涙の追っかけ日記

last modified at 1998.08.08

初出 : 同人誌 Cecilia No.12 (1997.02)

[04.20] [04.24] [08.15] [PROGRAMME]
僕を知って居る方なら御存知でしょうが・・・僕は引っ込み思案で、石橋を叩いても渡らない性格です。 それが、一旦調子に乗ると、途端に図々しいヤツに豹変する(^^;)
「三食、ご飯と味噌汁が無きゃねぇ」「日本語が通じないんでしょ?」と、31年間言い張って居た僕が、今年01月中旬、チケットも持たず、半ば自棄糞で訪れたMünchenで、4好演全てを聴く事が出来た途端、「次は何時行こうかしらん(^_^)v」となるのは自明のことでした。
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1996.04.10
チケット手配代行業者に依頼して居たことさえ忘れて居た(^^;)が、勤務先に電話が有り、1996.04.23の券が手に入ったことを知る。 慌てて、飛行機とホテルの手配。
さて、既成事実は出来た・・・「来週週末から休暇が取ります!」と訊ねれば、良い顔はしないものの、それでもOkayを貰えるのが僕の上司の良い所(^_^)v

1996.04.14
München在住のT氏にtel.。
「今のところ、悪い噂は無いですよ。 火曜からプローベの予定ですから、心配ならまた電話して下さい。」

1996.04.19
結局T氏とはその後連絡が取れなかった・・・現地時刻朝、シベリア上空から電話して、ようやく繋がった。(* 料金が高いのは恐かったが、一度飛行機から電話してみたかった・・・尤も、1996.12.08現在、未だカードの引落が無い・・・そうと判って居れば、もっと長電話するんだった :-P *) 「火曜水曜はプローベをやったんですけど、木曜のプローベが突然中止になって・・・風邪という噂も有る様です」「え”ッ・・・・」「楽団からは未だ何も発表になって居ないから・・・ルプーの希望で、プローベを非公開にしただけかもしれないし。」「まぁ、今更ガタガタ言っても、乗っちゃいましたから(^^;)」「そうですね。 僕は週末、グルベローバの追っかけでViennaに行きますので、2日目からお会いしましょう。」
前回同様入国は呆気ない。 今回は、係官さえ居なかった。 依って、未だ僕のパスポートには独逸のスタンプが無い。 定刻より約10min遅れた機体から降りたのが21:05頃・・・で、21:13には地下駅のホームで煙草を吸って居た。
ホテルにcheck inすると、T氏からの伝言が・・・「チェリのゲネプロとしては異例のことですが、整理券を配布して居たので確保しておきました。」
彼のGive&Give、僕のTake&Take・・・2つ合わせれば、麗しいGive&Takeとなる。 感謝。

1996.04.20
図らずもゲネプロの予定がはっきりした。 と言う訳で、ちょっと早めにしかし余裕の表情でGasteigへと向かう。 当日券売り場の辺りが何やら騒々しい・・・「どうせ、入場券の取り合いでしょ。 あたしゃ、確保したもんね(^_^)v」と余裕の表情でdie Informationの方に引き返す(* こっちにも灰皿が有る *)。
「あれっ!? 来てたんですか? 残念でしたね(>_<)」・・・München在住のS氏の声。
「え”っ?!『残念でしたね(>_<)』??」
「えっ? 掲示が出てたでしょ?」・・・んなこと言われたって、あたしゃ独逸語は読めない(>_<)
もしかしたら、未来の大指揮者の歴史的な代役演奏会を聴く機会を得たのかもしれない・・・などと、半ば自棄糞な思いで聴いたゲネプロは・・・やはりスカだった。 特にメゾフォルテ「のみ」で構成されたシューベルト。 僕の乏しい想像力では、チェリがどんな音楽を4日前のプローベで創ろうとして居たのか、全く思い描くことは出来なかった。(* 尤も、2日間のプローベを聴いて居たT氏も23日の本番を聴いて「チェリの指示の片鱗も残って居なかった。」と言って居たが *)

1996.04.24
前夜、T氏から誘われて居たバイエルン放送響のゲネプロに出向く。
今更、演奏会を聴こうという気にはなれなかったが、まぁゲネプロなら面白いかもと思ったのと、Herkulessaalの音を聴いておきたかったので・・・でも何で20.00 DMも取るんだよと思いつつ、座席に座る。
Herkulessaalの音は素晴らしかった・・・ちょっと音量が増すとすぐに音が飽和するのが難点ではあったが。 そして、バイエルン放送響の巧さ、特に弦のピアノの美しさ。
また、期待外れに(?)良かったのが、Kissinだった。 速い楽章でのホンキートンク紛いの音はCDから予想して居た通りの音だった。 それが遅い楽章で豹変した。 何と色っぽい音を出すんだろうか。 これがKissinなのか・・・と思ったら、3rd mov.で再び、トイ・ピアノの音に戻ってしまったのだけれど。
遅い昼飯の後、「来シーズンまた来ますから(^_^)/"」と、T氏と別れる。

1996.06月中旬
T氏より手紙を頂く。 06月の演奏会、プローベと2日目と最終日を聴いたという彼の手紙は、チャウシェスク政権から亡命したという同郷のソロイストに対する「何でこの程度のピアニストがチェリと共演を?」という不満と、ベト2を「発見」させられてしまった彼の驚きが綴られて居た。

1996.06月中旬
来シーズンの予定を入手。
Openingは、09月上旬の泥棒カササギ、マ・メール・ロワ、展覧会の絵・・・昔得意として居た曲ばかりで、特に、冷ややかな透明感の有るRavelが再び聴けるのか、或は、晩年特有の(* 想像したくは無いが *)何でもBruckner風に聴こえてしまう音作りをRavelに対して仕掛けるのか・・・どちらに転んでも楽しみな演奏会である。

1996.08月上旬
定期預金から2往復分を部分解約(^^;)した。 勿論、1往復分で足りるのだが、未だ、昨年の内に売り切れたと言う09月29日の聖フローリアン教会の演奏会に未練が有る。
1日限りの演奏会で券無しに乗り込む勇気は無いが、もし、09月上旬に現地で券が手に入れば、土曜成田発、月曜現地発で、月曜と火曜午前の1日半休むだけで何とかなる。
来シーズンのことも考えると、有給休暇の残りが心許ないが、いざとなれば、休日出勤で代休を稼げば良い(^^;)
ともかく、09月上旬の券の手配は済んだ。 飛行機もホテルも無事押さえた。

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1996.08.15
新宿出張だった。 会議が長引き、「んじゃ、今日はこの位で」と一応の決着を見た時、時計は既に渋谷Towerさえ閉店して居る時刻。 折角出張したのに、買出しが出来ないじゃないかと不機嫌な表情をしたのは22:05頃。 御疲れ様でしたと食事とビールを流し込むと、常磐線土浦駅行き終電に何とか間に合った。 帰宅してniftyのautopilotを立ち上げ、シャワーを浴びてからlogに目を通したのは、翌1996.08.16 01:30頃。
Tape collectionの交換をして居るNew York郊外のK氏からのmailのsubjectを見た瞬間
「Celi dead」・・・僅か4行足らずのmailだった。
「え?誤報でしょ?」と、一瞬微笑んだ。 「微笑む」という行動は、今から思うと奇異に感じるのだけれど、確かにあの時、意味も無く、僕は笑った。
そして、時計が急速に回転し始めた。

未だnewsを信じて居なかった・・・数年前にも「誤報」が有ったことだし・・・現地なら何か情報が有るかと、Münchenに電話した。 7時間の時差だから、現地は1996.08.15 19:00頃。 幸い、T氏は在宅。 「えっ!? 本当ですか? 実は今日は祝日なんで、新聞休刊日なんですよ。 これから晩飯でも喰いに行こうと思って居たところなんで、号外が出て居るかどうか見て来ます。」「じゃ、また電話します。」

Niftyserve fcla一般会議室を見れば、既に訃報の書き込みも有る。 別の方の書き込みで通信社のサービスに既に登録されて居るのを知り、早速参照した。
Bernsteinの時もCoplandの時も思ったのだけど、the Internet mailって何て素晴らしいんでしょうねぇ・・・聞きたくも無いnewsさえ素早く流れてくる。

時計は1996.08.16 05:00を過ぎて居た・・・01:30頃からそれまでの間、本当に自分が何をして居たのか記憶が無い。 朝刊が届いた音がしたので、急いでめくる。 確かに死亡記事が載って居た。 不思議なものだ・・・商用BBSとかthe Internetとか、日常、電子媒体を、自分なりに使いこなして居るつもりだったのに、新聞という古典的媒体を見て、初めて、目にしたことを事実だと認めようとして居る。 僕は、思った以上に古風なのかもしれない。

再び、T氏に電話する。 「事実みたいですねぇ・・・20:00から22:00まで、Bayern4というFM局で、追悼番組を放送して居ましたよ。 1983年のヘラクレスでの海と、1989年のガスタイクでのブル9でした。 こんな時にブル9なんて悲し過ぎますよねぇ」
後から届いた請求書に依ると、ため息と沈黙だけで¥5 Kの国際電話だったらしい。

ようやく事実を事実として受け止めはしたものの、受け入れたという気はしない。 悲しいと感じるとか、泣くとかいったことは無かった。 ただひたすら、呆然として居た。
そういう状況でも、食欲は有る、睡魔は襲う。 7-11で弁当を買い、店頭にある全ての種類の新聞を買って、部屋に戻り、下戸な僕の1年分に相当する酒を流し込めば、意識は夕刻まで戻らない。
お蔭で、翌月曜、上司に「金曜の朝刊を見て予想はしたが・・・無断欠勤はしない様に」と言われてしまう事態となったのだが。

不思議と宿酔いにはなって居ない。 意外に冴えた頭で、旅行業者に電話し、航空券とホテルの予約をキャンセルした。 チケット手配代行業者にも、チケット手配の中止を依頼した。 そして、僕の夏休みは、消えた。


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