)大納戸(17)中小姓(65)独礼格・日見格
 厩 方…乗方(8)厩小頭
 巵従方…供頭・中小姓・引供・供番頭・供番
 町 方…町奉行(2)吟味役・船津往来番・宗門方
 勝手方…御勝手勘定奉行(12)改役人・勘定人・物書
 蔵 方…蔵奉行・倉方役人
 郡 方…郡方勘定奉行(郡奉行5)改役人・代官・物書
 山 方…山奉行・手代
 公事方…公事方勘定奉行(大横目)吟味役・物書・公事方同心
 横目方…大横目(6)徒横目・村番人・町横目・下横目
 普請方…御普請方・勘定奉行・大工棟梁・下奉行・大工・材木奉行物書
 船 方…船奉行(2)大船頭・並船頭・船方小頭・楫取水主・船大工
 銀札方…銀札頭収・吟味役・引替役・物書
 櫨 方…櫨方役人・櫨方下役
 稽古館…教授・訓導(7)句読師・書師・算師・書記
 済衆館…医師(14)外科(6)
 大 奥…大奥目付(2)奥役人・錠口番
         【島原半嶋史下巻595~597、633~639参照】
8、『忠侯(タダヨシ・文公)』摂津守 主殿頭
 寛政十一年(1799)十一月二十二日江戸生、文化十一年(1814)十二月摂津守、文政二年(1819)三月二十九日襲封、六万五千九百九石七八八及び豊後二郡を預かり、同四月二日主殿頭、長崎御用は先の通りであるが、海防問題が緊迫化し、天保飢饉に対する対策が重要課題であった。他面、稽古館を拡張し、済衆館(医学校)を興し、自ら文芸を好んで著作も多い。日記二十九年分七十九冊、天保十一年(1840)四月九日島原に死す。在位二十一年、四十二歳、徳寿院殿有道源純大居士。
9、『忠誠(タダナリ・平公)』縫殿 主殿頭
 文政七年(1824)正月一七日島原生、天保元年(1830)より江戸数寄屋邸に居し、同六年三田邸に移り縫殿、天保十一年六月三十日襲封、豊後二郡預りも旧に同じ。弘化二年(1845)開国勧告のオランダ本国船の警備以降、米・仏・英船の長崎来航があいつぎ、警備多端のうちに弘化四年(1847)四月十六日江戸に死、在位は七年に過ぎず、二十四歳で子がなかったので弟の岩松丸(忠精)を養子として跡をつがせた。隆克院深殿迫寛源弘大居士。
10、『忠精(タダキヨ・匡公)』又八郎 主殿頭
 天保三年(1832)六月十七日島原生、実は忠侯の第四子、弘化四年四月兄忠誠の喪を秘して養子となり二十九日発喪、六月二十二日襲封、豊後領預かりなど旧に同じ。嘉永元年(1848)十二月十六日主殿頭。治世は千々石の小作騒動の鎮圧にはじまり、ペリー渡来、プチャーチンの長崎来航、ついに開国・開港と、国論二分の激動の中で安政六年(1859)六月二十八日島原で死、二十八歳、慈篤院殿大機源昌大居士。
 なお継室正子は伊予宇和島藩主伊達宗紀の六女で、三の丸内御茶屋の「常盤御殿」に住まっていた。これが維新後三の丸解体時に本光寺に移築され、同寺「御成の間」と廊下で連結して枯れ山水を配し、正子は明治四年に亡くなるまでしばしば参詣したという。
本光寺現存の「常盤御殿」は、近世島原城の数少ない遺構の一つである。
11、『忠淳(タダアツ・紹公)』主馬 主殿頭
 宇和島藩主伊達宗紀の三男、天保十二年(1841)宇和島生、忠精の急養子となり、安政六年十二月十八日襲封、同二十八日主殿頭、豊後の託地も旧のごとくであったが、在位半年、初入部もしないまま万延元年(1860)六月二日卒、十九歳、顕徳院殿鳳林源寿大居士。
12、『忠愛(タダチカ・哀公)』主殿頭
 忠馮の孫に当たり、支族松平忠貫の弟で弘化二年(1845)八月一五日水道橋屋敷に生まれる。忠精の娘を室として忠純の養子になり、万延元年九月一八日襲封、主殿頭、翌文久元年(1861)三月に入国したが、在位わずか二年、文久二年七月二十一日江戸にて死、二十歳、敬雲院殿光潤源温大居士。
13、『忠和(タダカズ・今公)』主殿頭
 実は水戸徳川斉昭の十六男である余六麻呂。忠愛の死後喪を秘しての急養子で嘉永四年(1851)生れ、文久二年(1862)十月十六日十二歳で襲封、豊後託地など旧に同じ。入国時の慣例を変えて肥後大洲より直接島原大湊に上陛し入城した。安政大獄、桜田門外の変、下関事件、長州戦争、大政奉還と多難な時期で、将軍慶喜の実弟である幼君を擁して、藩政は家老板倉勝直・松平広業が主導した。しかし、丸山作楽ら激烈組の尊攘活動も盛んで、奥羽戦争に出兵。
 明治二年忠和は版籍を奉還し、鳥原藩知事となり、その下に大小参事(板倉勝直は松平家の家令となる)・治市・司農などの九局および議事局が置かれた。家臣団の給与を原禄の十分の一とする職俸制をしき、同年十月宗廟の祭祀を神道に改め、藩主一族の墓所である浄林寺・深溝本光寺および本光寺(寺禄百石)を廃した。しかし、本光寺は直ちに寺の存統を請願して、浄林寺の跡地に復活し(松平家より陸田五反施与)、深溝本光寺の位牌などもこれに移された。なお本光寺跡には学校文武館が置かれた。同四年七月二十日廃藩置県により藩知事を免ぜられ、大正六年六月八日東京にて卒去、六十七歳。

f)古書等の伝来
 前近代における松平家と本光寺の関係から、本光寺史料の本来的な文書系統は、本光寺固有の文書、松平家および島原藩関係文書、その他の三者から成る筈である。しかし、明治以来三者は混同され、今これらを厳密に識別することは困難であるので、本調査においては可能なかぎりの区分にとどめた。
すなわち、廃藩置県後旧藩主一族の東京移住にともない、島原現地(甲第)での松平家家産管理機関として「甲第事務所」が三の丸跡(のち桜馬場に移転)に設けられ、主として農地管理にあたったが、別に金融機関として「数寄屋銀行」がつくられ、旧藩関係資料もこの両者の倉庫などに保管された。これらで作成された新たな記録類を含め、その後数寄屋銀行の解体、戦後農地解放による甲第事務所の閉鎖と、これにいたる長い期間に漸次散逸し、反古として処分され、古書肆に流れたものも少なくない。本光寺固有の文書等は別として、藩関係文書は主に戦前来の贈与および住職片山氏の購入分(田島文書など)、家臣団資料や版本類には転居等に際し菩提寺である同寺に寄贈されたものも多い。藩政時代の所蔵漢籍・和書・絵図目録としては、「箱入御書籍題帳」、「御旧記諸図面題帳」、(仮)「書籍目録」があり、伝来を知る鍵となろう。

【1】中世・近世史料:松平氏島原入部以前 (黒川直則)

a)中世史料
 現在、本光寺に伝来する中世史料はその伝来の違いにより、田島文書と本光寺文書に分けられる。田島文書は深溝松平氏の家臣であった田島家に伝来したものである。少なくとも昭和八年までは、その後嗣田島丑十郎氏の所蔵であったことが東京帝國大学文学部史料編纂所の史料借用書によって確認されるが、その後、本光寺の所蔵に帰したものと考えられる。
 この田島文書については、既に昭和八年に足立鍬太郎氏の「島原田島家文書について」(『歴史地理』57巻第1・3号)において、全文を紹介した上、詳しい解説が加えられているので、ここでは説明を省略する。尚、新田島文書は、その後に田島家から新しく発見されたと云われているため一括掲載したが、内容は島原藩士田島氏に関するものである。
 本光寺文書とされる三十二点についても本光寺に直接関係するのは二点のみである。松平好景・連忠の連署による田地寄進状と今川義元の所領安堵状である。内容は、旧領の承認のほか徳政免許と不入を認めたものである。他は、家忠時代のもの十二点、忠利時代のもの六点、忠房時代のもの十二点である。内容は、進物に対する礼状である徳川家康御内書三点を除くと、知行の安堵や知行目録がほとんどである。

b)近世史料
 ここでは、深溝松平氏の島原入封以前の近世文書をまとめたが、その中から新院御所造営関係のものは、区別して別に一括した。
 慶安二・三年の文書はすぺて松平忠房の福知山入城に関するものである。五号 文書は入城の直後に奉行小川藤左衛門・彦坂平九郎から受け取った改帳である。 二十二号の郷村帳は、この改帳に基づいて所領の確認をした上で、寛文四年になっ て知行高確認のために幕府に提出したものである。寛文六年の文書は、すべて宮 津藩主京極高国の改易にともない、宮津城の受け取りを命じられたときのもので ある。他の大部分は、福知山城に修復に関する文書である。
 これまで、江戸時代の御所造営に関する研究は専ら京都御大工頭の中井家文書 に頼ってきた。ここに百七十五点にのぽる御所造営の史料が発見された意義は大き い。寛文三年正月二六日、後西天皇の退位によって、新院御所が必要となった。 この新院と女院御所の造営にあたり、福知山藩主であった松平忠房が、その「手伝(助役)」を命じられ京都において指揮にあたったために、関連史料が残されたのである。
ここに残されている老中奉書はすぺて工事の状況報告に対する返事と工事完成後の褒賞に関するものでありこれらを通じて従来知られていなかった造営の進捗状況が明らかになる。また請取や皆済手形には多様な業種の手工業者の屋号や組織の名前が見られることから近世初頭の京都の商工業に関する希有な史料といえる。それらの中には、日傭請負人・日傭頭・車年寄など労働編成に関する史料も残されている。

【2】近世・近代の文書記録 (中村 質)

 松平氏の島原入部(寛文九年、1669)以降の近世史料(但し明治四年の廃藩まで)およびその後の近代の記録類について概観する。
ロまず、松平氏入部以前の島原藩、つまり前藩主高力氏、その前の松倉氏やさらにその前の有馬氏関係史料は絶無といえる。しいて関連づければ、島原藩領化する以前正保・寛文初年の豊前「宇佐神宮」関係文書数点、「地図絵図の部」古城図・合戦図所収の島原の乱に関する原城関係図(但し模写・原図の作成も寛文以降か)数点にすぎない。
ワ入部以降の近世および近代の地図絵図を除く文書記録類は、整理番号の総数五千五百八十点で、枝番号を一点と数えれば七千点以上となる。しかし、このうち後述松平家伝世近代文書、および文字どおりの断簡や表紙だけといったものは割愛し、本書には次の約千八百点(枝番号は数えない)を収録している。
 @松平島原藩関係史料千二百八十点は、叙任・番役・預り領支配などに関する老中連署奉書ほか幕府の令達類、歴代将軍の御内書(進物の謝辞類)などの幕府関係文書が最も多く(約六百八十点)、譜代大名らしい史料の残存形態が示される。次いで藩主家譜類・領知・在方町方を含む藩政史料(約五百点)、家臣団関係(約百)、長崎・対外関係(約五十点)の順である。藩日記をはじめ藩庁記録が、ほかに松平文庫・猛島神社などに分散しているため、体系的ではないが、豊後飛地や預り所支配、長崎警衛などに関する重要な情報を提供し、分量は多くないが災害関係の「寛政四年大地震図」・(普賢岳新焼之図)・「嶋原山焼山水高波一件」などは今日的な新史料として注目される。
 A本光寺関係史料は、廃藩以前の約百点と、その後の約九百点からなるが、前者は廃仏毀釈に伴う廃寺と存続運動(移転復活)、後者では近代社会における宗教活動と寺院経営資料が注目される。  B諸家文書の大岡家は、本知百石の中級家臣で、享保以降の知行宛行や由緒書類。山崎家文書・片田吉喬家文書は幕末以降、主に明治期の小作・金融・家族の起居など。以上いずれも近世史料としての整理番号を付す。藤本家文書は、明治、昭和期の九州各県の地方官吏としての藤本氏の書翰・記録類で、近代史料としての整理番号である。 ン松平家伝世近代文書(本目録では割愛)  現在本光寺に伝来する松平家伝世近代文書(総数約三百点)の特徴は、松平家関係・甲第事務所関係・数寄屋銀行関係文書が混在していることである。もとより、これらは元々一つのものから分化したものであり、明治中期までは明確に区別して分類することはできない。 その後、組織・職務が分化するが、これらの文書群は近世的大名家政から近代的な会社組織への移行・発展形態と、最終的には農地解放までの経営を示す好史料である。特に甲第事務所関係文書(小作関係二百六十八点、書類二百十五点、書翰類百四十九点、領収書類四十三点)は比較的残りがよく、その他関連の勘定帳・出納簿(二百二点)・土地台帳&地価帳(九十四点)、土地売買(七十八点)小作関係(四十四点)や断片的な株式投資史料などにより、地主経営を基盤に産業資本家になっていく 華族資本の展開がうかがわれる。ただ、その一翼を担った数寄屋銀行についての明確な史料は、書翰(四十八点)小作関係(9)のみで、今後経営史料の発見が望まれる。 その他特記すべきは、家訓などを含む家政改革史料(六十一点)で、明治二十二年前後の親戚筋(伊達・池田等)や家臣団まで巻き込んだ松平家の家政改革は、正に近世遺制的形態の払拭を意味しよう。

【3】書跡・典籍 (菊竹淳一)

 書蹟・典籍部門では、深溝松平家の菩提寺である本光寺の歴史を反映して、松平家の藩主や曹洞宗関係の高僧の遺品に注目すべきものがみられる。
 藩主の墨蹟は、江戸時代後期の松平忠侯、松平忠誠、そして、肥前島原藩最後の藩主松平忠和のものである。いずれも藩主らしい悠然とした書風を誇っているが、文政九年(1826)銘の松平忠侯による詠歌心得は、忠侯の広い教養の一端を示したものであろう。また、松平忠誠の墨蹟には、忠誠が七歳のときに「鶴亀」と書いた幼少の墨蹟が含まれていて興味深い。忠誠は、天保十一年(1840)に忠侯を継いで藩主となり、弘化四年(1847)に二十四歳で死去しているところから、自らの短い生涯を予知して、延寿を願う「鶴亀」の二字を七歳のときにしたためたのであろうか。文久二年(1862)に最後の藩主となった松平忠和の墨蹟には、明治四十五年(1912)の揮毫まで含まれている。
 高僧の墨蹟として注目されるのは、黄檗二代住持となった中国からの渡来僧で、隠元・即非とともに黄檗三筆と称された木庵(1611~1684)の一行書をはじめ、大分県日田の恵念寺の僧であり文人画家として活躍した平野五岳(1809~1893)の二行書、あるいは、永平寺の悟由禅師や黙仙禅師、そして、蘇山禅師、俊龍禅師、大亀和尚など多彩なものがある。
 在家の墨蹟には、五・一五事件で殺害された政党政治家犬養毅(1855~1932)、文展の初期に活躍した洋画家で書家としても著名な中村不折(1866~1943)の遺墨が含まれている。
 典籍は、写本と版本に区別できるが、写本としては、天保七年(1836)、天保十一年(1840)、安政六年(1859)の銘をもつ三点の羅漢講式がある。羅漢講式は、羅漢供養式のことで、十六羅漢およびその眷属等を讃嘆供養する儀式の次第や方法を順次に記したもので曹洞宗でさかんにとりいれられた。
 版本は、寛永十七年(1640)に二条通観音町風月宗智が刊行した大惠法語が古く、ついで寛永十九年(1642)に二条玉屋町村上平楽寺刊行の大慧普覚禅師書があり、いずれも十七世紀中期以降、慶応四年(1868)に橋本寛斉刊行の英国歩兵操則図抄におよぶ多種多様なものである。
 本光寺の墨蹟・典籍は、決して大量ではないが、多様である。それは、藩主から藩士まで、高僧から在家の人々まで、さまざまな階層と経歴の人物によって遺された墨蹟によって知られる。典籍も同様で、仏典、漢籍、名臣言行録などは、ふつうの寺院にもみられるところだが、本光寺の場合、英国歩兵操則図抄や英国歩兵操練図解といった兵書を含んだところが特異である。

【4】地図・絵図 (川村博忠)

a)島原市本光寺蔵「混一彊理歴代国都地図」の内容と地図学史的意義
 ^成立と内容の概観
 古地図・絵図コーナーで示したように、図面の上端いっぱいに象書で大きく「混一彊理歴代国都地図」と題目が横書きされている。その下に縦書きで中国歴代帝王の国都および元代の行省府所在地が列記されている。図面の下端には、この地図の成立の経緯を記した権近の跋文がある。それによると、本図は中国で作成された李沢民の「声教広被図」と中国歴代国都の変遷を示した清濬の「混一彊理図」の両図を合せて一図とし、それにさらに朝鮮と日本を描き加えて建文四年(1402)に完成したものであるという。李朝の重臣である「上洛金公」(金士衡)と「丹陽李公」(李茂)の命によって中国から将来のこの二種類の地図を合成したのは李薈であって、それに朝鮮と日本とを増補したのが権近ということになる。
 本図と同系統の図は他に龍谷大学図書館、天理図書館および熊本市の本妙寺にも伝存している。本光寺所蔵図はこれら三図と比較すると、図幅がもっとも大きく彩色が最もあざやかである。地図に描かれる範囲はいずれも同じで、図面の中央に中国を大きくすえ、東端は朝鮮・日本、西は西アジアを経て疎略ながらヨーロッパとアフリカまでを含めている。インドシナは半島状を呈せず、大きく団塊状にて南方へ張り出した中国大陸の外辺に表されるに過ぎない。さらに、インドはその位置と形状が全く狂っており、ベンガル湾とアラビア海を合一したとみられる大きな湾の湾奥におき、チベットと西アジアに挟まれた小さな存在となっている。
 ユーラシア大陸の北辺はアムール川(黒竜江)が長く横たわって東流し、それ以北はあいまいな描写となって陸地を限る海岸線の記入はない。この点天理図書館本と本妙寺本は大陸の北方を海洋として描いている。アラビア半島とアフリカ大陸の形状は一応判然とするものの、中国大陸に較べると余りにも小さく、アフリカ南端は中国大陸南端よりはるか北方に位置していて、実際とは大きく相違している。逆に東の朝鮮半島・日本・琉球は過大視されていて、とくに朝鮮半島はアフリカ大陸と同じくらいの大きさに描かれている。アジア・アフリカの南方海中に多くの小島が点在するのも特徴的である。小島は島の輸郭をもって図示するのではなく、楕円形をもってその中に島名を記すだけの記号化した表現をとっている。地中海は水面の範囲が明確には示されず、アフリカとヨーロッパの区分も不明確となっている。
 ともあれ、本図は古く一五世紀初頭当時のアジアで認識されていた世界の全域(旧大陸)を描く朝鮮製最古の本格的な世界地図である。中国と朝鮮半島の図形は概して正しく、河川や内陸水系の分脈についてはとくに詳細である。山岳などを含めて地形的内容を盛り込み、地名もきわめて豊富に記入されている。中国での地名は元代の地方行攻区を基調にして、図中には堯・舜・禹三帝の古都をはじめ歴代帝都の所在地をはじめとする歴史地名が合わせて示されている。そのため本図は正確には中国の歴史地図的な内容を含んだ世界地図ということになる。
 _様式と内容の特徴
(仕様)紙製、彩色手書きの一鋪図で、図幅は縦219、0、横276、8センチメートル。用紙(縦37、横133cm)を縦六枚、横三枚の計一八枚を張り合わせて一鋪として、厚い裏張りが施してある。縦横を各八折りに畳み込んでいて、折幅は縦28、0、横35、0センチメートル。保存状況は良好とは言えず、図紙が全体的に脆くなっていて、折り目部分にての摩耗や破れ、絵典の剥落や変色が目立っており、特に右下部での損傷がひどい。
(彩色・描写)彩色には赤・茶・黄・緑・紺の五色を用い、内陛の湖沼と河川は濃紺、海は薄紺色にて中国や朝鮮の古地図によくある波縞模様が薄く描かれている。文字は墨書。地形は朝鮮半島の長白(チャンペク)・太白(テペク)・小白(ソペク)山脈が連統的な様態に描出されていて目立っている。この山脈の表現法は「朝鮮八道統合図」や「海島輿地図」など李朝時代の朝鮮全図によく見られる描法に共通している。水系も支脈までが詳しく描かれていて分水界が明瞭になっている。中国でも水系は朝鮮半島と同様に見事なまでに詳細に描きだされている。ただ、山岳については秦嶺(チンリン)山脈などがやや連統して描かれてはいるものの、そのほかの多くの山々は孤立的な山容に描かれている。
(地名)地名はかなり詳しく分類されていて、それを丸や方形など各種の枠で囲んで区別している。当代地名および歴史地名のうち重要なものほど目立つように大きな枠付けと着色が施されている。
(地図内容)地図面を大きく東部・中部・西部の三部分に分けて、各部分に含まれる範囲の記載内容を概観する。
〔東部〕アジア東部、つまりシベリア沿海地方・朝鮮半島・日本・琉球などが含まれる。図面の上部、ユーラシア大陸の北端部は圧縮して描き、北極海に面した海岸線は示されず、陸地の限界はあいまいにされている。朝鮮半島の形態はきわめてすぐれている。強いて難点を指摘すれば、半島北西部、現在の北朝鮮の黄海南道での黄海へ向けての陸地の突出が実際よりもやや控えめである。既述のように半島を縦断する山脈の連続的な斜景描写と樹枝伏に発達した水系の描写が印象的である。地名の記載も多く、弘中芳男氏(1989)によると、欠損の物31を加えると全部で447に及び、そのうち国都の漢城(現在のソウル)を、城壁都市を表すとみられる歯車型の枠で囲んで「朝鮮」と記すのをはじめ府・牧・都護府など主要地名19個に短冊形の囲い枠が設けられている。東海(日本海)の沿岸には海岸に平行して多くの小判形の枠に囲んだ地名が記されていて、一見多くの小島の存在を思わせるが、これは沿岸に点在する浦々の名称を示す物である。
 朝鮮半島については詳細な地理的情報が含まれているのに対して、日本はきわめて簡略である。いわゆる稚拙な「行基図」形態であって、山城に赤色の大型の二重輪をもうけて「日本」と記入して国都の位置を示し、あとは六八カ国を国別に区画して国名を記入するだけである。国名以外での記載は陸奥国に「夷地」「鎮守府」および「白河関」とあるだけで、その他には四国南方の海中に「避秦人徐福祠」の記載がみられる。
 日本図のうち九州と四国の南半分が損傷していて全体の形がよく分からないものの、本州では東北地方が圧縮され常陸から下総・上総・安房国のある房総半島の長い突出と志摩国が離島ではなく志摩半島に位置づけられているなど、概して『拾芥抄』版本の日本図に似ている。ただ行基図には通常見られない琵琶湖から大阪湾へ流れ下る淀川の川筋がはっきりと描かれているのが注目される。
 日本の西南海中には「羅刹国」、北東海中には「雁道」があって、中世期の日本 図にあらわれるこの伝説の両島が描かれている。また、北方海中には「見付嶋」、東方海中には「扶桑」、南方海中には「女国」「方丈山」「祖州」「蓬莱山」「毛人国」があり、羅刹国の南には「尼渠」「大漠」「黒歯」「勃海」「大身」「勃楚」「支」「三仏斉」がひとかたまりとなって描かれている。中国の東海にある仙境とされる扶桑・方丈などが描かれていて、蓬莱山、徐福の記載とともに中国の神仙思想の影響が感じられる。
 図中の琉球は島の中央に「琉球国都」さらに北方には「国頭城」があって、ともに朝鮮の国都と同じく城壁都市を思わせる大型歯車の枠をもって示している。島内には山々が描写され、入江の出入りも詳しく、いくつもの城名や浦名があり、国都の周りには方位も記されている。琉球は日本に鮫べると地図としての内容がはるかに充実したものである。ここに描かれる琉球の図形および記載内容は、李朝の成宗二(1471)に申叔舟が編纂した『海東諸国紀』に載る「琉球国之図」に共通していて注目される。ただし、同書には日本本国および壱岐・対馬両島の地図をも収載しているが、本光寺本では琉球を除いてそれが採用されていない。なかでも『海東諸国紀』の壱岐と対馬の図はかなり詳細なものであるが、本光寺本では両島については単に島の輪郭を描いて島名を記すだけの簡略な扱いとなっている。
(中央部)図面の中央部はほぽモンゴルと巨大な中国が占めていて、南方にわずかに東南アジア地方が描かれている。中国南東部に雷州半島と海峡を挟んで位置する海南島は一つの島ではなく四つの島の集合する形態で描写されている。海南島には元朝の軍団である乾寧・南安・万安・吉陽の四軍戸のあることが短冊形枠にて示されている。安南国(ベトナム)は海南島の東にある現在のトンキン湾内に丸輪形で示す島嶼群の一つとして図示される。その北の沿岸部に交趾(北部ベトナム)が位置する。中国大陸の南西部は雲南行省で、その外辺を包むように南海に面して暹・羅斛(タイの古王国)・丹馬令(マレー半島東岸の古王国)・緬国(ビルマの古名)など西南諸蛮の存在が示されている。そしてその西方には沱江路・天長路・帰化路など元代安南の地名が記されるなど位置関係はきわめて不正確である。さらに、現在のビルマのプロームに都して唐代には東はカンボジア地方から西は東インドにまで勢力を広げたといわれる古王国の驃国(ピュー国)はベンガル湾とアラビア海を合体したと思われる大きな湾の奥にあって、インドと共にビルマ地方から大きく北に隔たった北方の位置にある。したがって、インドの位置は実際とは著しく異なって中国主要部の西方にあって、湾奥の狭い範囲に限定されている。
(西部)この部分には中央アジア・インド・西アジア・アフリカ・ヨーロッパの広い範囲を含めているが、図面では図形を著しく圧縮して描いている。現代の世界地図でユーラシア大陸を示せば、当然図面の中央部に含まれるはずのインド(天竺)が中央アジアの南に接して図示されている。インド半島の得意な半島状の形態は全くみられず、その位置は「古土蕃地」(チベット)をはさんで中国陜西行省の真西にあって、その配置はきわめて不自然である。
 また、地中海が実際のように広い水面として彩色をもって明碓には描かれておらず、水面か陸地かよく分からないあいまいな描写となっている。ヨーロッパとみなされる地域の図形もイベリア半島の形態がどうにか判別できる程度で全体として不明確である。また、アルプス山脈とみられる山々の描写が認められるが、ヨーロッパの地名記載はきわめて少ない。西部の範囲内において枠付のある重要地名は中央アジアの「別失八里」(ビシバリク)、久六湾(カスピ海)西岸に位置する「八不魯阿不称」およびウクライナあたりにおかれた「昔克那」である。前二者は二重丸の枠であるが、最後者は城郭を示す歯車型の枠に囲まれている。
 アフリカとアラビア半島の形態は比較的実際と似通っている。ただ、アフリカ中央部に巨大な内陸湖が描かれていて、その真ん中に島の形にて「黄沙」と記したのはサハラ砂漠を示すものであろうか。また、アフリカ南部から大陸の東側をナイル河とみられる長流があって紅海に流入している。大湖から地中海へ流れでるいくつもの河筋の集まる河口部デルタの先には多宝塔の形をした建造物が描かれていて、古くから知られたアレクサンドリアの灯台を図示したものであろう。
 `諸本の内容比較と成立期
 本光寺蔵「混一彊理歴代国都地図」(本光寺本とよぶ)の類似図としては既述のように竜谷大学図書館蔵「混一彊理歴伐国都之図」(竜谷大本とよぶ)、天理図書館蔵「大明国図」(天理本とよぶ)および熊本市本妙寺蔵「大明国地図」(本妙寺本とよぶ)の現存が知られている。そのうちとくに竜谷大本については、早くから小川琢治氏(1928)によってその歴史的価値が紹介され、他の二本をも加えて幾人かの先学によって内容が検討されてきた。したがってここでは、既往の研究成果に依り、新しく出現した本光寺本を既存の類似本三点と比較して、その特徴を明らかにしておく。  全体的な絵図様式と内容が本光寺本に似ているのは竜谷大本である。この両図は題目が「地図」と「之図」と一字の違いはあるものの、題目とその下に掲載する中国歴代の国都と元代行省都の記載、および図面の下端に権近の跋文があることのほか鮮やかに着色の施されている点でも共通している。ただし竜谷大本の彩色は地名枠の赤、内陸水系の青、波縞模様を描く海洋の緑などを除くと褪色が著しくて、本光寺本ほど鮮やかではない。それに対して天理本と本妙寺本の二図には題目をはじめとする端書はいっさいなく着色も共に淡彩色である。既に海野一隆氏(1958)によって指摘されているように、後二者は地図の素材が紙であるか絹布であるかの相違はあるものの図形・内容のほぽ等しい同一系統図であって、前二者とは内容的に多くの改変点がみられる。
 前二者は中国の南京を「皇都」、北京を「燕都」とするのに、後二者では共に「南京」「北京」としている。明は最初応天府(南京)に都を置いたが、1421年(永楽19)に順天府(北京)に遷都し、北京の呼称はこのときに始まり、南京の呼称が始まったのは1441年(正統6)以降のようである。そのほか前二者では中国において元朝の地方行政制度にて採用された行省と州の中間に位置する「路」が記されるなど元朝の地名を基調としているのに対して、後二者では明らかに明朝の地方行政制度に基づいた地名に改訂されている。
 そのほか後二者に認められる顕著な改訂点は、@ユーラシア大陸の北端に海岸線を引き、その北方に海洋を描いた、A南方海中に図示する小島の数が目立って多い、 B黄河の源流を大きく描き変えている、C日本・琉球及びその周辺を描き変えていることである。前二者においては黄河の源流は、万里の長城の終わる「臨挑府」の西方で青海(ココノール)に近い「古崑崙国」の山にあるように描き、「積石山河源」の古説を注記している。神仙説によると、中国では崑崙山を黄河の水源と考えていて、世界の東方と西方に神仙の住む極楽世界が存在して、西方の楽土に崑崙山が当てられており、東方の芙蓉国と対比させていた。後二者では黄河の上流を大きく南下させて、その源流を「崑崙山」とともに四川省の西方に移動させている。ただし、中国北辺に特徴的に描かれる万里の長城については、諸本いずれもが西端を臨挑とした秦の始皇帝時代以来のものを示している。蘭州から嘉峪関に至る甘粛省を走る長城は明の中葉、世宗の頃(1522~1566)に築造されたものとされるが、その部分については何れの図にも描かれていない。
 本光寺本と竜谷大本とは同一系統図であり、中国とそれ以西では基本的には同一内容であるものの朝鮮の地名に若干の改訂がなされており、日本と琉球の図形には著しい違いがあるほか南海に図示される島嶼の島数においても相違が認められ、両者の内容比較が重要となる。両図に記載される400を越す朝鮮国内の地名を逐一比較照合した弘中芳男氏(1989)の作業結果では竜谷大本にあって本光寺本にない地名は13、逆に本光寺本にあって竜谷大本にない地名は33に及んでいるといい、朝鮮では地名改訂の行われていることを示している。両者のとくに顕著な相違点は日本と琉球およびその周辺の図示である。竜谷大本では日本が九十度横転していて、九州を北に津軽半島を南にした日本列島のその特異な配置が従来注目されてきた。しかし、新しく出現した本光寺本では日本が正常に配置されている。また、日本については図中の配置方向ばかりでなく、日本図の種類そのものが問題である。
 既述のように、本光寺本のそれは『拾芥抄』の日本図に似ていて、行基図タイプとはいえ国土の東北部がかなり起き上がっていて、その図形ならびに大陸との位置的関係は今日の地図に近づいたような印象を与える。それに対して、竜谷大本の日本は房総半島や能登半島が半島状の形態に乏しくて図形に稚拙さを感じる。また瀬戸内海が水面として着色されておらず、四国が本州と陸続きであるかのようにあいまいに図示されている。長門を「良門」と誤記したり、肥前や甲斐を書き落としたりするなど転写の際の不注意も目立つ。さらに、内容的にも諸国の国ごとの区画と国名の記載の他に九州には「博多大」、相模には「鎌鎗」などの地名記載があって室町期の地理的内容を窺知させ、本光寺本の日本図よりも内容的な古さを感じる。
 琉球についても両図は大きく相違している。本光寺本では『海東諸国紀』の「琉 球国之図」に近似するが、竜谷大本では『海東諸国紀』に似るどころか、島の形態を図示するのではなく他の小島と同様に九州と大陸との間の海中に丸輪を設けて、その中に単に「大琉球」「琉球」と記入するだけである。ただ、日本本島の南方海域(竜谷大本では九十度横転しているため一部は西方海域)に存在する扶桑・大身・勃楚・支・三仏斉・黒歯・勃海・尼渠の図示位置はほぽ共通している。また、竜谷大本では西南海中に島嶼が全く描かれていないのに対して、本光寺本では同所に二十個を越す島が描かれていて、その中には「長洲」「大人洲」(炎洲の誤写か)「鳳麟州」などがあって海内十洲への高まりが感じられる。このことは天理大・本妙寺両本においてはさらに発展して西南海中に「聚窟洲」「流洲」、また東南海中に「生洲」「滄浪山」、西方海中に「崑崙山」「崑崙島」を加えている。そのうえユーラシア大陸の北方に描いた海洋中にも二つの大きな島を描き、島名の記載は満たされていないが十洲を四海に配置しようとする神仙的思想がはっきりと窺える。
 天理・本妙寺両本では日本および琉球の図形・記載内容ともに『海東諸国紀』との関連性が強く読み取れる。京都には二重丸の地名枠をもって「日本国都」と記載する。近江の琵琶湖には単に「湖」とだけ注記して、そこから大阪湾へ淀川が流れ出ている描写、「鎌倉殿」と「富士山」を丸輪で囲んで示す位置も『海東諸国紀』の「日本本国之図」および「海東諸国総図」に全く同じである。すなわち、短冊形の枠で囲んだ五畿七道の道名の記載位置、九州には西海道と並んで同じ短冊形枠で「九州」と記していることなど、記載要領は『海東諸国紀』と全く一致している。ただし、天理・本妙寺両本では国界の記入がなされていない。また、日本周辺の島々でも見付島や佐渡島および夷島などが明記されている中で、方丈山・蓬莱山の神仙思想による三神山や羅刹岡・雁道など伝説の島々については、『海東諸国紀』にて図示されるそれぞれの島の位置に島形のみを図示するものの、なぜか島の名称は未記入(天理本では「雁道」については名称を記入)で枠内は空白のままに残されている。
 以上のような内容上の相違から、これら類似本の系譜と成立の前後開係を推定すると、あって、竜谷大本と本光寺本は建文四年原図の内容をよく伝える同じ系譜図で成立は竜谷大本が古い。竜谷大本の成立のあと、とくに日本の配置の誤りに気づき、その後に人手した日本図と琉球図(琉球図は『海東諸国紀』に同じ)によって補正したものであろう。天理・本妙寺両本は竜谷大・本光寺両本と同一の原図から出た異本である。竜谷大・本光寺両本が題目・跋文を備えた図の体裁、元末から明初にかけての中国の地名記載など原図の内容を色濃く伝えるのにたいして、天理・本妙寺両本は朝鮮地名、日本およびその周辺の図形改訂ばかりでなく、中国地名をも明代中期の資料によって改訂している。その結果と図面の上部に掲載した元代行省政府の所在地や下部に記職した跋文が地図の内容にそぐわなくなり、題目をも合わせて図面から払拭されたものと推察される。それによって生じた図面上部の空白部に原図においては図示されなかったアジア大陸北端の海岸線をほぽ直線に近い状態で図示し、北端を縁取ることによって図面の不安定さを補正したのであろう。
 ところで、既に現存が知られていた竜谷大本と天理・本妙寺両本については、これまでにおおよその成立時期が明らかにされている。竜谷大本は、青山定雄(1938)の考証によると、建文四年(1402)の原図成立後少なくとも二回の郡名改正を経て、成宗の初年(1470年前後)頃に成立したものだとされる。他方、天理本については海野一隆氏(1958)の考証によると、一六世紀半ば頃の内容を示しているという。
 本光寺本の具体的な成立年代を究明するには、類似本の場合と同様に地図がつくられた朝鮮本国内の地名を検討するのが一番有効と考えられるが、実際には新設・廃止のあった新旧の地名が併存していて、ある特定の時点に現存していた行政地名を網羅したものではないようである。そのため地名の検討だけではこの地図の成立時期を厳密に特定するのは困難のようである。先学の関連する年代考証を援用して、この本光寺本の成立時期を考えてみると、
 @威鏡道の鴨緑江上流部にて後世に廃四郡と呼ばれるものの内、虞○・閭延・茂昌の三郡に「古」を付けて郡名が記載されている。この三郡は世祖元年(1456)まで置かれたものであって、1456年以降は廃郡となっている。
 A威鏡道の「明川」と「吉州」は竜谷大本になく本光寺本には現れる。『増補文献備考』巻一八(1770成立、1908刊)によると明川ば「中宗七年(1512)入吉州、明年復置」とあり、吉州については「太祖七年(1398)陞州、睿宗元年(1469)降吉城県、中宗七年(1512)復陞」とある。睿宗元年に威鏡道の吉州は吉城県に降格されたが、その際それを分割してできた明川(県)はあるものの、一方、降格された吉城(県)が見あたらず、代わりに吉州の名が見える。このことはいったん降格された吉城が、再び吉州にもどった中宗七年(1512)以降の内容である。この両地名の併記されるのは中宗八年(1513)以降の状況とみなされる。
 B全羅道の光州と忠清道の忠州が記載される。光州は成宗二十年(1489)から燕山君七年(1501)の間、降格されて光山県となっていた。また忠州は明宗四年(1549)から同二十二年(1567)の間、惟新県に降格され、忠清道は清洪道となっていた。したがって、この両期間は地図成立の期間からはずさなければならない。
 C慶尚道の巨済島に水営が記されているが、同島の烏児浦に置かれていた水営は宣祖三十七年(1604)は固城の頭篭浦へ移転し、李朝末期まで変わらなかった。また、同じ慶尚道の昌原にある兵営は万暦癸夘年(1603)に普州轟石山城へ移り、李朝末期まで変わらなかった。さらに蔚山に水営を描くことは、すくなくとも壬辰乱が始まる1592年以前である。【長正統氏(1982)参照】
 以上の四つの条件を満たす期間は1513〜1549年および1567〜1592年ということになり、本光寺本の成立はこのいずれかの期間内であろうとみなされる。
 朝鮮国内に記載されるは府・牧・郡などの行政地名のほかに兵営・水営・行営などの所在が記入されている。天理・本妙寺両本ではこれらの軍事拠点を重視して特に円囲いのうえ着色して示している。軍事拠点の新設・廃止ないしは移動は国家の重要事であろうから、政府による官撰地図においては比較的正確な情報が記されているものと期待できる。
 また、竜谷大本にはなく本光寺本にみえる地名のうち、慶尚道の「熊川」があることも気にかかる。『海東諸国紀』(1471刊)によると、熊川は朝聘応接の役所が置かれた三浦の要地であり、倭館もあって日本人居留地でもあった。成宗五年(1474)の同書増補の際には東莱富山浦および蔚山塩浦と合わせた三浦の図の一つとして「熊川斎浦之図」(斎浦は「乃而浦」の朝鮮音を漢訳したもの)が追補されている。その図によると、同所の湾内に示される小浦名も本光寺本の内容と一致するが、竜谷大本で相違があり、対馬も余りに半島に接近させていて『海東諸国紀』の記載とは大きく隔たっている。同書の刊行・増補と前後して作成されたとみられる竜谷大本において熊川の地名が欠落するのはいかにも不自然であり、今後の検討課題であろう。
 a地図学史的な意義
 従前より現存の知られていた竜谷大本については、記述のように早くから小川琢治氏(1928)によって中国元代地図学の内容を窺知できる朝鮮製地図であるとして、その歴史地理学的価値が紹介され、その後他の類似の二図をも加えて幾人かの先学によって内容が検討されてきた。この本光寺本は、竜谷大本と内容が比較的似ているとはいえ日本・琉球とその周辺では明らかな相違が認められ、また他の二図とは内容上の相違も認められるので、これら類似本相互の詳細な比較検討は重要な課題となる。本図は一五世紀初頭の李朝初期に李薈によって作成された世界図そのものではなく、建文四年(1402)にできた原図からの転写修正図であるが、原図の内容をよく伝える朝鮮最古の現存世界地図として地図学史上の価値についてはいうまでもなかろう。
 本図は中国の伝統的な国土全図と西方を詳しく描いたイスラム製地図、それに 朝鮮八道図の三つが合体してできあがった合成図という性格を有している。一七 世紀になってマテオ・リッチの「坤輿万国全図」が作成されるまではアジアにおいて最も優れた世界図であった。このような貴重な地図が朝鮮に伝わらず、転写図とはいえその系統の図が四点も日本に現存することは漢字文化圏における文化交流史という観点からその意義は大きい。
 小川琢治氏の卓見によって、この種の朝鮮製世界地図が中世イスラム地図の影響を受けていて、それはさらに古代プトレマイオスの地図学を継承したものであることを教えられるが、高橋正氏(1963)は竜谷大本を通して、そのことを具体的に確認している。同氏によって、ナイル川の河源の図示と説明がプトレマイオス地図に対応すること、同川の下流部に記載される1密思」と「阿哈明」がエジプトとパナポリスを意味するアラビア語の音訳であることが解明されている。また、古代ギリシア人にマッシリアと呼ばれていた地中海の港町マルセイユが「麻里昔里那」の漢字地名で示されているなど「混一彊理歴代国都地図」の原図は中国よりもたらされたものであるが、それのインド以西についてはアラビア人の手になる地図に依拠している。本図の左側三分の一の範囲において、中世にイスラム勢力下にあったイベリア半島・北アフリカ・西アジアにおいて地名記載が濃密であることも、それを裏付けている。
 歴代中国王朝のなかで元王朝ほど広大な版図を有した政権はなかった。そのため元代においては西方との経済・文化の交流がきわめて活発であった。そのような環境のもとで元代の地図にイスラム地図の影響がみられるのは当然である。元代の代表的な地図である朱思本の『輿地図』を明代に増補改訂した羅洪先の地図帳『広輿図』に収載する「西南海夷図」には、南海の島嶼に加えてアフリカ大陸の南端部分のみが描かれているが、それは混一彊理系地図の原図の一つである李沢民の「声教広被図」から抜き出されたものであり、本光寺本のその部分の図形と共通するのは当然と言える。  なお、竜谷大本における日本・琉球については、青山定雄氏(1939)が『李朝実録』にみえる日本への使節朴敦之が大内氏家臣より得て持ち帰った日本図との関連を推定されている。しかし、海野一隆氏(1981)は年代的にみると、その可能性はあるとしても、同実録の「頗ル詳備」「細密ニシテ未ダ観覧シ易カラズ」の記事からすると、それは余りにも簡略にすぎるとして疑問を示されている。新しく出現した本光寺本においても日本の図形、内容にはさして著しい進展は認められないので、この点については今後の検討課題でもあろう。朝鮮から日本への中継地として関係の深かった対馬と壱岐の表現が、いずれの図においても不完全で進展が少ない理由も説明が必要であろう。
 また、竜谷大本については、その図中に描かれた日本列島が南北方向の特異な表現となっていることから、魏志倭人伝の邪馬台国所在の記述に関連して古代中国人の日本方位観の論拠として関心が寄せられてきた。しかし、天理・本妙寺両本では日本が正常に近い方向に配置されており、さらに新しく出現した本光寺本でも日本の配置は正常であるので、竜谷大本のみが持つ特異性に他ならないことは一層明白になったと云えるであろう。

b)大絵図 (川村博忠)
 幅員の大きい大絵図には世界図、日本総図、地域図、国絵図、船路之図などが含まれている。朝鮮李朝期に作成された世界図「混一疆理歴代国都地図」は現在ではわが国にのみ、その転写図数点が伝存しているだけである。この図は特筆すべき奇覯本であるのでこれだけをとりあげて前述した。
 そのほかに大絵図の中で特に注目されるものは江戸初期に作成された「日本大絵図」と「九州全図」である。前者は江戸幕府が諸国から集めた慶長国絵図を基に編纂した日本総図の写と推定される。日本全体を@九州・四国・中国、A近畿・中部・関東、B東北に三分割して仕立てられている。三枚を組み合わせた全体の大きさは、横幅が10メートル近くにもなる荘重な大型極彩色絵図であるが、残念なことに本光寺蔵図では東北を描いた一枚が欠けている。国々を国界線で明瞭に区画して国単位で色別しており、城所、城祉、宿駅、湊などを区別して示し、そのほかの地名も豊富に記載している。湖沼・河川水系を詳細に描写するのが特徴的である。城所ではとくに江戸・駿府・京都・大坂を他と区別して別格の扱いで図示している点も注目されよう。  本図と同種の日本総図は佐賀県立図書館の蓮池文庫蔵のものが知られており、その他にも山口県文書館の毛利家文庫蔵のものと福井県大野市の個人蔵(本来は水戸家所蔵のものであったと考えられる)のものなど、本光寺蔵図を含め全部で四点の現存が確認される。江戸幕府編纂の日本総図が大名間で複写され所持されてきたものであろう。
 「九州全図」は「日本大絵図」の九州部分を写して領分の区別を示し、付紙にそれぞれの領主名を列記したものである。肥後天草の富岡城主に「山崎甲斐守」が記されており、甲斐守は山崎家治のことである。家治は島原の乱直後の大名異動によって備中の成羽より富岡に転封したもので、同人の富岡城主としての在任は寛永十五年(1638)から廃藩の同十八年(1641)までのわずか三年間であることから、本図の作成時期はこの三年間に限定できる。すると、問題の「日本大絵図」は少なくともこの「九州全図」の作成された最下限の寛永十八年以前にすでに存在していたことが裏付けられるので、「日本大絵図」が慶長日本総図である可能性は高まることにもなろう。ただ、このような九州全体を一枚に描いた地域図が寛永十五から十八年に、どのような目的で作成されたのかは定かでない。

c)その他の地図・絵図 (中村 質)
 本光寺所蔵歴史資料の大きな特色の一つは、地図絵図類の豊富さであろう。前記の世界図をはじめとする大絵図類が約三十点、松平氏の島原入部以前の関係図が約三十点、寛文九年(1669)入部後のいわゆる島原藩関係図が約三百点にのぽる。
 入部以前の関係図のうち注目されるのは、まず「京屋敷絵図」などで、年次の記載はないが島原入部以前からの屋敷図と考えられ、京都の初期貼絵図として貴重である。詳細な大絵図「丹波福知山城屋敷割図」(1357)をはじめ、福知山城図二点、三河刈谷領関係図九点、丹後宮津城図二点なども、所収文書と関連して豊富な情報を提供する。
 入部以降の約三百点は、沒原城図ないしこれを含む城下の図約五十点、高来郡・各村絵図など島原領内図約三十点、。飛び地の豊後領や宇都宮時代の所領関係図と幕府特命の長崎勤番関係で約四十点、「建築指図類約六十点、」三都などの都市図や名所図が三十点、、歴代の古城図・合戦図約六十五点、・その他(雑)約三十点、に大分される。
 汾ョ理番号788(寛文十二年)および790の島原城図は、入部後に石垣などの修復を幕府に願い出た一件資料の控えで、入部以前つまり前主高力氏時代末期の形状が知られる貴重な美図で軸装。その後も幕府まで修復願いに伴う詳細な絵図が多い。家臣団の屋敷割を含む城下町の大絵図数種(淡彩美図)は折り畳んだまま密着し、虫損や糊の剥離も甚だしく開陳不能であるが、補修すれば多大な情報が得られよう。幕末の軍事編成は屏風仕立ての八図(767)に詳しい。
 島原地区領域全体の鳥瞰図は、極彩色の「島原領図屏風」(767)があり、これを西部(西目)・北部(北目)・南部(南目)に二分した地域図(各村の村高・集落・地名、道路朱引き)数点、さらに寛政以降と思われる各村の[量地拾間一分之図」(1/6500縮図)数カ村分が伝存する。この村絵図は寺社・集落・高札場・道路・新田などを記した鳥瞰図。なお、「島原大変」関係の二図は、特に文書記録の部「島原藩関係史料」・災害の項に収録している。
 。豊後の飛び地関係は、陣屋が置かれた「豊後高田町絵図」(1917)をはじめ、元禄以降の領分図が数点、いずれも詳細な彩色美図である。このほか豊前・豊後・日向・肥前国に散在する天領預り地については寛政二年の「御料所村々見取絵図」(1912)ほかがある。宇都宮関係は城図五点と所領関係図一点に過ぎない。長崎関係では市街・官衙図のほか、唐船の抜荷・漂着を想定してか「(仮)九州西岸唐船航路図」が注目される。
 「建築指図類は特殊であるので、別に後述する。
 」都市図・名所図では、寛文十年から延宝四年刊の「新板江戸絵図」「新板江戸外絵図」木版切絵図六点、手書きの「江戸絵図」切絵図四枚一組、および明暦三年刊[新板大坂之図」など、いずれも大名屋敷を詳記した初期大絵図が圧巻。なお、江戸初期以来三都に所在した島原藩屋敷については、建築指図の項を参照されたい。
 、古城図・合戦図は、戦国期以来松平氏が何らかの形で関与した古城ないし城下図数点(略図多し)、関ケ原戦図七点、大坂の役関係九点、これに現在所領内の原城の攻囲図(島原の乱)八点が主なものである。
 ただし、以上の地図絵図類すべてが島原藩旧蔵図とは限らず、近年本光寺の蒐集にかかるものも少なくない。

【5】美術工芸資料 (菊竹淳一)

a)絵画
 絵画作品は102件152点に及んでいるが、それらを画題によって大別すれば、仏教絵画と世俗絵画に分けられる。時代的に見ればその何れもが江戸時代以降に制作されたものと考えられる。
 仏教絵画の分野では、曹洞宗寺院にふさわしく、禅宗系統の画題を、墨色と淡彩を主調にして描いた作品が多い。たとえば、三点の出山釈迦如来像は、苦行六年ののち放髪長髭、痩せた体を風にまかせながら、両手を衣の中に入れ、金剛座に赴く姿を表現している。一点の画讃の末尾には、「歳己酉 菊月福 生日 寿山沙門一即非 和南併題」とあり、本図が即非如一(1616~1671)の筆になり、干支から1669年に描かれたことが知られる。粗放な筆致を主体とした釈迦の姿には逸脱の風が感じられる。いま一点は、讃と落款により、讃文を竺雲、画像を雲遊本立が描いたと知られる。残る一点は、無銘である。禅の宗祖達磨を描いた作品は二点あり、ふつうに見られる図像であるが、一点には芳春、他の一点には希章の落款印章をもつ。正法護持のために請ぜられた修行像で、禅系統では修行の階程として重視する十六羅漢図十六点一具は、江戸時代後期の制作と思われるが、図像的には鎌倉時代に描かれた京都・天寧寺の十六羅漢図を模したもので興味ぶかい。
 禅宗六祖の中の二祖の果敢な求道行動を説話的に描いた作例が二点ある。一点は慧可断臂図であり、一点は慧能杵臼図である。禅宗第二祖の慧可(487~593)は、四十歳のとき嵩山少林寺の菩提達磨に教えを請うたが、達磨は面壁するばかりなことから、大雪の夜に雪中に立ち左臂を切断して、求道の切なる思いを示したという。この説話を描いた一点は、慧可が膝まで雪に埋まり、左臂を差し伸ばして右手に握った刃で臂を絶たんとする姿をあらわす。激しい求道精神を示す画題ながら、本図は慧可の容貌が村夫子然と表現されユーモラスな画趣を示す。禅宗第六祖の慧能(638~713)は、五祖弘忍に参じ米搗き小屋で杵臼の労をとること八カ月にして嗣法したという。この慧能杵臼の姿を描いた一点は、法衣を着けた慧能が、両手で杵を執り臼を搗く力仕事の様子を大胆な筆致で表現している。
 原垣山(1819~1892)が晩年に着讃した楊柳観音菩薩坐像は、儀軌にとらわれない自由な形像で、顔面部を細墨線で、体部や衣や楊柳枝を太い墨線で表現し、いかにも禅宗寺院にふさわしい作風の一点となっている。
 禅宗においては、正しく嗣法した証明として、師の肖像画を弟子に授受するが、この肖像画を頂相と呼ぶ。本光寺には四点の頂相が伝存する。神鼎和尚の頂相は、神鼎が袈裟を着け、両手で払子を執り、挂杖を傍らに配した曲録に坐す姿に描くが、顎をひき、やや眼を細めた容貌に特色がある。画面上方に「不軽慢他 不重自刃 生来死去 不得休 神鼎自賛」の讃文をもつが、書体がかなり傾いており、神鼎が死去する直前に着讃した墨蹟の可能性も考えられる。袈裟を着け、右手に払子を握り、挂杖を置いた曲録に坐す老僧を描いた頂相は、祖庭の讃文をもつところから、曹洞宗の祖庭覚云(~1818)の画像と思われる。やや硬い描法ながら、単純な描線による顔の皺の表現に特色がある。祖庭の讃文をもつ担田耕牛像は、寿像の薫損により新しく描かれたことが知られるもので、謹直な賦彩と丁寧な描法を示す作品である。また、萬弘和尚像は、巻留に「本光二十七世当時十世本師 萬弘和尚」と墨書され、本光寺有縁の頂相であることが知られる。
 仏教絵画の伝統的な技法を踏襲した作品としては、二点の釈迦十六善神像がある。江戸時代の製作にふさわしい鮮やかな盛り上げ彩色を駆使した作例である。仏涅槃図は、画面下方に、「文政庚寅仲秋 沙門鳳眠拝画」の落款印章を持ち、文政十三年(1830)に沙門鳳眠なる在地絵師により描かれたことがわかる。会衆の顔貌表現、とりわけ僧形人物の描写に特色があり、長崎在地の絵師の作と思われる。また、文殊菩薩騎獅円鏡図は、画面に「干時天保十二龍舎辛丑年結冬安居之日」の銘文があり、天保十二年(1841)の制作が知られる。
 世俗絵画の分野では、多方面な画題に恵まれている。源氏物語絵屏風六曲一隻は、展風画面を金雲で区切り、そこには源氏物語五十四帖から、紅葉賀、澪標、松風などを選んで描き込んでいる。各場面は、華麗な彩色で表現されているが、登場人物の描写は類型的で、男性の細長い顔やいくぶん大ぶりな所作に、岩佐又兵衛の画風をうかがうことも出来よう。江戸時代中期以降の源氏物語絵屏風の遺品として注目に値しよう。また、雪景花鳥図は、現在、横長い額装仕立てになっているが、当初は六曲の小屏風と思われ、金雲地に切箔を散らし、雪をかぶった松枝に集まる鳥を鮮やかに描いている。
 落款印章をもつ世俗画としては、「法印探幽行年七十一歳筆」とある富士山松鶴図がある。慶賀な画題を安定した構図で描いており、狩野探幽(1602~1674)の富士山図の形式をよく踏襲した作品といえる。さらに、「尚信筆」の落款印章のある龍虎図屏風六曲一双は、滋潤な墨色に狩野尚信(1607~1650)の様式を伝えんとした作品である。鍛冶橋狩野家を興した探幽や木挽町狩野家の基礎を築いた尚信の落款印章をもつ作品は、深溝松平家の菩提寺の格式を示す存在と考えられたのであろう。また、「法眼春卜筆」の落款印章のある三夕図三幅一具は、鎌倉時代初期を代表する僧西行、僧寂蓮、藤原定家の三歌人が、夕景をながめつつ詩想にふける様子を瀟洒な画風で描いている。大岡春卜(1680~1763)は、享保二十年(1735)に法眼位に就いたと考えられるところから、本図は春卜が法眼になったときの制作である。農耕図十二幀一具は、当初六曲一双の屏風装仕立てであったと思われるが、現在では切り離されている。その内容は、一年を通して行われる農作業を四季の景観を織り込んで描いたものである。こうした画題は、江戸時代を通してさかんに制作され、農村生活を知る資料として文化史や農業技術史の上でも重要である。本図は、軽妙な筆致で農村の四季を活写しており、二幀に「松風之処士楊章良画」の落款印章があるが、楊章良なる人物の画歴については詳らかでない。ただ、この画題の作品が中国絵画の影響を受けながら成立した事情を考えると、中国的な画家名を書き入れた可能性もある。中西耕石(1807~1884)の落款印章がある梅月図は、小幅ながら京都の南画を代表する耕石の若年期の作品として興味ぶかい。江戸時代中期の公家で、石倉家七世である岩倉具選(1757~1824)の桃花図は、繊細な筆づかいと書蹟を示しており、具選のすぐれた書画の才能をよく表した作例といえよう。
 武家の肖像画としては源勝像が注目される。源勝は、小刀を腰に差し、右手に扇子を握り、揚げ畳に坐す。細密な描写をみせていて、とくに黒い衣には墨の濃淡による隠し紋様をあらわすなど、武将像にふさわしい技法がうかがえる。画面上方には、「丈夫標致銕心肝 凛々孤風毛骨寒 百石軍中克軽命 功石千古越簫韓籌山源勝禅定門肖像 萬安埜柄賛焉」の讃文がある。源勝の厳しい形姿といい、謹厳な讃文の書体といい、江戸時代の武将肖像画の中でも注目すべき作品である。
 日本の絵画ばかりでなく、朝鮮王朝時代の絵画も存する。一点は、「朝鮮國 玉泉居士」の落款印章のある花鳥図で、花鳥を着色画風にあらわす一方、竹石を墨画風にあらわしており朝鮮王朝中期以降の制作と思われる。いま一点は、興宣大院君李是應(1820~1898)が描いたと伝えられる蘭石図である。朝鮮王朝末期の政治家大院君の作品として、真偽の程を別にしても興味ある存在である。
 本光寺の絵画は、禅系統の画題の作品を根幹にしながら、仏教絵画から世俗絵画に至る、まことに多様性に富んだ作品が認められる。これは、深溝松平家の菩提寺としての矜持と大名家に伝わる世俗画の面白さを物語るものであろう。

b)彫刻
 深溝松平家の菩提寺として長い歴史を誇る瑞雲山本光寺は、松平家の度重なる移封に従って寺地を変えたためか、境内に安置される彫刻の数量は決して多くない。今回の調査で確認されたのは四十件八十三体である。それらは、丈六像のような巨像を含まず、いずれもが等身像以下の比較的小ぶりな作品で占められている。
 本光寺本堂の本尊は、曹洞宗寺院にふさわしく木造釈迦三尊像である。この三尊像のうち釈迦如来像は室町時代中期ごろの制作と思われ、脇侍の文殊菩薩騎獅像と普賢菩薩騎象像は江戸時代の補作と考えられる。釈迦如来像は、通肩に法衣を着け、両手を腹前で禅定印に結び、左足を上にして結跏趺坐する。檜材を使用した寄木造で、玉眼を嵌入し、像の表面は漆箔のうえに切金模様で装飾している。現在、像底部に底板を貼っているため像の構造を詳らかになし難いところもあるが、頭・体部を別材とし、頭部は耳の中央線で前後に矧いで内刳りし、後頭部を中央から左右に割り矧いでいる。体部は前後二材矧ぎで、深く内刳りし、背面材を左右に割り矧ぎ、両肩先に別材を寄せ、膝前部に横一材、裳先に二材を当てる。両手首先は別材でつくり、両袖口に差し込んでいる。こうした木寄法の大略は、日本の仏像彫刻にみられる伝統的な技法であり、さらに、表現において、頬が張り、切れ長の眼、締まった口などが形成する実人的な顔貌、ゆったりと太やかな体躯をつつむ法衣のたっぷりとした衣袖などは、この像が室町時代中期ごろの制作であることを示している。おそらくは、室町時代の本光寺創建期の造像であろう。
 本堂北側の丘陵地帯につくられた石造十六羅漢像は、伝来の明かな作品として貴重である。この十六羅漢像は、岩石を積んで横に長い石窟を形成し、その内部中央の一段高いところに右膝を立て膝頭に右手掌を当て、左腿部に左手掌をのせ、胸前を大きくはだけて太い腹を露出し、大口を開けて笑う布袋像を置き、左右に八羅漢ずつを配する。像はすべて安山岩系の石材から彫出し、本体部は持物を含めて一材から刻み出した一石造で、岩座を別石でつくる。十六羅漢の像容はきまっていないが、この像は中国的な容貌と風体を示しており、結跏趺坐、立膝坐、遊戯坐、善跏趺坐など自由な姿態につくられ、変化に富んでいる。しかし、布袋像を含む十七体は、すべて耳の表現が同巧なところから、同一石工か同一工房により制作されたことが知られる。十六羅漢石窟の傍に建つ「嶋原浄林寺新彫石像阿羅漢碑」の銘文によれば、〃肥前州嶋原城審圓山浄林禅寺現住實山慧梁長老発願令工彫造石像十六尊者 云々〃とあり、末尾に〃維時 元文四年己未十二月初五日 住若州建康山空印禅寺比丘瑞方面山謹撰〃とみえることから、元文四年(1739)に島原の審圓山浄林寺の実山慧梁長老の発願で制作されたことがわかる。この十六羅漢像は、明治二年(1869)の旧藩主松平忠和による浄林寺の廃寺と本光寺の旧浄林寺地への移動命令の際にも、破壊されることなく本光寺境内にのこったものであろう。制作時期や発願者名、そして伝来の明かな江戸時代の石像彫刻として、島原地方における貴重な存在といえる。
 江戸時代の制作を示唆する銘文をともなう彫刻が二点ある。その一点は、木造地蔵菩薩坐像であり、外の一点は、木造大黒天立像である。地蔵菩薩像は、通肩に法衣を着け、現在、持物が欠損しているものの、おそらく右手を胸前にあげて錫杖を握り、左手を掌に宝珠をのせて左腿部に差し伸べていたと思われ、左足を踏みおろして岩上の蓮花に半跏趺坐する。この像容は、ふつう延命地蔵と呼ばれ、日本で偽撰された『延命地蔵経』に説かれたもので、六道をめぐり、安産をはじめとする十の福徳を人々に与えるといわれ、とくに、母子の擁護や延命利生の利益で信仰される。この像は、檜材を使用した寄木造で玉眼を嵌入し、像の全面に漆箔をほどこしているが、漆箔が厚く構造を明らかに出来ない。ただ、踏み下ろした左足の垂裳裏に朱漆銘で「享保十七壬子九月十二日 清山浄智信士 卍禅鏡定明法尼 元文五庚申十一月七日」と記される。この銘文が何を物語ったものか明らかでなく、清山浄智信士と禅鏡定明法尼の男女についても不明であるが、享保十七年(1732)から元文五年(1740)にかけてのころ、十八世紀前期に造像されたことが推測される。下ぶくれの豊かな顔貌や堂々とした体躯の表現などから、技量の確かな京仏師の制作と思われる。大黒天立像は、微笑をうかべた顔面に肩まで垂れた大耳と長髭を加えた福相につくり、頭巾をかぶり、右手に木槌、左手に背負った袋の口を握り、短躯で俵に立つ。この像容は、宝町時代以降、大黒主命の民俗信仰と結合して生まれたものである。檜材を使用した一木造で像表面に鮮やかな彩色をのこしており、小像らしい丁寧な造像を示している。この像は、黒漆塗り厨子に納められているが、厨子の左右扉の内側に縁起が墨書してあり、その冒頭に「慶長十年四月廿八 本所回向院隠居 作者 楽蓮社信誉息 云々」とある。この銘により、本像が慶長十年(1605)ごろ、江戸時代初期の制作になることがわかる。
 制作時期を示す記録などはないものの、伝承等により深い信仰を集めていたと考えられる彫刻が二点ある。その一は木造地蔵菩薩立像であり、その二は木造如意輪観音坐像である。地蔵菩薩像は、法衣の上に袈裟を着け、右手を垂下して錫杖を握り、左手を屈臂して宝珠をとり、左足をやや踏み出して蓮台に立つ。檜材を使用した寄木造で、玉眼を嵌入し、像全体に彩色をほどこしている。彩色が厚いために構造を明らかになし難いが、頭・体部が別材で、挿し首とし、頭部は前後に二材矧ぎとし、体部は肩の線で前後二材矧ざ、両肩先に別材を寄せ、両手首先を袖部に差し込む。頭・体部にはそれぞれ内刳りをほどこしている。この像は通例のものであり、構造も伝統的な技法に従っている。しかし、この像が島原地方において信仰を集めていたことを物語る資料として子育地蔵菩薩版木がある。この版木に刻まれた地蔵菩薩は、懐に幼児をいれて右手で支えるところが木造地蔵菩薩像との大きな相違で、その他は左手の位置や蓮台の形式に若干の変化が存するのみである。版木には、「弘法大師御真作之写子育延命地蔵大菩薩」と銘記されており、おそらく、この木造地蔵立像が子育延命地蔵として信仰され、その子育延命の信仰内容を広く具体的に知らしめることを目的に版木が開版されたものであろう。如意輪観音像はふつう六臂像が多いが、本光寺像は二臂像で、珍しい像容を示している。この像は、上半身裸形で両肩を布で覆い、天衣をまとい、裳を着け、左膝を浮かせて両足裏を合わせた輪王坐形式に坐し、両手で未敷蓮花を握る。檜材を使用した寄木造で、玉眼を嵌入し、漆箔をほどこした上に切金文様で飾る。頭・体部は別材で挿し首とし、頭部が前後二材矧ぎ、体部は体幹部を前後二材矧ぎで両肩先に別材を寄せ、膝前部と裳先に各々横一材を寄せ、両膝奥に三角材を当てる。頭部と体部はふかい内刳りを丁寧におこない、内部全面に黒を塗っている。結髪部から地髪部に至る細かな毛筋表現、品格のある容貌や、いくぶん太い体躯と明瞭な衣褶表現など、この像が技量の高い京仏師の造像になることを示している。この像は、黒漆塗り厨子に納められ、厨子の正面に銅製種字〃サ〃をあしらう。像と厨子は、ともに江戸時代初期の制作であろう。本光寺の伝承によれば、この像は、織田信長の比叡山焼討ちに参陣していた明智一族の武将が火中より救出し、自らは火傷絶命したという。この伝承の正否は確認できないものの、そうした逸話にふさわしい優品といえよう。
 本光寺には、伝来が明かでないものの、いくつかの注目すべき彫刻がある。木造菩薩形立像は、像高16.2センチの小像で損傷が著しく、顔貌など明確でないが、榧の一材から丸彫りに刻み出しており、平安時代後期の制作であろう。木造如来形像は、像高20.2センチの小像で、両肩先や腹部から下が失われているが、きりっとした顔貌や抑揚のきいた胸部、鋭い衣褶線などを檜材で丸彫りに近く彫成しており、鎌倉時代中期頃の制作と思われる。また、桜材から彫成した如来形立像は、両手先が欠失し尊名不詳ながら、鋭い彫り口を見せる在地仏師の造像になり、室町時代初期の制作と考えられる。
 珍奇な作例として銅造誕生仏と木造男神像がある。誕生仏は、一糸もまとわぬ赤裸で男根を露出し、右手を垂下し、左手を頭上に挙げ、蓮台に立つ。銅鋳造で、本体部と台座は別鋳造である。頭髪を後方になでつけた可愛らしい顔貌や、幼児らしいふくよかな体躯の表現に特色がある。しかも、ふつう誕生仏は、右手を挙げ、左手を垂下するが、この像は逆手になっているのが珍しい。さらに、台座の底部に「大明 宜徳 年製」と三行の陽鋳銘があり、中国・明時代の宣徳年間(1426~1435)の制作であることが知られる。誕生仏は、小像が多く、銅造が主流を占めるために、制作時期を明示したものが極めて少ない中にあって、本像の存在は極めて垂要である。男神像二躯は、髭をたくわえた老形と髭のない壮形にわけられるが、いずれも冠をかぶり袍を着けた通例の男神の像容に表現されている。檜材を使用した一木造で、胡粉下地彩色をほどこしている。この男神像は、冠の正面に十字(クルス)を刻んでいるところに特色があり、キリシタンの信仰を示す遺例とも考えられて興味ぶかい。  本光寺の彫刻は、一件雑多なものの集合のように見えながら、日本の仏像彫刻の正統性を示す江戸時代の作例から、島原地方の在地石工の造像、あるいは信仰を物語る作品まで、そして、在銘渡来仏である誕生仏など極めて興味ぶかい作例の存在など、今後の彫刻研究に資するものが多い。

c)工芸
 本光寺の工芸は、仏具と大名道具とに注目すべさ作品が多い。換言すれば、仏具は金工が主流を占め、大名道具は漆工が主体になっている。
 仏具は、勿論、禅系統の作品がほとんどである。そして、いずれも、深溝松平家の菩提寺の仏具らしく家紋をあしらったものが多い。たとえば、三具足は、重ね扇紋と三葉葵紋をもつ二種類が伝存している。三具足は、香炉・花瓶・燭台の三種類を一組としたもので、仏供養のなかでも最も重要な香・華・灯の三供養を組み合わせており、これを同じ卓上にならべる形式は禅系統の寺院の供養形式と考えられる。本光寺にのこる二種の三具足は、鋳銅製の極めて簡素なつくりながら、海波紋の中には松平家の家紋である重ね扇紋と三葉葵紋を鋳出している。また、鉢や茶湯器に重ね扇紋を刻んだものが多く、松平家の菩提寺としての格式を示している。これらの供養具とは別に、僧具の一つと思われる竹製線香入れは、身部に赤壁賦とそれを詠ずる蘇東坡の姿を陰刻してあらわし、「壬子孟夏中浣日東太白筆之刻之」と制作日、作者名を記している。瀟洒な竹工芸として興味深い。
 大名道具は、桐唐草竹雀紋、桐唐草丸に竪三つ引き紋をもつ蒔絵食器である。本膳・二ノ膳・三ノ膳の懸盤、飯椀、汁椀、壷椀、平椀、湯桶、銚子、水次などで、仙台笹に近い竹雀紋と源氏に多い丸に竪三つ引き紋をあしらっており、当初は松平家の食器として使用されていたと推測される。また、金銀蒔絵提重は、家紋はみられぬものの、大名道具らしい豪華な造りをみせている。さらに、朱塗野菜紋蒔絵汁椀十客一具は、各々蓋と身に、大根・瓜・茄子・なずな・胡瓜・鞘えんどう・唐辛子・筍・竹・えんどうを表現した優品で、蓋裏の銘に「蒔絵師 梶川」とある。蒔絵師梶川は、おそらく、寛文年間(1661~1673)に活躍した梶川彦兵衛、久次郎の一派を示したものと思われる。梶川派が、各種の蒔絵法を駆使して華美な作風を伝えたことは、この作品からも十分にうかがえる。
 また、漆工品として注目すべきものに沈金有蓋箱がある。この蓋表には、朱漆で地塗りした漆面に刀で花鳥図を針彫りし、生漆を摺り込んでから金箔を綿で押し込み、彫溝に金箔を定着させて図柄を表す沈金技法が見られる。しかも、花鳥の傍らに「宋紫石写」の刻銘があって、江戸時代中期の南蘋派の画家として活躍した宋紫石(1715~1786)の作品であることが知られる。宋紫石は、江戸の出身であるが、長崎で熊斐から南蘋流の花鳥画を学び、さらに、中国画法を修得して宋紫石と名乗っている。沈金技法は、中国より伝えられた技法であることが、宋紫石の中国的画風の表現に適していると考えられ、こうした興味深い作例を生み出したのであろう。

【6】建造物・建築指図類 (林 一馬)

a)建造物
 本光寺の建造物で歴史的な価値が認められる遺構としては、山門と常盤殿の二件を数えることが出来る。  山門は、明治2年に廃された浄林寺時代の遺構とみられるが、これについては既に「長崎県の近世社寺建築」(1986、長崎県教育委員会)に解説と実測平面図が収録されているので、ここでは割愛する。  他方の常盤殿については、島原城三の丸の一画にあって「常盤茶屋」と呼ばれていた御殿を明治初年に現在地に移築したものと伝えられている。本光寺蔵の寛文年間「島原藩士屋敷図」(市指定文化財)には、すでに当該御殿の敷地が見えるので、その創建は松平公の島原移封時に遡るとみられる。しかし現建物がその当時の遺構という証はない。この御殿の建設と移築に関する資料は見出されず、また年代判定の標となる細部様式や絵様等もないため、建設年代の特定は難しいが、主要材の古さの度合いからすれば十九世紀前半頃のものかと推定される。  建物は、間口十四間、奥行四間の長方形で、中央右寄りに玄関を置き、それよ左側には畳敷の部屋を並ベ、右側は元来土間で、台所、米倉、味噌蔵などに使用されていたとみられる。中心となるのは八帖の座敷だが、ここには床の間と違棚はあるが、上段や付書院は設けられていないように、全般的には茶屋という性格に見合って数奇屋風の意匠を基本としている。ただしこの座敷の天井のみは、他の部屋がすべて棹縁天井とするのに対して、一枚ものの龍の水墨画とするが、室内意匠的にやや異質な感が強いので、これは当初からのものかは疑われる。また今の玄関はやや厳格さを欠いた構えとなっているが、かっては現在本堂との連絡通路となっているあたりに式台が別に設けられていた可能性もあろう。いずれも移築時の改変かと思われるが、さらに近年には前記以外にも外壁仕上げと垂木より上の屋根部分が全面的に新材でもって修理されてもいる。

b)建築指図類
 屋敷図や城郭図などの場合、その名称においてはもちろんのこと、描写内容においても純粋に建物(群)の平面図に当たる指図類と配置図的な絵図とのあいだに明確な一線を画することは、必ずしも容易でない。そこでいまこれらを総称して仮に建築間係絵図(これの範囲をどこまでとするかも不確定だが、ここでは差し当たって特定の施設の建築的様態が窺えるものや何らかの意味で建築もしくは土木工事に関連するものまでを含めた)と呼ぶならば、本光寺所蔵資料における当該絵図の構成はおよそ次のようになる。
 すなわち総数七十二点、八十一枚(この数字は絵図の範囲の判定次第で若干前後す るが)のうち、指図類に該当するものが最も多く五十点、五十五枚と約七割を占めている。それ以外では、絵図とみれるものが十七点、十九枚でそれに次ぎ、建物の立面図や断面図に相当する「建地割」が一点三枚あり、その他は上段の床や違い棚の形状を示す「雛形」が一枚、平面図に各部屋の襖絵の画題を付箋で示した特殊なものが三枚あった。また指図類は一般に、比較的広い範囲の建物群の平面を描くいわゆる「指図」と、一棟ないし数棟の限定された平面を描く「小指図」(「一枚指図」とも)に大別されるが、その内訳は前者が四十五枚、後者が一枚(その他を加えれば十四枚)であった。
 次に、指図類以下を作図法によって、貼絵図(別紙に描いた平面等を台紙に貼り込んだもの)、書絵図(台紙に直接平面等を書き込んだもの)、貼紙付書絵図(書絵図の一部に貼絵図を加えたものやその全面に帯紙や付箋等を貼り付けるもの)等に分類してみれば、それぞれ三十五枚、二十一枚、六枚となる。  見られるように、「小指図」がすべて書絵図なのに対して、「指図」の方では貼絵図が圧倒的に多いことが分かる。小指図を別にして、ふつう貼絵図は書絵図よりも古い形態で、例えば江戸幕府の京大工頭を代々務めた中井家の文書では、その転換時期は十八世紀初頭の宝永年間前後にあったことが確認されている(平井聖編『中井家文書の研究 内匠寮本図面篇』全十巻、1976~1985、中央公論美術出版。以下の言及も同じ)。本光寺所蔵資料においても、全般的な傾向としてはそのように窺えるが、しかし両者の転換点はそれほど明確でなく、宝暦八年(1758)や天明五年(1785)の年号をもつ貼絵図が存在することからすれば、少なくとも貼絵図の下限はかなり下がるといわねばならない。ただし、このような年号の書入れがある指図は極めて限られており、また傍証としうる文献史料も現段階では末調査であるため、各図面の年代や同一屋敷における前後関係等はすべて今後の究明に委ねざるをえない。
 さて指図類においては、貼絵図の場合は一般に数種の色紙を使い分け、書絵図の場合でも着色のあるものは特定の目的を持って色分けしていることが多いが、その色分けの意図について分類を試みれば、御所分け一枚、新造古屋分け十三枚、丁場分け、屋根葺材分け九枚、床材分け一枚、その他九枚、不詳・不明十四枚のようになる。(ただし図面上の書入れによってそのことが直ちに判明するのは、整理番号127、1365、1878ー2、1881ー3のわずか四枚しかなく、他はすべて推定にすざないことを断っておく。
 台紙の劣化とか糊はがれがひどく開陳不能なものや、いずれとも推定しがたいため判断を保留したものなど「不詳・不明」の項も少なくないが、貼絵図では「新造古屋分け」と「屋根葺材分け」が殆どであった。その場合、新造古屋分けでは、新造部分を柿色、古屋部分を黄色で表示するものが多いが、そうでないものもあった。この点は各指図の年代や屋敷別に今後精査する必要があるといえよう。一方、屋根葺材分けでは、柿色・黄色・青色の三色もしくはそのうちの二色を用いるものが殆どであったが、青色を瓦葺に当てる点は整理番号1877を除いてほぽすべてに共通するところであった。他の二色もしくは一色は柿葺か桧皮葺とみるのが順当であろう。前述の中井家文書でも、屋根葺材分けの場合は江戸中期以降、色対応が固定するといわれるが、同じ傾向をここでも見いだすことができるというわけである。その他の項目に分類した整理番号1876は、建物部分は床材に関係なくすべて茶色とするが、濡れ縁のみ青色とするものであった。
 なお、整理番号1881ー2ように改築前後の平面を重ね貼りして基本的に新造古屋分けでありながら、柿色−部屋内と廊下、黄色−上間、紺色−濡れ縁といった床材分けを組み合わせている例や、整理番号1159のように一部に新造部分を示しながら、白色−「牡丹の間」という三十二畳敷の部屋を主室とする表向きの御殿、柿色−家族の住居に相当する内向きの御殿と長屋、といった鮮やかな対比を示して、一種の御所分けとみれるものもあった。また中井家文書では、慶長・元和の最初期の貼絵図に限って、白い台紙に白紙に描いた平面を貼付けた無彩色の貼絵図がみられるというが、整理番号126「京屋敷絵図」は形態上ほぼこれに該当している。ただし、この指図が江戸前期に遡るものであろうことは確実視されるが、それほど初期のものか否かは今後の検討を要するであろう。描写内容からすれば、それは無彩色の書絵図の典型的な事例とみられる整理番号125の下絵か控えだろうと推量されなくないからである。  他方、書絵図では、新造古屋分けの場合は新造部分のみ着色しており、その他では建物の細かい機能を分別するために多彩色とするもの(121、1896)のほか、外構と区別するために建物の全面を単色か二色で塗り潰すもの(227ー3、806)、濡れ縁や水廻りなど建物の一部にのみ着色するものとなっていた。
 ところで、指図等を描くには、ふつうまず台紙上にへラ引きか墨(または朱)引きによって、柱間一間(六・五尺が多い)に相当する一定間隔の格子の罫線を引き、その上に同一縮尺で平面等を描いた色紙を貼るか直接墨書するのであるが、その場合、格子の間隔が何分になっているかによってその縮尺を二分計とか六分計などと呼ぶ。  六分計よりも小さな縮尺では、殆どへラ引きであるのに対し、八分計以上になると墨引きが多くなる。しかも後者の場合は、貼絵図はすべて墨引きとなり、書絵図では当然ながらすべてへラ引きとなる点が特徴的である。
 最後に、内容について特徴的な点について触れておけば、指図類の大半は江戸を中心に設営された島原藩ないし藩主の屋敷建物の平面を描くものであったこと、とりわけ数寄屋橋御上屋敷に関するものがもっとも多くて十数葉を数えること、またこれを中心に屋敷地の形状に合わせた不整脈で大判の指図が多いこと、大坂蔵屋敷に関するものは四枚の指図と共に普請帳が二冊揃っていて資料的な価値が高いこと、整理番号124「浅草中屋敷絵図」や整理番号125・126「京屋敷絵図」をはじめとして江戸前期に遡るかと推量される指図や、江戸中期に下がるが年代の明らかなものが含まれていること、などの諸点が特に注目されるところであろう。


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このページは、文化庁補助事業・平成六年度重要文化財調査報告書
(島原市本光寺所蔵古文書調査報告書)に基づいて作成しました。

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