世界の動きの中に鍵をにぎるようなキ−パ−ソンがいる。その人の行動や思想なりが多くの人々を揺り動かすのだ。こういうキーパア−ソンの周辺に、その人の情報を伝達したり武器を用意したり保護したりする人々が集まり関わってくる。つまりこういう人々が時勢をつかみ時のうねりを生み出していくのである。
梅屋庄吉は、そういう時のうねりを生み出した一人だ。
借財をおって南洋に飛び出した冒険野郎がいつしか中華革命同志の伝説上の人物となり、日本で日活という映画会社を作りだすに到る奇想天外な人生も、幾つかの「めぐり合わせ」が用意した轍のせいだろう。

梅屋正吉は明治時代1868年に長崎の米屋に生まれた。場所柄、大陸や南洋に憧れる冒険心あふれる人物であったようだ。朝鮮で不作の時に米を売って大もうけするが、次の年には 朝鮮が豊作であったという単純な理由で逆に借財をつくってしまった。
日本に居づらくなり南方を歩き回った梅屋は1898年に香港に身を落ち着け写真屋を開いた。 そしてこの地での梅屋は、中華革命に挫折した中国人やそれらを支援する華僑との出会う。
これは彼の人生の大きな「めぐり合わせ」になった。
1895年に孫文の清朝打倒のための最初の広東武装蜂起が失敗し、逃れてきた彼らは香港に集まり次の機会を狙っていたのである。 梅屋はここで血を滾らせた。彼らをかくまいつつ地下組織と繋がっていく。ただし梅屋にどんな思想的理念があったかは疑問で、どちらかといえば国士気取りだったのだろう。
しかし彼の動きも官憲に知られるところとなり、香港を去りシンガポ−ルに渡る。
このシンガポ−ルで彼は彼の人生を彩ることになるもうひとつと「めぐり合う」ことになる。
それはヤクザくずれの映画・興業師との出会いであった。シンガポ−ルにはフランスの映画会社のパテ社の支店もあったために、その興業師とともに香港で買い込んでいた映写機を使って上映活動などをした。
これが意外と成功した。梅屋は革命亡命者ということになっていたので興中会が後押しして、テントや椅子・設備などを貸してくれ、ついでに宣伝なども行ってくれた。
つまり梅屋庄吉はシンガポ−ルの地で初めて映画との関わりをもつことになったのである。

1904年に日露戦争がおこり、シンガポ−ルにも渡ってきた戦争実況映画をスクリ−ンに映すなかで梅屋の心に次第に望郷の念がおこってくる。
先立つ1900年恵州武装蜂起に失敗し日本に亡命した同志が、革命の拠点を東京に移し1905年には「中国革命同盟会」が結成されたことを知った。
そして1906年ついに梅屋は日本の土を踏むことになるが、この頃彼の名前は中国革命同盟会にも良く知られる伝説上の人物になっていたのである。
さらに彼のトランクには、日本人がまだ見たこともない色彩フィルム大作がつまれていた。 そしてさっそく新富座をはじめ映画興行を行い人々の注目を集めていく。映画人としての成功をある程度おさめた梅屋は、新宿区大久保の地に撮影所を兼ねた自宅をたてた。
そして梅屋はこの自宅に数人かの中国亡命者をかくまったのである。その中には蒋介石もいたのである。

ところで日本と中国指導者との関係でいうならば、蒋介石と日本との関係こそ「めぐり合わせ」という言葉が似合うケ−スはないかと私は思っている。
なぜなら、蒋介石は日本に留学し新潟高田の歩兵連隊で軍事を学び、中国に戻り1924年には日本の軍事教練を取り入れた黄埔軍官学校校長に就任している。日本はその蒋介石の国民党軍と戦い、敗れるという皮肉な「めぐり合わせ」を辿ったのだから。
蒋介石の心のうちまではわからないが、日中戦争時は国民党のリ−ダ−として毛沢東の共産党と戦い日本と矛先を交えようとはしなかった。ただし蒋介石が張学良に拘束された西安事件で、周恩来や孫文の妻・宋慶齢に説得され共産党と合流しようやく日本軍と戦うことになったのである。
戦後は「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と称する「寛大な対日政策」に基づき日本兵の中国大陸からの復員に対し最大限の便を図ったとされている。
蒋介石のこうした宥和的対日姿勢には、ある部分日本に留学し学んだという経験からくると考えるのは、間違っているだろうか。

そういえば梅屋庄吉が創立した日活の映画に「嵐を呼ぶ男」というタイトルの映画があったが、このタイトルは梅屋庄吉の人生にもにある程度あてはまるかもしれない。
孫文や蒋介石といったキ−パ−ソンの周辺にあって、彼のような人物が居るか居ないかによって時勢のうねりも嵐のように大きくなったり、また凪いだりするのではないだろうか。